37.帝は畑を耕す。そして大商人、出番待ち
帝は、従者たちと相談した末に、畑を耕すことを選んだようだった。
野営地のそばにある未開墾の土地へ向かい、鍬を手に取る。
現地の者が指揮を執り、土地の見方や土の起こし方を手短に教える。
帝は慣れぬ手つきながらも、めげることなく鍬を振り下ろしていた。
従者たちも最初は戸惑っていたが、やがて帝に倣い、黙々と土を掘り返し始める。
周囲の神域の民たちは、遠巻きにその様子を見ていたが、誰も特別扱いはしない。
ここでは、身分も血筋も関係ない。
“働く者”だけが、生きる場所を得る。
帝は額の汗を拭いながら、何度も鍬を振り上げた。
その姿は、これまでのどんな儀式よりも、よほど“帝らしく”見えた。
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帝の一行を預け、廠は神域の奥へと歩いた。
夜気は冷たく、遠くで焚き火の煙が揺れている。
織の寝所の前に立つと、灯りがひとつ、柔らかく漏れていた。
廠が戸を開けると、織は机に向かい、筆を置いたところだった。
「……戻ったのね」
織は振り返り、ほっとしたように微笑む。
その表情に、廠の肩の力が少し抜けた。
「帝を連れてきた。しばらくは騒がしくなる」
「あなたが無事なら、それでいいわ」
織は立ち上がり、廠の外套に触れた。
砂と風の匂いが染みついている。
「寒かったでしょう。湯を沸かしてあるわ」
廠は軽く頷き、織の手を取った。
その手は温かく、戦場の緊張がゆっくりと溶けていく。
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一方、紅陽は騎馬隊の点呼を終え、
静かにかすみの寝所へ向かった。
戸を叩くと、すぐに灯りが揺れ、かすみが顔を出した。
「紅陽さま…お帰りなさいませ」
その声には、安堵と少しの心配が混じっていた。
「遅くなった。帝の護衛でな」
「ご無事で…よかったです」
かすみは紅陽の袖についた土を払うように、そっと手を伸ばした。
紅陽はその手を受け止め、微かに笑う。
「心配をかけたな」
「…はい。でも、帰ってきてくださったから」
かすみは紅陽の外套を預かり、湯気の立つ茶を差し出した。
紅陽はそれを受け取り、かすみの隣に腰を下ろす。
二人の間に流れる静けさは、戦場の喧騒とはまるで別の世界だった。
かすみは紅陽の肩にそっと寄り添い、紅陽はその頭に手を置いた。
言葉はいらなかった。
互いがそこにいるだけで、十分だった。
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帝は、神域での生活に少しずつ慣れていった。
最初こそ鍬の重さに腕を震わせていたが、一週間も経つ頃には、土の硬さや水の加減を見極められるようになっていた。
従者たちも共に畑に立ち、鍬を振るう。
帝の一行は三十人近い人数になるため、彼らが加わるだけで畑の進みは目に見えて早くなった。
現地の者が指揮を執り、帝も従者もその指示に従って黙々と働く。
神域では、身分も血筋も関係ない。
“働く者”が、ただ働く者として扱われるだけだ。
帝は額の汗を拭い、土にまみれた手を見つめながら、小さく息を吐いた。
その姿は、かつて宮中で玉座に座っていた人物とはまるで違う。
だが、神域の民にとっては、こちらの方がよほど自然に見えた。
畑は少しずつ形を成し、芽吹きの準備を整えつつあった。
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ある日の休憩時間、帝は鍬を地面に立てかけ、
そばで水を飲んでいた現地の者にふと尋ねた。
「なぜ、この地には異形が現れないのだ?」
現地の者は首をかしげた。
「理由は分かりません。
ただ……遠くに姿が見えることはあっても、なぜか境界の手前で引き返すんです。
まるで、ここに入れないかのように」
帝はその言葉に目を細め、しばし考え込んだ。
「……人の争い、恨み、憎しみ。
そうした“悪しきもの”を喰らいに来るのではないか?」
現地の者は驚いたように帝を見た。
帝は続ける。
「ここには、争いがない。
身分も、血筋も関係なく、皆が働き、生きている。
だから……異形が寄りつかぬのではないか?」
その仮説は、誰も口にしたことのないものだったが、
神域の者たちには妙に腑に落ちるものがあった。
「……なるほど。そういう考え方も、あるのかもしれませんね」
帝は耕した土を見つめながら、小さく息を吐いた。
「ならば、ここは……漢のどこよりも“正しい”土地なのかもしれぬな」
その言葉は、帝自身の胸に深く沈んでいった。
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張世平は、今では天下にその名を轟かす大商人となっていた。
扱う馬の数は何千頭にも及び、その質は中原随一と評されるほどである。
最良の馬は、まず神軍へ。そして呂布軍へも優先的に回される。
これは単なる商売上の取引ではない。
張世平にとっては、
「異形と戦う者を支える」
という誇りそのものだった。
異形を倒せるのは、我らだけだ。
そう胸を張って言えるだけの自負が、彼の商いの根底にある。
今日もまた張世平は、馬の目利きをし、取引の段取りをつけ、神域と各地を結ぶ道を駆け回っていた。
「ワシの出番少なくね?」
張世平は、ひとりぼやく。




