34.帝、許昌脱出 ――曹操と袁紹、追撃開始
帝は夜明け前、わずかな供回りだけを連れ、静かに許昌を出発した。
曹操が袁紹と対峙するために軍を率いて出陣した、その“隙”を狙って。
侍従が震える声で問う。
「陛下……本当に、よろしいのですか……?」
帝は馬上で、遠く北を見つめた。
「私は旗ではない。誰のものでもない。私は、私の望む場所へ行く」
その声は弱々しくも、確かな意志を帯びていた。
向かう先は、神域。
異形が寄りつかず、誰の覇権にも染まらぬ地。
帝が唯一「安心できる」と感じた場所だった。
帝は馬を進めながら、従者に問いかけた。
「……あらかじめ、使者を送っておいたほうが良いかな? 神軍のもとへ」
従者は慌てて馬を寄せる。
「はっ。直ちに早馬を先行させます」
帝は小さく頷き、遠く北の空を見つめた。
「……あそこには、どの軍も手が出せぬのであろう?」
「はい。今のところ、張世平という商人が治める独立した地域となっております。
神軍が駐屯して以来、異形も寄りつかず……まさに“神域”と呼ばれております」
帝は唇を噛んだ。
「私が行くことで……迷惑になってしまうだろうか?」
従者は言葉を失い、ただ頭を垂れる。
「陛下……」
帝はしばらく沈黙し、やがて苦しげに呟いた。
「……やはり、洛陽に行くべきであろうか」
だが、その声には力がなかった。
焼け落ちた洛陽。
守る軍もなく、頼る者もいない。
帝が向かったところで、そこには何も残っていない。
帝は自らの胸に問い続けていた。
私は、どこへ向かえばよいのだろう。
神域へ向かう馬の歩みは止まらない。
だが、帝の心は揺れ続けていた。
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曹操は九千の兵を率い、許昌を出陣していた。
白馬の渡しに差し掛かったところで、遠くに翻る旗が見えた。
――「袁」。
袁紹軍、五万。
中央には、袁紹自ら率いる騎馬隊が堂々と展開している。
まともにぶつかれば、数で圧倒される。
それは誰の目にも明らかだった。
だが、曹操の表情は揺れなかった。
彼はすでに、ぶつかった後のことまで計算していた。
許昌までの道のりには、伏兵一千を忍ばせてある。
正面で衝突し、退くふりをして誘い込み、許昌の城門前で一気に反転して叩く。
そのための布陣だった。
今回の出陣は、全軍を挙げてのもの。
ここで袁紹を打ち破れば、河北は手に入る。
河北を得れば、兵も糧も揃う。
異形を殲滅する力も備わる。
そうなれば、曹操が天下に並ぶ者のない将軍となる。
彼の胸中には、静かだが確かな炎が燃えていた。
「袁紹、ここで決着をつける」
曹操は馬首を袁紹軍へ向け、ゆっくりと進ませた。
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その時、曹操の陣営に早馬が駆け込んできた。
「報告、陛下が、許昌を出られました」
曹操は馬上で振り返った。
「なんだと」
伝令は、許昌に残していた武将からの急報だった。
供回りわずか数十名のみを連れ、帝は北へ向かったという。
曹操は息を呑んだ。
「陛下が……自ら?」
夏侯惇が叫ぶ。
「殿、帝を失えば、我らは逆賊とされますぞ」
荀彧は蒼白になりながら言った。
「まさか…陛下自らとは。殿、これは一刻の猶予もありません」
曹操は拳を握りしめ、短く問う。
「北へ向かったと言ったな」
「はい」
「……神域、か」
曹操は袁紹軍の動きを見やった。
おそらく、同じ報せが袁紹にも届く。
そうなれば、袁紹も帝を追うはずだ。
「夏侯惇、荀彧、神域だ」
夏侯惇が眉をひそめる。
「神域……あの、神軍の元ですか?」
「ああ。帝が北へ向かったのなら、そこしかない」
曹操は迷いなく指示を飛ばした。
「帝を保護するぞ。全軍、進路を北へ転じよ!」
馬首を返し、曹操は北へ向けて駆け出した。
その背には、九千の兵が続いた。
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白馬の渡しへ向かう途中、袁紹の本陣に早馬が駆け込んだ。
「報告、帝が許昌を出て、供回りわずか数十名で北へ向かわれたとのこと」
幕舎の空気が一瞬で凍りついた。
袁紹は目を見開き、次の瞬間、怒りに震えた声を上げた。
「何だと?」
伝令は息を切らしながら続ける。
「曹操軍が出陣した隙を突き、陛下は自ら許昌を離れられたとのこと」
袁紹の顔がみるみる紅潮していく。
「曹操め、帝を隠したか!?いや、陛下自ら動かれたといったか」
田豊が進み出て、静かに言った。
「殿、これは天の与えた好機にございます。曹操より先に陛下をお迎えすれば、天下は殿に靡きましょう」
袁紹は拳を握りしめ、深く頷いた。
「そうだ。帝を守るのは、この袁本初だ。曹操などに任せておけぬ!」
彼は立ち上がり、声を張り上げた。
「全軍、進路を北へ転じよ、帝をお迎えするのは我が袁紹軍である」
五万の軍勢が一斉に動き出す。
旗が揺れ、地が震え、河北の大軍が北へ向かう。
その目的はただ一つ。
帝を、曹操より先に確保すること。




