38.三勢力、静かなる覇権の胎動
曹操軍は許昌へ戻ると同時に、徐州・兗州・豫州の三州の統治に着手した。
異形の脅威が日増しに強まる中、これらの広大な地域を守れるだけの軍事力と統治能力を持つ者は、もはや曹操をおいて他にいなかった。
民も官も、
「異形から守ってくれるのは曹孟徳しかいない」
と、半ば当然のように受け止めていた。
曹操自身もそれを理解していた。
彼は野心家であると同時に、現実を見て動く男だった。
三州の統治は、彼にとって覇道の一歩であると同時に、民を守るための責務でもあった。
異形が跋扈する乱世において、人々が頼れるのは、もはや曹操のような、力を持つ者だけだった。
----
許昌の本営にて、曹操は政務の報告を一通り受けると、すぐに夏侯惇と荀彧を呼び寄せた。
軍議の間には地図が広げられ、徐州・兗州・豫州の境界線が灯火に照らされている。
荀彧が静かに頭を下げた。
「殿。三州の官吏は、異形の脅威に怯え、民もまた守りを求めております」
曹操は頷いた。
「分かっている。今こそ内政を固めるべき時だ」
荀彧は頷いた。
「袁紹に匹敵する軍を持つまでは、無理な戦はできませんな」
「荀彧、お前に任せる」
曹操がそう言うと、荀彧は深く礼をした。
「承知いたしました。すべて急ぎ進めましょう。異形に対抗するには、民の暮らしがまず安定せねばなりません」
曹操は次に夏侯惇へ視線を向けた。
「夏侯惇。軍の調練は一日たりとも怠るな」
夏侯惇は拳を胸に当て、力強く答えた。
「はい。殿、お任せください」
曹操は地図を見つめながら、静かに言った。
「袁紹は大軍を持つ。だが、あれは“動きの鈍い巨象”だ。我らは違う。三州を固め、兵を鍛え、いずれ必ず、天下を争う力を得る」
曹操はただ前を見据えていた。
乱世の中で、守るための力を蓄える時期が始まったのだ。
----
帝を追って許昌へ向かったものの、曹操にも帝にも会えずに戻ってきた袁紹。
鄴へ帰還するとすぐに家臣たちを集めた。
地図の上には、河北四州。
冀・幽・并・青の広大な領域が広がっている。
袁紹は腕を組み、静かに言った。
「帝は取り逃がしたが、神域は河北の中だ。つまり、我が統治の内にある」
田豊が頷く。
「はい。神域におられる限り、陛下は安全でございましょう。異形も寄りつかぬ土地、むしろ、最も守られた場所かと」
逢紀が続ける。
「殿が帝を迎えられなかったのは残念ですが、帝が河北におられる以上、いずれは殿の威光に帰することになりましょう」
袁紹は満足げに頷いた。
「そうだ。我が河北四州の国力は、天下に並ぶものがない。兵糧も豊か、兵も強い。このまま力を蓄えておれば、いずれ諸侯など、皆ひれ伏す」
その言葉に、家臣たちは静かに頭を下げた。
確かに、袁紹の言う通りだった。
河北四州は人口も豊かで、農地は広大、兵力は他の諸侯を圧倒しており、異形の被害も少ない。
袁紹は地図を見つめながら、ゆっくりと拳を握った。
「帝がどこにいようと、天下を治めるのは、この袁本初よ。焦る必要はない。力を蓄えれば、天下は自然と我が手に落ちる」
その言葉には、確かな自信と、わずかな慢心が混じっていた。
家臣たちはそれを感じながらも、誰も口には出さなかった。
袁紹の河北は、確かに強大だった。
だが、その強さが“動きの鈍さ”にもつながることを、まだ誰もはっきりとは言えなかった。
----
孫堅は、今日も大型船で移動していた。
袁術亡きあとの混乱は、孫家が介入すると、まるで霧が晴れるように収まった。
孫堅軍は、長江を縦横に使った輸送網を構築し、荊州南部と揚州全域をその支配下に収めていた。
兵糧は長江を通じて迅速に運ばれる。
荊州南部の豪族たちは孫策と周瑜の統治に従い、揚州は柴桑を中心に安定した行政が敷かれた。
孫家の声望は高まり、「江東の孫氏こそ、乱世を治める器」と評されるようになった。
孫堅は柴桑を本拠地とし、揚州全域を直接統治する。
孫権は、兄の孫策と違い、成長と共に、内政に興味を示すようになった。
今では、張昭をはじめとした文官達と共に、内政の指揮を執っている。
荊州南部は孫策と周瑜が治め、軍事・行政の両面で隙のない体制が整えられている。
孫堅は、揚州孫堅軍の総帥、長江水軍の掌握。
孫策は、荊州南部の統治、豪族の取りまとめをしていた。
その補佐に周瑜がいて、軍政・外交・水軍の運用全てを担っていた。
南方はかつてないほどの安定を見せていた。
----
柴桑に戻ってきた孫堅は、本営で地図を広げながら、家臣たちに語った。
「揚州と荊州南部を固めた。次は益州だ。ここを得れば、天下の半ばは我が手に落ちる」
益州は険しい山岳に囲まれ、外敵が侵入しにくい天然の要害。
ここを押さえれば、孫家は南方の巨大な経済圏と軍事力を完全に掌握することになる。
長江水軍に、荊州南部の騎兵。
揚州の豊かな農地に加えて、益州の堅牢な地形。
これらが一つにまとまれば、孫家は袁紹・曹操と並ぶどころか、天下を二分する覇者となる。
家臣たちは静かに頷いた。
「殿。孫家の時代が、いよいよ始まりますな」
孫堅は地図を見つめ、ゆっくりと拳を握った。
「乱世を終わらせるのは孫家だ」
その声には、確かな自信と、揺るぎない覇気が宿っていた。




