32.鬼神、百万を屠る
黒い波が――崩れ始めていた。
呂布の突撃により、異形の最前列が削られ、紅陽の騎馬隊が横合いから切り裂く。
その二つの奔流が、黒い海に“逆流”を生み出していた。
曹操はその変化を見逃さなかった。
「……押し返している。あの異形が、退いているだと?」
夏侯惇が目を見開く。
「殿、奴ら……呂布と紅陽を“避けて”います!」
曹操は息を呑んだ。
「異形が、恐怖を覚えるというのか」
その背後で、廠が静かに言った。
「呂布殿と紅陽殿は、異形にとって天敵。奴らは本能で理解しているのでしょう」
曹操は廠を横目で見た。
その声音は静かだが、確信に満ちていた。
----
紅仁率いる千の歩兵隊が、呂布と紅陽が切り開いた“空白”へと進み込む。
呂布が“力”で戦場を裂き、神軍は“秩序”でそれを固定していた。
異形の波が左右に割れ、中央に細い道が生まれていた。
紅仁の声が響く。
「前へ、怯むな、押し込め」
神軍歩兵は、今まで何度も、地獄を見た者たちだ。
仲間を喰われ、死線を越え、それでも立ち上がった者たち。
彼らの槍が、盾が、声が、異形の波を押し返す力となっていた。
曹操軍の兵が驚きの声を上げる。
「な、なんだあの歩兵は」
「千しかいないのに、まるで万の軍勢みたいだ!」
紅仁は叫ぶ。
「騎馬隊が拡げた道を突き進め」
異形が紅仁に飛びかかる。
だが、紅仁の槍が閃き、黒い影が霧散する。
「次」
その背に続く神軍兵たちも、恐怖を押し殺しながら前へ進む。
----
曹操は剣を掲げ、全軍に号令を飛ばした。
「今だ、呂布と神軍が切り開いた道に乗れ。全軍、前へ、異形を押し返せ」
三万の兵が、一斉に前進する。
その圧力は、呂布と紅陽の突撃によって揺らいだ異形の波をさらに押し返した。
夏侯淵の右翼が回り込み、許褚の中央突破が加わる。
曹操軍の陣形が、黒い波を押し返す“楔”となって戦場に打ち込まれた。
異形の波が、ついに後退を始めた。
----
黒い波が後退し始めたその瞬間、戦場の奥で、異様な、うねりが生まれた。
黒い影が左右に割れ、まるで巨大な何かが通るために道を開けているようだった。
呂布も紅陽も、その異常な動きを見逃さなかった。
地平線の向こうから、巨人のような“人型の異形が姿を現した。
身の丈は五丈を超え、黒鉄のような皮膚がひび割れ、内部から赤い光が脈打っている。
腕は異様に長く、指は刃のように尖り、顔は人の形をしているのに、目だけが虚ろに光っていた。
その姿を見た曹操軍の兵が震え声を漏らす。
「な、なんだあれは……!」
「人……なのか? いや、違う……!」
廠は眉をひそめた。
「…あれは核だ。百万の異形を束ねる中心。あれを倒さねば、終わらない」
曹操は息を呑む。
「百万を統べる王、か」
呂布はその巨影を見た瞬間、顔を歪め、獣のように吠えた。
あれは、長安に出てきた個体。
「董卓の仇だ」
怒号とともに、赤兎馬の腹を蹴る。
紅陽が驚いて叫ぶ。
「呂布殿」
赤兎馬が砂塵を巻き上げ、異形の群れへ一直線に突っ込む。
その速さは、騎馬隊が全力で追っても追いつけないほどだった。
曹操軍の兵が呆然と呟く。
「は、速すぎる」
呂布の周囲だけが、まるで風穴のように異形が吹き飛んでいく。
方天戟が唸り、黒い影が十、二十と霧散する。
呂布は止まらない。
ただ一直線に、巨人の異形へ向かって突き進む。
----
巨人の異形が、ゆっくりと顔を上げた。
虚ろな目が、呂布を捉える。
その瞬間、空気が震えた。
