35.めんどくせえ野郎だ、戦え。
神域の南。
廠は紅陽とともに、騎馬隊の調練をしていた。
廠は、こうして馬に乗る時間を欠かさない。
一対一の戦いなら、能力のおかげで負けることはない。
だが、実際の戦は個の強さではなく、騎馬隊の動きと軍の統率で決まる。
だからこそ、廠は常に“軍”としての動きを磨いていた。
紅陽が号令を飛ばし、騎馬隊が砂煙を上げて駆け抜ける。
廠はその動きを見ながら、自らも馬を走らせる。
その時だった。
神域の外れから、早馬が砂を蹴って駆け込んできた。
「報告―!!」
廠と紅陽が同時に振り返る。
伝令は馬から飛び降り、息を切らしながら叫んだ。
「帝が陛下が、許昌を出られました!供回りわずか数十名で、こちらへ向かっておられるとのこと!
帝の使者が、先触れとして参りました!」
廠は目を細めた。
「……帝が、自ら?」
紅陽は汗をぬぐいながら、伝令の言葉を反芻するように呟いた。
「陛下が?」
騎馬隊のざわめきが、風に揺れた。
廠は伝令の報せを聞き終えると、しばし沈黙した。
紅陽も紅仁も、廠の次の言葉を待っている。
風が吹き、騎馬隊の旗が揺れた。
廠は馬上で小さく息を吐いた。
「……面倒なことになったな」
紅陽が眉を寄せる。
「廠殿、どう動かれます?」
廠は馬首を北へ向けた。
「迎えに行くか、帝がここへ来ると決めたのならな」
紅陽が頷く。
「軍を動かしますか?」
廠は首を振った。
「いや、軍は動かさない。神軍が動けば、袁紹も曹操との戦になる危険がある」
紅仁が槍を肩に担ぎ、前に出る。
「では、少数で?」
「ああ。俺と、護衛を数十。帝を安全に神域へお連れする。それだけだ」
廠は騎馬隊に向けて声を張った。
「紅陽、紅仁。精鋭を三十、選りすぐれ。すぐに出るぞ」
「はっ!」
騎馬隊が一斉に動き出し、選抜が始まる。
廠はその様子を見ながら、思っていた。
(全然歴史と違うんだな…もう、知識があてにならん)
ほどなくして、三十騎の精鋭が揃った。
紅陽と紅仁も馬に跨り、廠の左右に並ぶ。
廠は空を見つめた。
「帝は、今どこかな」
紅陽が言う。
「曹操も袁紹も、帝を追って北へ向かっているはず。急がねば、神域の南で三軍が交錯します」
廠は頷いた。
「行くぞ。帝を、神域へお連れする」
廠が馬腹を蹴ると、三十騎が一斉に続いた。
砂煙が上がり、神域の南門を越えて北へ駆け出す。
その姿は、まるで静かな湖面から飛び立つ矢のようだった。
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帝の小さな一行は、北へ向かう街道を急いでいた。
供回りはわずか十数名。
護衛としては心許ないが、帝はそれでも進んだ。
「……本当に、神域へ行ってよいのだろうか」
帝は馬上で呟いた。
従者は答えに窮し、ただ頭を垂れる。
「陛下、神軍は……異形を退ける唯一の軍。
あそこならば、袁紹殿も曹操殿も手出しはできませぬ」
「そうであればよいが」
帝の声には、確かな意志があった。
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やがて、前方に小さな一団が見えた。
旗はなく、護衛も少ない。
その中心に、帝の姿があった。
紅仁が声を上げる。
「殿、あれは」
廠は馬を走らせ、一気に距離を詰めた。
帝の従者が慌てて声を上げる。
「何者だ」
廠は馬を止め、静かに頭を下げた。
「神軍の廠だ。陛下が我らの地に向かっていると使者から聞いて、迎えに参った」
帝の従者が下げる。
帝は驚いたように目を見開いた。
「神軍…廠と申すか。そなたが、来てくれたのか」
廠は馬上から帝を見つめ、深く頷いた。
「申し訳ありません、陛下。我ら、作法など知らぬゆえ、このまま話をいたします。
陛下が神域へ向かわれると聞きましたが……本当ですか?」
帝はわずかに目を伏せた。
「ああ。そうだ。……迷惑であろうか?」
「はい」
廠は、ためらいなく言い切った。
従者が息を呑み、紅陽たちの背筋がわずかに強張る。
だが廠は構わず続けた。
「我らは異形を屠るために存在する軍です。
陛下が来れば、くだらぬ連中の相手をせねばならなくなる」
帝も従者も、言葉を失っていた。
廠は淡々と続ける。
「“神域”と民が呼んでいるようですが、あの地をここまで発展させたのは、ほかならぬ民たちです。
漢という国から見捨てられた者たちが、自分の力で生きる場所を作ったのです」
従者が堪えきれず声を上げた。
「失礼であるぞ!」
廠は冷ややかに返した。
「失礼なのは、お前たちだ」
「な……!」
「不甲斐なく、政争の道具として扱われ続けてきたのであろう?なぜ、抗わない?」
帝は口を閉ざし、ただ廟のように静かに揺れていた。
廠はさらに言葉を重ねる。
「守ってもらおうとして動くたび、行く先で戦が起きる。
今のあなたたちこそ、民にとって“迷惑”な存在だ」
その声音には怒りも侮蔑もなく、ただ事実を述べるだけの冷たさがあった。
廠にとって、帝は、転生前の歴史で見たただのモブ、にすぎない。
だが、だからこそ、彼は遠慮なく真実を突きつけることができた。
帝は、唇を震わせながら、ようやく小さく呟いた。
「……私は……どうすればよいのだ、廠」
「戦え。剣を取れ」
廠の言葉に、帝ははっと顔を上げた。
廠は続ける。
「漢王朝の血がなんだ。民の血と何が違う?民は、自らの血を流して、生きる場所を勝ち取ったんだ」
帝も従者も、息を呑んだまま動けない。
廠は淡々と、しかし一切の情けを挟まず言葉を重ねた。
「お前たちが戦えば、きっとついてくる者は現れる」
帝は震える声で返す。
「だが、私には……そんな力など……」
廠は即座に切り捨てた。
「民だって、最初から力など無い。それでも皆、戦った。
“できぬ理由”を並べるのは、言い訳にもならん」
帝は言葉を失い、従者は拳を握りしめたまま俯いた。
廠の声は冷たく、しかしどこかで“期待”のようなものが微かに滲んでいた。




