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今度は三国志の真っ只中にいます  作者: 水原伊織


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36/65

36.袁紹ってバカだな、あと、帝ってなんだ、マジで関係ないから。

街道の先に、砂煙が上がった。


曹操軍の先鋒――数十騎が、こちらへ迫ってくる。


街道は狭く、一度に大軍は入れない。


だが、廠たちの前に立ちはだかるには十分だった。


兵士が声を張り上げる。


「陛下、さあ、戻りましょう!曹操殿のもとへお戻りいただければ」


その瞬間だった。


帝は、震える手で腰の剣を抜いた。


従者たちも驚き、慌てて剣を抜く。


帝は前に出て、声を張り上げた。


「私は行く。邪魔をするなら、斬り捨てる」


その声は震えていた。


だが、確かに“自分の意思”で発せられた声だった。


帝が、生まれて初めて、誰の指図でもなく、自ら戦う意思を示したのだ。


曹操軍の兵士たちは一瞬、動きを止めた。

廠はその横顔を見つめ、わずかに目を細めた。


帝の剣先は、かすかに揺れていた。

だが、その揺れは恐怖ではなく、決意の震えだった。


(俺も、劉禅になった時は、こんな感じだったよなあ…)


廠は帝の姿にかつての自分を重ねていた。


----


帝が剣を構えたその時、街道の奥から新たな砂煙が上がった。

曹操軍の先鋒が左右に割れ、その中央を一騎の馬が駆け抜けてくる。


曹操だった。


彼は馬を止め、帝の前で静かに下馬した。

周囲の兵たちが息を呑む。


「陛下、どうか、お戻りください。このままでは、袁紹に奪われてしまいます」


帝は剣を握りしめたまま、曹操を見据えた。


「私は行く。神域へ向かう。誰の旗にもならぬために」


曹操の目がわずかに揺れた。


「陛下、それでは、我らは逆賊とされます。漢王朝を守るためにも、どうか」


帝は一歩前に出た。


「私は、旗ではない。そなたらの争いの道具ではない。邪魔をするなら、斬り捨てる」


その声は震えていたが、確かな意志があった。


曹操はしばらく帝を見つめ、やがて、深く息を吐いた。


「……陛下の御心、確かに承りました」


夏侯惇が驚きの声を上げる。


「殿!? それでは」


曹操は手を上げ、夏侯惇を制した。


「帝が自ら選ばれた道だ。我らが無理にお連れすることはできぬ」


そして、帝に向き直る。


「陛下。どうか…ご無事で」


曹操は馬に戻り、軍に命じた。


「全軍退く」


曹操軍九千は、帝に背を向けて道を開いた。


その背中には、敗北ではなく、帝の意思を尊重した者の静かな誇りがあった。


帝は剣を下ろし、廠の方を見た。

廠は小さく頷いた。


「行きましょう、陛下。神域はすぐそこです」


帝は深く息を吸い、馬を進めた。


乱世の流れが、静かに変わり始めていた。


----


白馬の渡しを越え、袁紹軍五万が北へ押し寄せた。


地が震え、旗が林のように揺れる。


その先頭で、袁紹は馬を走らせていた。


「急げ! 帝をお迎えするのだ!」


だが、街道の先に広がっていたのは、静寂だった。


曹操軍の姿も、帝の一行も、どこにもいない。


ただ、踏み荒らされた土と、馬蹄の跡だけが残っていた。


袁紹は馬を止め、眉をひそめた。


「どういうことだ」


田豊が馬を寄せ、跡を確認する。


「曹操軍は退いたようですな。陛下も、おそらく、すでにここを離れられた」


袁紹の顔がみるみる紅潮していく。


「曹操め、帝を隠したか!?陛下はどこへ行かれた」


兵が恐る恐る答える。


「陛下は神域へ向かわれた、との噂が」


袁紹は怒りに震えた。


「神域だと!?あの、得体の知れぬ軍のもとへ」


拳を握りしめ、歯を食いしばる。


「なぜだ……!なぜ、我がもとへ来られぬ!」


その叫びは、覇者の怒号というより、置き去りにされた男の嘆きに近かった。


田豊は静かに言う。


「殿…陛下は自ら動かれたのです。曹操も、陛下の意思を尊重して退いたのでしょう」


袁紹は唇を噛み、空を睨んだ。


「帝が、自ら」


その言葉は、袁紹にとって最も受け入れがたい事実だった。


帝が自ら選んだ道。


それは、袁紹でも曹操でもなく神軍のいる北だった。


袁紹は拳を震わせながら呟いた。


「ならば、追うしかあるまい。帝をお迎えするのは、この袁本初だ」


だが、その声には焦りが滲んでいた。


----


「なあ、紅陽」

「殿、なんでしょう?」


帝の一行を連れて神域へ戻る途中、廠はふと思い出したように紅陽へ声をかけた。


「袁紹って……バカなのかな?」


紅陽は思わず手綱を引いた。


「え?」


「だってさ。自分の本拠地の……なんだっけ、鄴?あそこに戻れば、俺たちより先に帝に会えたはずだろ」


帝は許昌を出たあと、白馬付近での戦を避けるように、黒山のふもとを北へ進んでいた。


その街道は途中で大きく西へ曲がり、鄴の近くを通ってから、再び北へ伸びている。


帝はまさにその道を辿っていた。


紅陽は少し考え、答えた。


「道を知らないのでは?」


廠は眉をひそめた。


「自分の土地なのに?」

「おそらくは」


袁紹は白馬を越えて東郡に入り、そこから北上を開始した。

つまり、曹操の後を追う形になっていたのだ。


紅陽が続ける。


「曹操殿の方が軍勢が少ない分、動きが早いのです。袁紹殿は大軍ゆえ、どうしても遅れます」


廠は肩をすくめた。


「……そりゃ勝てんわ」


帝の一行は静かに進んでいたが、廠と紅陽の会話に耳を傾けていた従者たちは、何とも言えぬ表情を浮かべていた。


帝だけは、どこか遠い目で前を見つめていた。


----


神域の境界が見えてきた。

廠は手を上げ、前方で調練を続けていた騎馬隊に合図を送った。


紅陽の号令で隊列が整い、三十騎が廠の前に並ぶ。


廠は帝の一行を振り返り、淡々と言った。


「変なやつを拾ってきた。ここの野営地を、少しだけ分けてやってくれ」


従者が驚きの声を上げる。

「野営……ですと?」

「悪いな。飯は多少なら分けてやるが、ここでは“働かない者”は生きていけないんだ」


帝は戸惑いながら尋ねた。

「……どうすればよいのだ?」


廠は指を折りながら、まるで当たり前のことのように答える。

「まずは兵士だな。街の修繕や警備をやるか、強くなって神軍の異形殲滅部隊に入るか。どっちかだ」

「な、なんと! 陛下に向かって、そのような――!」


廠は気にも留めず続けた。

「それが嫌なら、商人でもいいし、畑を耕しても構わん。ここは“自分の力で生きる場所”だ。身分は関係ない」

帝はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。

「……ここでは、皆がそうしているのか?」

「そうだ。だからこそ、ここは“神域”と呼ばれるようになった」


帝は境界の向こうに広がる土地を見つめた。

そこには、漢のどの都市とも違う、“自分で選んだ者だけが立つ場所”の空気があった。

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