巨影が、吼えた。
「ァァアアアアアアアア」
その咆哮は、地面を揺らし、兵たちの耳をつんざいた。
曹操軍の前列が思わず耳を塞ぎ、馬が怯えて後ずさる。
紅陽が歯を食いしばる。
「あれは、ただの異形ではない」
----
呂布はもう、巨影の目前にいた。
赤兎馬が跳ね上がり、呂布が方天戟を構える。
「董卓を喰ったのは貴様か」
巨影が腕を振り下ろす。
その一撃は、山を砕くような重さだった。
呂布は馬上で身をひねり、方天戟で受け止める。
金属が軋むような音が響き、地面が割れた。
曹操軍の兵が叫ぶ。
「う、受け止めた…!? あの化け物の一撃を…!」
紅陽は馬を走らせながら呟く。
「…呂布殿。やはり、あなたは人ではない」
廠は曹操の横で、静かに息を吐いた。
「ここが勝負所です。呂布殿が道を作る。我らは、その背を支える」
曹操は剣を掲げ、全軍に叫んだ。
「呂布を孤立させるな!全軍、巨影へ向かえ!!」
----
巨影の腕が再び振り下ろされる。
その軌道は、山を薙ぎ払うかのように重く、速い。
呂布は、さらに速かった。
赤兎馬が地を蹴り、呂布の身体が風のように横へ滑る。
方天戟が閃き、巨影の手首が空中に舞った。
黒い血が噴き出し、地面を焼くように蒸気を上げる。
巨影が吼える。
「ァアアアアアア!!」
跳躍。
それでも呂布は、冷静に巨影の動きを見ていた。
隙がある。
巨影の膝に方天戟を突きたてる。
手ごたえがあった。
「うおおおおお」
呂布は吠える。
巨影が片膝をつく。
右腕。
左腕。
右脚。
左足。
次々と切り落としていく。
巨影は、もはや立つことすらできなかった。
四肢を失い、黒い血を撒き散らしながら、なお呂布を睨みつけていた。
呂布は赤兎馬を走らせ、巨影の肩へと跳び移る。
方天戟を大きく振りかぶる。
「董卓の仇だ」
巨影の首が、空へと舞った。
黒い霧が噴き出し、空気が震えた。
次の瞬間、巨影の身体が、崩れ落ちるように霧散した。
----
巨影が消えた瞬間、百万の異形が一斉に動きを止めた。
まるで糸が切れた操り人形のように、黒い影が次々と崩れ落ちていく。
曹操軍の兵が叫ぶ。
「消えていく……!」
「異形が……霧になって……!」
紅仁の歩兵隊の前でも、異形は霧散し、地面に黒い灰だけを残して消えていく。
紅仁は槍を構えたまま、息を吐いた。
「…核を落としたか。呂布殿、見事だ」
曹操は馬上で、呆然と呟いた。
「見たか……これが武だ。天下とは、こうして形を変える」
廠は静かに言った。
「呂布殿は、乱世の“鬼神”です。鬼神が味方であるうちは、我らはまだ戦える」
紅陽は遠く、呂布の姿を見つめながら言った。
「さて…あの人は、まだ暴れる気でしょうか」
巨影が消えた場所に、呂布が立っていた。
赤兎馬の背で、方天戟を肩に担ぎ、戦場を見下ろす。
その姿は、まるで黒い海を焼き払った“火柱”のようだった。
呂布は鼻で笑い、叫んだ。
「次はどこだ!異形でも人でも、かかってこい!!」
曹操軍の兵たちは、歓声とも悲鳴ともつかぬ声を上げた。
曹操は深く息を吐き、廠に言った。
「…呂布を味方にできる者は、天下に何人いるのだろうな」
廠は静かに答えた。
「味方にするのではなく、同じ方向を向かせるのです」
曹操は苦笑した。
「それが難しいのだがな」
曹操は、遠くに立つ鬼神の背を見つめた。
――この男がいる限り、乱世は終わらない。
そして同時に、この男なくして、乱世もまた終わらぬと知った。




