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今度は三国志の真っ只中にいます  作者: 水原伊織


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32/65

32.鬼神、百万を屠る

黒い波が――崩れ始めていた。


呂布の突撃により、異形の最前列が削られ、紅陽の騎馬隊が横合いから切り裂く。


その二つの奔流が、黒い海に“逆流”を生み出していた。


曹操はその変化を見逃さなかった。


「……押し返している。あの異形が、退いているだと?」


夏侯惇が目を見開く。


「殿、奴ら……呂布と紅陽を“避けて”います!」


曹操は息を呑んだ。


「異形が、恐怖を覚えるというのか」


その背後で、廠が静かに言った。


「呂布殿と紅陽殿は、異形にとって天敵。奴らは本能で理解しているのでしょう」


曹操は廠を横目で見た。


その声音は静かだが、確信に満ちていた。


----


紅仁率いる千の歩兵隊が、呂布と紅陽が切り開いた“空白”へと進み込む。


呂布が“力”で戦場を裂き、神軍は“秩序”でそれを固定していた。


異形の波が左右に割れ、中央に細い道が生まれていた。


紅仁の声が響く。


「前へ、怯むな、押し込め」


神軍歩兵は、今まで何度も、地獄を見た者たちだ。

仲間を喰われ、死線を越え、それでも立ち上がった者たち。

彼らの槍が、盾が、声が、異形の波を押し返す力となっていた。


曹操軍の兵が驚きの声を上げる。


「な、なんだあの歩兵は」

「千しかいないのに、まるで万の軍勢みたいだ!」


紅仁は叫ぶ。


「騎馬隊が拡げた道を突き進め」


異形が紅仁に飛びかかる。

だが、紅仁の槍が閃き、黒い影が霧散する。

「次」

その背に続く神軍兵たちも、恐怖を押し殺しながら前へ進む。


----


曹操は剣を掲げ、全軍に号令を飛ばした。

「今だ、呂布と神軍が切り開いた道に乗れ。全軍、前へ、異形を押し返せ」


三万の兵が、一斉に前進する。


その圧力は、呂布と紅陽の突撃によって揺らいだ異形の波をさらに押し返した。


夏侯淵の右翼が回り込み、許褚の中央突破が加わる。

曹操軍の陣形が、黒い波を押し返す“楔”となって戦場に打ち込まれた。


異形の波が、ついに後退を始めた。


----


黒い波が後退し始めたその瞬間、戦場の奥で、異様な、うねりが生まれた。

黒い影が左右に割れ、まるで巨大な何かが通るために道を開けているようだった。

呂布も紅陽も、その異常な動きを見逃さなかった。


地平線の向こうから、巨人のような“人型の異形が姿を現した。

身の丈は五丈を超え、黒鉄のような皮膚がひび割れ、内部から赤い光が脈打っている。


腕は異様に長く、指は刃のように尖り、顔は人の形をしているのに、目だけが虚ろに光っていた。

その姿を見た曹操軍の兵が震え声を漏らす。


「な、なんだあれは……!」

「人……なのか? いや、違う……!」


廠は眉をひそめた。

「…あれは核だ。百万の異形を束ねる中心。あれを倒さねば、終わらない」


曹操は息を呑む。

「百万を統べる王、か」



呂布はその巨影を見た瞬間、顔を歪め、獣のように吠えた。

あれは、長安に出てきた個体。


「董卓の仇だ」


怒号とともに、赤兎馬の腹を蹴る。


紅陽が驚いて叫ぶ。

「呂布殿」


赤兎馬が砂塵を巻き上げ、異形の群れへ一直線に突っ込む。

その速さは、騎馬隊が全力で追っても追いつけないほどだった。


曹操軍の兵が呆然と呟く。

「は、速すぎる」


呂布の周囲だけが、まるで風穴のように異形が吹き飛んでいく。

方天戟が唸り、黒い影が十、二十と霧散する。

呂布は止まらない。

ただ一直線に、巨人の異形へ向かって突き進む。


----


