33.河北の覇心、許昌へ向かう
河北は、異形の災厄が最も少ない地となっていた。
その理由は明白だった。
涿郡に神軍がいる。
冀州を蹂躙した異形の群れも、神軍の領域には決して近づかない。
その安全を背景に、袁紹は兵を蓄え、糧を蓄え、河北四州を盤石の地とした。
そして、ついに言い始めた。
「天下に号令するのは、袁本初たるこの私だ」
袁術のように帝を詐称する愚は犯さない。
むしろ逆だ。
帝を保護し、漢王朝の宰相となる。
そのために、帝を河北へ迎えようとしていた。
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帝は洛陽に帰りたがっていた。
焼け落ちた都を、もう一度立て直し、そこに戻りたいと。
曹操はその願いを尊重し、使者に告げた。
「洛陽を復興させ、陛下をお戻しするつもりだ。河北に行く必要はない」
使者はそのまま河北へ戻り、袁紹に報告した。
袁紹は静かに頷いた。だが、その目は怒りに燃えていた。
「曹操、帝を手放す気はないか」
次の瞬間、袁紹は立ち上がった。
「ならば、迎えに行くまでだ。帝をお守りするのは、この袁本初の務めよ」
五万の軍勢が、鄴から許昌へ向けて動き出した。
旗が揺れ、地が震え、河北の大軍が南へと進む。
その目的はただ一つ。
帝を、無理やりでも鄴へ連れ帰ること。
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急報が許昌に届いた。
「報告! 袁紹軍五万、許昌へ向け進軍中!」
文官たちがざわめき、武官たちは顔をしかめた。
夏侯惇が曹操に言う。
「殿、袁紹は帝を奪いに来るつもりです」
曹操は静かに目を閉じた。
そして、ゆっくりと開く。
「…ついに動いたか、袁紹」
荀彧が進み出る。
「殿。袁紹は河北を固め、兵糧も豊富。異形の被害も少なく、兵力は増す一方。
このままでは、許昌は危ういかと」
程昱も続ける。
「袁紹は“正統”を掲げるつもりでしょう。帝を奪われれば、我らは逆賊となります」
曹操は深く息を吐いた。
「帝を守るのは、我らだ。洛陽を復興させると約した以上、後には退けぬ」
夏侯淵が問う。
「殿、迎え撃ちますか?」
曹操は頷いた。
「迎え撃つ。袁紹に、帝を奪わせるわけにはいかぬ」
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その頃、帝は静かに呟いていた。
「……私は、洛陽に帰りたいのだ。だが、袁紹も曹操も、私を“旗”として扱う……」
帝の視線は遠く、揺れていた。
廠がその場にいたなら、こう言ったかもしれない。
あなたを守る者は、あなた自身が選ぶべきです。
だが今、帝の周囲には、曹操と袁紹の影が濃く落ちていた。
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神軍が駐屯する涿郡とその周辺は、いつしか人々の口の端で 「神域」 と呼ばれるようになっていた。
河北の民にとって、そこはただの軍事拠点ではない。
異形が決して近づかず、夜道を歩いても襲われる心配がない、乱世における唯一の“安息の地”だった。
涿郡の北側に広がる森は、異形が冀州を蹂躙した時でさえ、ただの一度も侵入を許さなかった。
まるで見えない壁があるかのように、黒い影は境界線の手前で方向を変え、別の地域へ流れていった。
その不思議な現象は、やがて民の間で語り草となる。
- 「神軍の旗が立つ場所には、異形が寄りつかぬ」
- 「あの地は天が守っている」
- 「涿郡に行けば、夜でも眠れる」
そして、誰からともなく呼ばれ始めた。
――神域。
神域の中心にあるのは、かつて張世平が暮らしていた屋敷だった。
劉備が若き日に世話になり、廠が初めて神軍として立ち上がった場所でもある。
屋敷は異形の襲撃で一度は焼け落ちたが、廠と神軍の手で再建され、今では神軍の本営として機能していた。
周囲には、戦で家を失った民が自然と集まり、小さな集落がいくつも生まれていた。
彼らは口を揃えて言う。
「ここにいれば、異形は来ない」
「神軍の近くにいれば、子どもが安心して眠れる」
その信頼は、もはや宗教に近いものすらあった。
河北が異形の被害をほとんど受けなかったのは、袁紹の力ではなく、神軍が涿郡にいるからだと誰もが知っていた。
袁紹自身も理解していた。
だからこそ、彼は神軍を味方に引き入れようとせず、
むしろ距離を置き、「神軍は涿郡に籠っていればよい」と言い続けた。
理由は単純だった。
神軍が動けば、河北の均衡が崩れる。
そして、袁紹の覇権が揺らぐ。袁紹は神軍を利用はしても、頼ることは決してしなかった。
その神域の静けさとは対照的に、南では袁紹軍五万が許昌へ向けて進軍していた。
河北の民はこう噂した。
「袁本初様は、帝をお守りするために動かれたのだ」
「曹操は帝を手放さぬつもりらしい」
だが、神域に住む者たちは違う。
「袁紹様は、帝を“旗”にするつもりだ」
「曹操様も袁紹様も、帝を守るというより…奪い合っている」
彼らは、異形と戦う神軍の背中を見てきた。
だからこそ、政治の争いに敏感だった。
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廠は本営の前で、遠く南の空を見つめていた。
袁紹軍が許昌へ向かうという報せは、すでに届いている。
紅陽が隣に立ち、低く呟いた。
「……乱世は、人の争いが絶えませんな」
廠はわずかに頷く。
「異形よりも、人の欲の方が厄介だな」
そこへ紅仁が槍を肩に担いで歩み寄った。
「廠殿。袁紹と曹操が戦を始めれば、天下はさらに乱れます。神軍はどう動くおつもりで?」
廠は短く息を吐き、二人へ視線を向けた。
「帝が望むのは洛陽への帰還だろう」
紅陽が眉を寄せる。
「あの焼け野原に、ですか」
「ああ。帝にとっては、あそこが“故郷”だからな」
紅仁が問い直す。
「では、殿。我らはどうすべきでしょうか?」
廠は静かに、しかし揺るぎなく言った。
「動かない」
紅陽が目を瞬かせる。
「……え?」
「帝から直接、使者が来るようなら大義名分が立つ。
だが、人同士の争いには加担しない。
神軍は異形と戦う軍だ。
覇権争いの道具になるつもりはない」
紅仁は深く頷き、紅陽は静かに息を吐いた。
廠の言葉は、神域の空気と同じく澄んでいた。




