5
「夫の振る舞いは恥ずべきものですが、わたくしは今さら責めるつもりはありません」
侯爵夫人は感情を交えず、淡々と話を続けた。
「マイルズ嬢、あなたに対しても同じです。ですから、あなたの口から真実を話してください。そうでなければ、これからのことが決められませんから」
「これからのこと?」
サラ様がぱっと顔を上げた。
「夫は今、不治の病に冒されています。彼はひとり息子でわたくしとの間に子どもはいませんから、ノアをマートン家の嫡男として引き取ることを望んでいます。今日はそのお願いに参りましたの」
「そんな……。今まで黙っていたのにどうして……」
ロイがうめくように言う。
「ブラン伯爵が離婚の際に嫡男であるはずの子どもを引き取らなかったと聞き、夫は初めてマイルズ嬢の話は本当だったのではないかと思い始めました。それでも波風を立てたくなくて黙っていたのですが、自分が病に倒れ、ノアがクライド伯爵に託されたと聞いて心が揺れたそうです。我が子であれば、爵位を譲ってやることもできますから」
「お断りします。ノアを養子にすると決めたのは、私のほうが先ですっ!」
何も言わないサラ様に業を煮やしたのか、ロイが叫ぶように言った。
「奥方は受け入れていないと聞いたが」
アレクシス様が冷たい口調で指摘すると、サラ様が顔色を変えた。
「そんな、嘘よね、ロイ。大丈夫だって言ったじゃない。わたしはニナ様だから安心してノアを任せられると思ったのよ?」
(わたしなら素直に言うことを聞いて、あなたの子どもを育てると思ったの? 人を舐めるのもいいかげんにしてもらいたいわ)
あまりにも勝手な言い草に腹が立ったが、続くロイの発言で怒りも吹き飛んだ。
「離婚するから問題ない」
彼はわたしを一瞥もせず、躊躇なくそう言い放ったのだ。
(あんなに頑なに離婚はしないと言っていたのにね)
わたしは笑い出したくなった。この人はどうしてもサラ様の息子を手放したくないのだ。
(いいわ。それならさっさと実行してもらいましょう)
「まあ、旦那様。実の親子を引き離すおつもりですの?」
わたしはロイを煽った。
「本当に侯爵の子かどうか分からないだろう?」
口走った直後にロイはしまったという顔をしたが、すでに遅かった。サラ様がものすごい勢いで睨みつけている。
「ほう、サラは侯爵以外にも秘密の恋人がいたのかな」
アレクシス様は目を細め、口元に蔑むような笑みを浮かべた。
その表情を見て、サラ様は頭に血が上ってしまったらしい。
「酷いっ!! わたしはそんな淫乱な女じゃないわっ!!」
ヒステリックに叫ぶと、ぽろぽろと涙を流した。
「ああ、悪かった。そんなつもりじゃなかったんだ」
ロイはうろたえながら謝るばかりで、そんな彼らを侯爵夫人とアレクシス様は冷ややかに眺めている。
わたしはあまりの情けなさに、無様な姿を晒す夫から目をそらした。彼を好きだった過去の自分を、今では恥ずかしいと思うほどだ。
「寂しかったのよ。アレクシスは遺跡の発掘に夢中で、結婚してもしばらくは遠くに行ったきりになるって言うし、ひとりで取り残されるわたしが不安になるのは当たり前でしょう?」
サラ様は哀れみを誘うかのように涙声で語った。
「マートン侯爵はまだ爵位を継がれる前で、彼も婚約者が冷たいと不満そうだったから、子どもができた時にお互い婚約解消して結婚しましょうと言ったの。なのに、彼は自分の子じゃないだろうって、婚約者とも別れるつもりはないって……」
「呆れたな。相手に結婚まで迫っていたのか。あちらのほうが爵位は上だから、侯爵夫人の座を狙ったんだろう。それで振られたからって何事もなかったように僕と結婚するなんて、どれだけ図々しいんだ?」
