36.袁紹ってバカだな、あと、帝ってなんだ、マジで関係ないから。
街道の先に、砂煙が上がった。
曹操軍の先鋒――数十騎が、こちらへ迫ってくる。
街道は狭く、一度に大軍は入れない。
だが、廠たちの前に立ちはだかるには十分だった。
兵士が声を張り上げる。
「陛下、さあ、戻りましょう!曹操殿のもとへお戻りいただければ」
その瞬間だった。
帝は、震える手で腰の剣を抜いた。
従者たちも驚き、慌てて剣を抜く。
帝は前に出て、声を張り上げた。
「私は行く。邪魔をするなら、斬り捨てる」
その声は震えていた。
だが、確かに“自分の意思”で発せられた声だった。
帝が、生まれて初めて、誰の指図でもなく、自ら戦う意思を示したのだ。
曹操軍の兵士たちは一瞬、動きを止めた。
廠はその横顔を見つめ、わずかに目を細めた。
帝の剣先は、かすかに揺れていた。
だが、その揺れは恐怖ではなく、決意の震えだった。
(俺も、劉禅になった時は、こんな感じだったよなあ…)
廠は帝の姿にかつての自分を重ねていた。
----
帝が剣を構えたその時、街道の奥から新たな砂煙が上がった。
曹操軍の先鋒が左右に割れ、その中央を一騎の馬が駆け抜けてくる。
曹操だった。
彼は馬を止め、帝の前で静かに下馬した。
周囲の兵たちが息を呑む。
「陛下、どうか、お戻りください。このままでは、袁紹に奪われてしまいます」
帝は剣を握りしめたまま、曹操を見据えた。
「私は行く。神域へ向かう。誰の旗にもならぬために」
曹操の目がわずかに揺れた。
「陛下、それでは、我らは逆賊とされます。漢王朝を守るためにも、どうか」
帝は一歩前に出た。
「私は、旗ではない。そなたらの争いの道具ではない。邪魔をするなら、斬り捨てる」
その声は震えていたが、確かな意志があった。
曹操はしばらく帝を見つめ、やがて、深く息を吐いた。
「……陛下の御心、確かに承りました」
夏侯惇が驚きの声を上げる。
「殿!? それでは」
曹操は手を上げ、夏侯惇を制した。
「帝が自ら選ばれた道だ。我らが無理にお連れすることはできぬ」
そして、帝に向き直る。
「陛下。どうか…ご無事で」
曹操は馬に戻り、軍に命じた。
「全軍退く」
曹操軍九千は、帝に背を向けて道を開いた。
その背中には、敗北ではなく、帝の意思を尊重した者の静かな誇りがあった。
帝は剣を下ろし、廠の方を見た。
廠は小さく頷いた。
「行きましょう、陛下。神域はすぐそこです」
帝は深く息を吸い、馬を進めた。
乱世の流れが、静かに変わり始めていた。
----
白馬の渡しを越え、袁紹軍五万が北へ押し寄せた。
地が震え、旗が林のように揺れる。
その先頭で、袁紹は馬を走らせていた。
「急げ! 帝をお迎えするのだ!」
だが、街道の先に広がっていたのは、静寂だった。
曹操軍の姿も、帝の一行も、どこにもいない。
ただ、踏み荒らされた土と、馬蹄の跡だけが残っていた。
袁紹は馬を止め、眉をひそめた。
「どういうことだ」
田豊が馬を寄せ、跡を確認する。
「曹操軍は退いたようですな。陛下も、おそらく、すでにここを離れられた」
袁紹の顔がみるみる紅潮していく。
「曹操め、帝を隠したか!?陛下はどこへ行かれた」
兵が恐る恐る答える。
「陛下は神域へ向かわれた、との噂が」
袁紹は怒りに震えた。
「神域だと!?あの、得体の知れぬ軍のもとへ」
拳を握りしめ、歯を食いしばる。
「なぜだ……!なぜ、我がもとへ来られぬ!」
その叫びは、覇者の怒号というより、置き去りにされた男の嘆きに近かった。
田豊は静かに言う。
「殿…陛下は自ら動かれたのです。曹操も、陛下の意思を尊重して退いたのでしょう」
袁紹は唇を噛み、空を睨んだ。
「帝が、自ら」
その言葉は、袁紹にとって最も受け入れがたい事実だった。
帝が自ら選んだ道。
それは、袁紹でも曹操でもなく神軍のいる北だった。
袁紹は拳を震わせながら呟いた。
「ならば、追うしかあるまい。帝をお迎えするのは、この袁本初だ」
だが、その声には焦りが滲んでいた。
----
「なあ、紅陽」
「殿、なんでしょう?」
帝の一行を連れて神域へ戻る途中、廠はふと思い出したように紅陽へ声をかけた。
「袁紹って……バカなのかな?」
紅陽は思わず手綱を引いた。
「え?」
「だってさ。自分の本拠地の……なんだっけ、鄴?あそこに戻れば、俺たちより先に帝に会えたはずだろ」
帝は許昌を出たあと、白馬付近での戦を避けるように、黒山のふもとを北へ進んでいた。
その街道は途中で大きく西へ曲がり、鄴の近くを通ってから、再び北へ伸びている。
帝はまさにその道を辿っていた。
紅陽は少し考え、答えた。
「道を知らないのでは?」
廠は眉をひそめた。
「自分の土地なのに?」
「おそらくは」
袁紹は白馬を越えて東郡に入り、そこから北上を開始した。
つまり、曹操の後を追う形になっていたのだ。
紅陽が続ける。
「曹操殿の方が軍勢が少ない分、動きが早いのです。袁紹殿は大軍ゆえ、どうしても遅れます」
廠は肩をすくめた。
「……そりゃ勝てんわ」
帝の一行は静かに進んでいたが、廠と紅陽の会話に耳を傾けていた従者たちは、何とも言えぬ表情を浮かべていた。
帝だけは、どこか遠い目で前を見つめていた。
----
神域の境界が見えてきた。
廠は手を上げ、前方で調練を続けていた騎馬隊に合図を送った。
紅陽の号令で隊列が整い、三十騎が廠の前に並ぶ。
廠は帝の一行を振り返り、淡々と言った。
「変なやつを拾ってきた。ここの野営地を、少しだけ分けてやってくれ」
従者が驚きの声を上げる。
「野営……ですと?」
「悪いな。飯は多少なら分けてやるが、ここでは“働かない者”は生きていけないんだ」
帝は戸惑いながら尋ねた。
「……どうすればよいのだ?」
廠は指を折りながら、まるで当たり前のことのように答える。
「まずは兵士だな。街の修繕や警備をやるか、強くなって神軍の異形殲滅部隊に入るか。どっちかだ」
「な、なんと! 陛下に向かって、そのような――!」
廠は気にも留めず続けた。
「それが嫌なら、商人でもいいし、畑を耕しても構わん。ここは“自分の力で生きる場所”だ。身分は関係ない」
帝はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……ここでは、皆がそうしているのか?」
「そうだ。だからこそ、ここは“神域”と呼ばれるようになった」
帝は境界の向こうに広がる土地を見つめた。
そこには、漢のどの都市とも違う、“自分で選んだ者だけが立つ場所”の空気があった。




