31.百万の災厄
空気が、変わった。
風が止む。
兗州の大地が、低く唸った。
「……霧、か?」
曹操軍の前方――地平線を覆う黒い壁が、ゆっくりと立ち上がっていた。
----
数刻前。
青州から溢れ出した黄巾の残党は、もはや“軍”ではなかった。
飢えた民。家族を抱えた者。傷だらけの兵。略奪でしか生きられなくなった者たち。
それらすべてが混ざり合い、巨大な奔流となって兗州へ流れ込んでいた。
その数、十万以上。
冀州を揺るがした異形の災厄が収まった直後――
新たな影が、兗州へ迫っていた。
----
許昌。
「報告! 青州より黄巾の大群接近! 食糧を求め、村々を襲撃中!」
文官たちがざわめき、武官たちは顔をしかめる。
曹操は静かに立ち上がった。
「……青州の乱は、まだ終わっていなかったか」
荀彧が進み出る。
「彼らは統率を失った流民です。しかし飢えた群衆は、時に軍勢以上の脅威となります」
程昱も続けた。
「異形の騒乱に乗じ、黄巾が再び旗を掲げるやもしれませぬ」
曹操は短く息を吐いた。
「迎え撃つ」
低く、揺るぎない声だった。
----
兗州国境。
曹操軍は黄巾の群れを前に布陣していた。
戦う力すらない者も多い。
だが数だけは圧倒的だった。
怒号と悲鳴が混ざり、戦場は混乱の渦へ沈みかける。
「殿、押し返せますが数が多すぎます!」
夏侯惇が叫ぶ。
「夏侯淵に右翼迂回。許褚、中央を押せ」
曹操の指示は冷静だった。
黄巾は軍ではない。
だが飢えと絶望が生む奔流は、軍勢以上の圧力となる。
――その時。
空気が変わった。
風が止み、地面が震える。
兵たちが一斉に空を仰いだ。
「……霧、だ」
黒い霧が地平線から立ち上がる。
細い筋は、瞬く間に壁となった。
「殿……これは」
霧が裂けた。
黒い影が、溢れ出す。
一体、二体ではない。
数百。数千。数万。
否――数える意味すらなかった。
地平線すべてが、黒に染まる。
百万を超える異形の群れ。
兵たちの背筋が凍りついた。
----
異形はまず、黄巾へ襲いかかった。
悲鳴すら許されない虐殺。
肉が裂け、骨が砕け、命が飲み込まれていく。
十万の民が、焚き火へ投げ込まれた枯葉のように消えていった。
曹操は歯を食いしばる。
「これが……災厄か」
「撤退を!」と夏侯惇。
だが曹操は首を振った。
「退けば兗州が滅ぶ。ここで食い止める」
剣を掲げ、叫ぶ。
「百万だろうが千万だろうが関係ない!
兗州を守るのは我らだ! 弓兵、構え!」
兵の瞳に光が戻る。
「曹孟徳が退くと思うか!」
雄叫びが戦場を震わせた。
----
その瞬間。
北風が裂けた。
赤兎馬を先頭に、赤い影が戦場へ突入する。
「異形は全部、俺の獲物だ」
呂布。
方天戟が唸り、黒い影がまとめて吹き飛ぶ。
黒い海に、巨大な火柱が立ったかのようだった。
----
遅れて現れたもう一つの旗。
神軍。
先頭に立つのは紅陽。
「――突撃」
騎馬隊が一斉に駆ける。
呂布が力で波を砕き、神軍は陣形で波を割った。
呂布が戦場を破壊し、神軍は戦場を書き換えていく。
紅陽の方天戟が閃くたび、異形が静かに霧散した。
左右からの双刃に、黒い波が押し返されていく。
曹操は息を呑む。
「これが、神軍……そして呂布、か」
わずかな沈黙。
そして呟いた。
「呂布は戦を破る刃――だが、神軍は戦そのものを変える」
----
「曹操殿」
背後から馬の足音。
廠が神軍兵を率いて並ぶ。
「異形は我らの敵です」
曹操は頷いた。
「勝てるのか?」
廠は前を見据えたまま答える。
「勝つしかありません。
道は、すでに開かれています」
曹操は剣を握り直す。
「全軍、神軍と共に戦う!」
雄叫びが再び上がり、曹操軍は前進した。
――その時、誰もまだ、“本体”が動き出していることを知らなかった。