「あなたは気づきもしなかったじゃない。わたしに興味がなかったんでしょう? 愛してもいなかったくせに偉そうに言わないで」
「確かに愛していなかったが、少なくとも僕は不貞などしていない。もう君と話すのはうんざりだ」
アレクシス様はサラ様から顔を背け、真正面からロイをみつめた。
「侯爵もサラも認めた。ノアはマートン家の後継者だ。侯爵になれる道があるのに、まさかおまえは邪魔したりしないよな」
ロイが口を開くよりも早く、サラ様が身を乗り出すようにして言った。
「本当にノアが侯爵になれるの?」
「ええ。もし夫が亡くなるようなことがあっても、先代の侯爵夫妻である義理の両親とわたくしが後見人となり、後継者として育てますわ」
侯爵夫人が断言したことでサラ様はほっとしたようだが、すぐに不安げな表情に変わった。
「でも、そんなことしたら、ノアが不貞の子だと言われるわ」
「それは仕方がないな。仕出かしたことの責任は取らないと」
アレクシス様は何でもないことのように言ったが、サラ様は顔をしかめて首を振った。
「あなたは関係ないからそんなことが言えるのよ。チェンバレン侯爵がなんと仰るか」
「ああ、それなら話は終わっている」
「え?」
「マートン侯爵直筆の手紙を持っていって洗いざらいぶちまけたら、チェンバレン侯爵は僕の話を信じてくださったよ。君に失望したと言っていたな。結婚前から不貞をし、他の男の子どもを孕むような女性と結婚するつもりはないそうだ」
「いやああっ!! なんてことしてくれたのよっ!!」
絶叫したあと、サラ様はソファーに身を投げて泣き崩れてしまった。
ロイが背中をさすりながら必死に寄り添っている。
それを見ても、もはや何とも思わない。夫に関するすべての感情はすっかり乾き切り、跡形もなく消え去ってしまったようだ。
「ロイ、いいかげんにしろ。奥方の前で何をしている」
アレクシス様に咎められても、彼はこちらを振り向きもしない。
「放っておいてくれ。離婚したいと言い出したのはニナだ。私はただ傷つきやすいサラを心配しているだけなのに、気遣うことすら許そうとしない。心の狭い冷たい女なんだ」
「よくそんなことが言えたものだな。僕はおまえたちの事を学生時代から知っている。ニナは一途におまえだけをみつめていたのに、応えなかったのはおまえのほうだ」
「うるさいっ!!」
ようやく振り返ったロイはわたしを睨みつけた。
「離婚だ。おまえなどこちらから捨ててやる。私はサラに求婚するんだ」
(やったわ)
思わず拳を握ってしまった。
本当はこの場で踊り出したいほど嬉しかったが、喜びを顔に出さないよう必死に表情を引き締める。
「では、そういたしましょう」
わたしは侍女に命じて離婚届を持ってこさせた。
サラ様に求婚するなど、今までのロイならば思いつきもしなかっただろうが、この間の話し合いの際にわたしが放った言葉が彼の中に残っていて、遅効性の毒のように今頃になって効いてきたのかもしれない。
(まあ、本人が幸せになるなら毒じゃないのかもしれないけれど……)
なぜかわたしは、もしロイがサラ様と結婚できたとしてもふたりはうまくいかないと思っていた。だが、今となってはもう、どうでも良いことだ。
ソファーに突っ伏したままずっと泣き続けるサラ様の隣で、ロイは差し出された離婚届にサインした。
それを見届けたアレクシス様が、サラ様に氷のように冷たい視線を向けた。
「さんざんあちらこちらに迷惑を掛けたようだが、サラも息子が侯爵になれるのだから文句はないだろう」
「勝手に決めるな」
「やめて、ロイ」
反論しようとしたロイをサラ様がやんわりと止めた。
