41.帝を抱く劉備、涼州へ向かう呂布。動き出す天下
三州を併呑した曹操は、許都の政庁にて、静かに地図を見下ろしていた。
河北には袁紹がいる。
独立した地域とはいえ、河北には帝という“旗”がある。
あの男なら、必ず天下を手中に収めようと動く。
諸侯に臣従を迫るとき、袁紹は帝の存在を利用するだろう。
「漢の正統は我にあり」と。
その言葉だけで、揺らぐ者は少なくない。
曹操は、地図の上に指を滑らせながら、ひとつ息を吐いた。
「袁紹が臣従を迫ってきた時こそ、決着の時だな」
そのとき、廊下を駆ける足音が近づき、密偵のひとりが膝をついた。
「報告いたします。神域に動きがありました」
「神域……?」
「はい。劉備軍が民を率い、新たな土地に城郭、いえ、街を築き始めたとのこと。神域からの援助もあるようです」
曹操の眉がわずかに動く。
「劉備が、か」
「さらに帝が、神域を出て、その劉備軍の城郭へ移られるとの噂が」
室内の空気が、わずかに冷えた。
帝。
漢王朝の象徴。
力は無い。だが、その血筋だけで守られ、祀られ、利用される存在。
そして今、その帝を守るのは劉備。
劉皇叔と呼ばれ、仁の将として民に慕われる男。
帝を抱えた劉備軍は、もはや“帝の直轄軍”と見られてもおかしくない。
曹操は、机に置いた指先で静かに机面を叩いた。
「劉備は、天下を望むのだろうか?」
密偵は首を振る。
「いえ。あくまで民のため、という意識が強いようです。異形との戦には積極的ですが、天下の情勢には興味が薄いかと」
「ふむ」
劉備が本気を出せば、十万の兵などすぐに集まる。
関羽、張飛といった豪傑が率いれば、その軍勢は容易に侮れない。
だが、劉備自身に野心は無い。
それが、救いであり、同時に厄介でもあった。
野心が無い者ほど、民はついていく。
帝を守る者ほど、正義に見える。
曹操は、静かに目を閉じた。
「帝が劉備のもとに移る、か。面倒なことになった」
密偵は深く頭を下げ、退室した。
残された曹操は、再び地図を見下ろす。
河北の袁紹。
神域と劉備。
そして、迫り来る異形の脅威。
天下は、静かに、しかし確実に動き始めていた。
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呂布は、神域の門前に立ち、振り返った。
背後には、廠がいた。
短い間ではあったが、異形との戦で傷ついた彼と五百騎を受け入れてくれた恩人である。
「世話になった。廠殿」
呂布は、いつもの豪胆さとは違う、どこか静かな声音で言った。
廠は笑って首を振る。
「礼などいらない。お前たちが無事であれば、それでいい。だが、本当に行くのか?」
呂布は、遠く西を見た。
涼州。
かつて馬の蹄音が絶えず、武勇の誉れ高き将たちが生まれた土地。
だが今は、異形が跋扈し、人の住めぬ荒野と化している。
「涼州は、俺の故郷だ。あそこが異形に蹂躙されていると聞いて、黙ってはいられん」
五百の騎兵が、呂布の背後で整列する。
彼らもまた、故郷を失った者、家族を異形に奪われた者ばかりだった。
廠は、しばし呂布を見つめ、やがて静かに言った。
「気をつけろ。涼州は、今の異形の巣窟だ。呂布殿の武でも、容易ではない」
呂布は、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「容易でないからこそ、行く価値がある。俺は、戦うために生まれた男だ」
その言葉には、虚勢も、誇張もなかった。
ただ、呂布という男の“本質”がそこにあった。
廠は、深く息を吸い、呂布に向かって手を差し出した。
「ならば、せめて、生きていてくれ」
呂布は、その手を力強く握り返した。
「約束しよう」
そして、呂布は馬に跨がり、五百騎を率いて神域を後にした。
その背中は、どこか孤独で、しかし揺るぎない炎のように見えた。
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涼州へ向かう街道は、かつての賑わいを完全に失っていた。 村は焼け、畑は荒れ、風に乗って漂うのは、血と腐臭の混じった重い空気。
やがて、先頭を行く騎兵が叫んだ。
「将軍!前方に……人影が!」
呂布は馬を走らせ、丘の上から見下ろした。
そこには、黒い霧のようなものが渦巻き、その中から異形が這い出していた。
人の形をしているようで、していない。
獣のようで、獣でもない。
涼州は、すでに“地獄”へと変わり果てていた。
呂布は、槍を構えた。
「……帰ってきたぞ、涼州。まずは、お前たちを斬り払ってやる」
五百騎が、呂布の背に続く。
その姿は、まるで荒野に差し込む一筋の光のようだった。