巨人の異形が、ゆっくりと顔を上げた。


虚ろな目が、呂布を捉える。

その瞬間、空気が震えた。

巨影が、吼えた。


「ァァアアアアアアアア」

その咆哮は、地面を揺らし、兵たちの耳をつんざいた。

曹操軍の前列が思わず耳を塞ぎ、馬が怯えて後ずさる。


紅陽が歯を食いしばる。

「あれは、ただの異形ではない」


----


呂布はもう、巨影の目前にいた。

赤兎馬が跳ね上がり、呂布が方天戟を構える。


「董卓を喰ったのは貴様か」


巨影が腕を振り下ろす。

その一撃は、山を砕くような重さだった。

呂布は馬上で身をひねり、方天戟で受け止める。

金属が軋むような音が響き、地面が割れた。


曹操軍の兵が叫ぶ。

「う、受け止めた…!? あの化け物の一撃を…!」


紅陽は馬を走らせながら呟く。

「…呂布殿。やはり、あなたは人ではない」


廠は曹操の横で、静かに息を吐いた。

「ここが勝負所です。呂布殿が道を作る。我らは、その背を支える」


曹操は剣を掲げ、全軍に叫んだ。

「呂布を孤立させるな!全軍、巨影へ向かえ!!」


----


巨影の腕が再び振り下ろされる。

その軌道は、山を薙ぎ払うかのように重く、速い。

呂布は、さらに速かった。

赤兎馬が地を蹴り、呂布の身体が風のように横へ滑る。


方天戟が閃き、巨影の手首が空中に舞った。

黒い血が噴き出し、地面を焼くように蒸気を上げる。


巨影が吼える。

「ァアアアアアア!!」


跳躍。


それでも呂布は、冷静に巨影の動きを見ていた。


隙がある。


巨影の膝に方天戟を突きたてる。

手ごたえがあった。


「うおおおおお」


呂布は吠える。


巨影が片膝をつく。


右腕。

左腕。

右脚。

左足。


次々と切り落としていく。


巨影は、もはや立つことすらできなかった。

四肢を失い、黒い血を撒き散らしながら、なお呂布を睨みつけていた。


呂布は赤兎馬を走らせ、巨影の肩へと跳び移る。


方天戟を大きく振りかぶる。


「董卓の仇だ」


巨影の首が、空へと舞った。

黒い霧が噴き出し、空気が震えた。

次の瞬間、巨影の身体が、崩れ落ちるように霧散した。


----


巨影が消えた瞬間、百万の異形が一斉に動きを止めた。

まるで糸が切れた操り人形のように、黒い影が次々と崩れ落ちていく。


曹操軍の兵が叫ぶ。


「消えていく……!」

「異形が……霧になって……!」


紅仁の歩兵隊の前でも、異形は霧散し、地面に黒い灰だけを残して消えていく。


紅仁は槍を構えたまま、息を吐いた。


「…核を落としたか。呂布殿、見事だ」


曹操は馬上で、呆然と呟いた。


「見たか……これが武だ。天下とは、こうして形を変える」



廠は静かに言った。

「呂布殿は、乱世の“鬼神”です。鬼神が味方であるうちは、我らはまだ戦える」


紅陽は遠く、呂布の姿を見つめながら言った。

「さて…あの人は、まだ暴れる気でしょうか」


巨影が消えた場所に、呂布が立っていた。

赤兎馬の背で、方天戟を肩に担ぎ、戦場を見下ろす。

その姿は、まるで黒い海を焼き払った“火柱”のようだった。

呂布は鼻で笑い、叫んだ。


「次はどこだ!異形でも人でも、かかってこい!!」


曹操軍の兵たちは、歓声とも悲鳴ともつかぬ声を上げた。


曹操は深く息を吐き、廠に言った。

「…呂布を味方にできる者は、天下に何人いるのだろうな」


廠は静かに答えた。

「味方にするのではなく、同じ方向を向かせるのです」


曹操は苦笑した。


「それが難しいのだがな」


曹操は、遠くに立つ鬼神の背を見つめた。


――この男がいる限り、乱世は終わらない。


そして同時に、この男なくして、乱世もまた終わらぬと知った。

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