40.新天地開拓へ。荒野に舞う白馬の槍。趙子龍、見参。
帝を神域へ迎えてから、季節がひとつ巡った。
帝がいる──ただそれだけで、民は安心した。
異形の影は消え、夜に怯える声もなくなった。
人々は噂を頼りに神域へと流れ込み、やがてその数は、領地の許容量をとうに超えてしまった。
廠と織は、日ごとに増える炊き出しの列を眺めながら、頭を抱えていた。
「……これ以上は、さすがに厳しいね」
「うん。誰も追い返したくはないけど……」
そんな折、神域の門前に劉備が姿を見せた。
「廠殿、織殿。ひとつお願いがあるのです」
劉備は地図を広げ、神域の西側にある、荒れ果てて、誰も住んでいない広大な土地を指した。
「この地を、民の移住先として開きたい。神域で抱えきれぬ者たちを、私が連れて行きます」
廠は、ほとんど間を置かずに頷いた。
「なるほど。いいよ、食料もこちらで援助する。あの土地なら、開墾すれば十分に暮らしていけるはずだしね。よろしくお願いします」
あまりにあっさりとした返答に、劉備は一瞬だけ言葉を失った。
──この男は、他の諸侯とは違う。
劉備には狙いがあった。
あの広大な土地なら、数万の兵を養える。
民を守るための力を持つことは、乱世を生き抜くための最低条件だ。
だが廠は、その思惑を知ってか知らずか、まるで気にする様子もない。
「民が安心して暮らせるなら、それでいいよ。劉備殿なら、きっと上手くやってくれると思うし」
その言葉に、劉備は胸の奥がわずかに熱くなるのを感じた。
この神域は、ただの勢力ではない。
人を見て、人を信じて、未来を託す場所だ。
「……恩に着ます、廠殿。必ずや、この地を守り抜いてみせましょう」
劉備は深く頭を下げた。
その背に、廠は静かに微笑む。
こうして、神域の西に新たな開拓が始まる。
それは後に、乱世の勢力図を大きく揺るがす一歩となるのだが、この時、誰もまだ気づいてはいなかった。
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太行山脈を越えた并州・上党郡の荒野。
その広大な地こそ、劉備が開拓を目指す場所だった。
劉備が神域を発つと、民たちも自然とその背に続いた。
老若男女、荷車を押す者、子を抱く者、その数、およそ一万人。 これだけの人数がいれば、荒野の開墾も夢物語ではない。
だが、問題は二つあった。
ひとつは、いつ現れるとも知れぬ異形の脅威。
もうひとつは、開墾が軌道に乗るまでの食料である。
とはいえ、後者については廠が惜しみなく支給してくれた。
その援助があれば、次の季節の収穫までは、どうにか持ちこたえられるだろう。
劉備は、山脈の向こうに広がる荒野を見据えていた。
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太行山脈を越えて三日目。
開拓民の列は、荒野の風に砂を巻き上げながら、ゆっくりと西へ進んでいた。
その時、先頭を行く斥候が、血相を変えて駆け戻ってきた。
「劉備殿! 前方に……異形です!」
ざわり、と民の列が揺れる。
荒野の向こう、陽炎のように揺らめく黒い影が、いくつも、いくつも現れた。
劉備は馬を進め、静かに槍を構えた。
「皆、下がれ。ここは我らが受け持つ」
関羽が青龍偃月刀を肩に担ぎ、張飛は蛇矛を地面に突き立てて吠える。
「ようやく暴れる相手が出てきやがったな!」
「兄者、任せておけ。すぐ片付ける!」
異形の群れが砂煙を巻き上げて迫る。
その姿は獣とも人ともつかず、歪んだ四肢で地を蹴り、咆哮を上げた。
だが、劉備軍は怯まない。
「──行くぞ!」
劉備の号令とともに、先鋒が一斉に駆け出した。
関羽の一撃は、まるで風を断つように静かで、しかし重かった。
青龍偃月刀が弧を描くたび、異形が二つ、三つと地に沈む。
張飛は荒野に響く咆哮とともに突撃し、蛇矛で異形をまとめて弾き飛ばす。
その勢いは、まるで山をも揺るがすかのようだった。
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白馬にまたがる青年、その姿は、戦場の混乱とは不釣り合いなほど静かで、澄んでいた。
少し先に、異形と戦っている軍が見える。
その軍は、異形を圧倒していた。
「……まだ残っていたか」
青年は呟くと、馬を軽く蹴った。
白馬は風のように駆け、異形の群れの中へと飛び込む。
その動きは、まるで舞うようだった。
槍がひと振りされるたび、異形が倒れ、砂が舞い上がる。
無駄がなく、速く、そして美しい。
突如として現れたその男に、関羽が目を細める。
「……見事な槍だ」
張飛も思わず口を開けた。
「なんだあの若造は。やるじゃねえか!」
やがて、最後の異形が崩れ落ちると、青年は槍を収め、劉備の前で馬を止めた。
「お初にお目にかかります。趙雲、子龍と申します。劉備様の軍とお見受けします」
劉備は馬上から静かに青年を見つめた。
その眼差しには、戦いの最中とは思えぬ落ち着きと、深い誠意があった。
「確かに、我々は劉備軍だ。趙雲殿、助太刀、感謝する。だが、なぜ我らを?」
趙雲は槍を立て、深く頭を下げた。
「この荒野に異形が現れると聞き、討伐に向かっておりました。しかし、すでに戦が始まっておりましたゆえ、加勢したまでです」
劉備は頷き、穏やかに微笑んだ。
「助かった。民を守るための戦いに、貴殿の力は大きかった」
趙雲は一瞬だけ目を伏せ、そして意を決したように顔を上げた。
「……劉備殿。ひとつ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「なんだろう」
「なぜ、これほど多くの民を連れて荒野へ?異形が跋扈し、耕地もない地へ向かうなど、常の将ならば選ばぬ道です」
劉備は荒野の向こうを見つめた。
その眼差しは、戦場の喧騒とは別の、静かな強さを宿していた。
「我々は、神域を拠点にしていたのだが、神域がもう一杯で、ようやく遠方から流れ着いてきた民の居場所が無くなってきた。そこで、神域の長である廠殿の力を借りて、新たに開拓しようと思ったからだ」
趙雲は息を呑んだ。
その言葉には、虚飾も打算もなかった。
「……仁の将、とは、こういう方を言うのですね」
関羽が腕を組み、静かに言う。
「趙子龍、その目に狂いはあるまい。兄者は、民のために剣を振るうお方だ」
張飛も豪快に笑った。
「お前みたいな槍の達人が仲間になりゃ、百人力だぜ!」
趙雲は馬を降り、槍を地に突き立て、深く膝をついた。
「劉備殿。 もし許されるなら、この趙子龍、あなたの旗の下で戦いたい。民を守り、乱世を正すために、力を尽くしたいのです」
劉備は馬を降り、趙雲の前に歩み寄った。
その手を取り、静かに言う。
「こちらこそ、頼もしい仲間を得た。趙雲殿、これから共に歩んでほしい」
趙雲の瞳がわずかに揺れ、やがて強い光を宿した。
「はっ──この命、劉備殿にお預けいたします」
荒野の風が吹き抜ける。
異形の死骸が転がる戦場の中で、 劉備軍に新たな柱が加わった。
それは後に、数々の戦場で語り継がれる名将、趙雲子龍の始まりであった。