「もういいの。前にも言ったでしょう? ノアのためならどんなに辛い事があっても耐えられるって。わたしの縁談は壊れてしまったけれど、それであの子が幸せになれるのなら仕方がないわ。ニナ様がノアを受け入れてくださらないなら、マートン侯爵のところに行ったほうがいいと思うのよ」
涙に濡れた顔を上げ、悲しげに語るサラ様を見てけなげだと思っている馬鹿は、きっとこの場でロイしかいないだろう。
(はあ? 縁談が壊れたのはあなた自身のせいでしょう? その上きっちりわたしを悪者にしているし)
ものすごく異議申し立てをしたかったが、うっかり反論しようものならロイが絡んでくるだろうから面倒だ。唇を噛みしめて我慢するしかない。
だが、わたしに代わって的確に言い返してくれた人がいた。
「どうしてそんな風に被害者面ができるんだ? チェンバレン侯爵に愛想を尽かされたのは君自身の行いの結果だろう?」
(よくぞ言ってくださいました)
この瞬間、わたしの中でアレクシス様に対する好意が最大級に膨れ上がった。
「しかも、爵位目当てで息子を送り出す先をクライド伯爵家からマートン侯爵家に変えたくせに、ニナ様のせいにするとはどこまで性格が悪いんだ? 恥知らずにも程がある」
アレクシス様の瞳の奥には強い怒りが宿っている。
「なっ」
サラ様は絶句し、ロイが椅子から立ち上がる。
まさかここまで仰るとは思っていなかったから、さすがにわたしも青ざめたが、アレクシス様は一向に動じる風もなく、ご自分も椅子から立ち上がった。
「話は決まったみたいだから我々は失礼するよ。後はふたりでどうぞ」
あっさりと背を向けられ、ロイは握った拳を振り上げることもできない。
「さあ、行きましょう」
アレクシス様に促され、わたしと侯爵夫人も部屋から出た。
*
「事前に説明もせず、話を進めてしまってすまなかった」
「いいえ、おかげで離婚できましたもの」
申し訳なさそうな顔をするアレクシス様に、わたしは戦利品である離婚届を示し、笑顔で答えた。
「ノア様を旦那様に任せるのは心配だったのですが、そちらも解決しましたから本当に良かったと思いますわ」
「クライド伯爵夫人、あなたはノアをわたくしに預けるのは大丈夫だとお思いになるの?」
侯爵夫人は微笑を浮かべていたけれど、どこか翳りがある。平静を装っているが、おそらく不安でたまらないのだろう。
「離婚しましたので、どうかニナとお呼びください。もちろん、大丈夫だと思っていますわ」
わたしは安心させるように、大きくうなずいてみせた。
「奥様には覚悟がおありですもの。子どもを育てる責任感など微塵もなく、常識すらあるかどうか怪しいクライド伯爵と比べることすらおこがましいですわ」
「まあ、手厳しいのね。でも、信頼してもらえてうれしいわ。あなたの期待に応えられるよう頑張ってみるわね」
侯爵夫人は居住まいを正すと、アレクシス様とわたしに向かって深々と頭を下げた。
「ブラン伯爵、ニナ様、この度はいろいろとありがとうございました。近日中に養子縁組の書類を整え、手続きを済ませます。準備が整い次第、すぐにノアを我が家に迎えますわ」
「あちこち連れ回されてかわいそうだが、ノアは僕がマイルズ家に連れて行こう。あちらにも話は通してあるから、問題ないと思う」
「そうですわね。旦那様が抵抗なさるといけませんから、今のうちに連れて行かれたほうが良いかと」
「君はどうするんだい?」
「すでに荷造りは終えていますから、このまま出て行くつもりですわ」
「行動が早いな。実家に戻るのか?」
「いいえ。とりあえずゆっくりしたいので、しばらくはホテルにでも泊まるつもりです」
「そうか。良ければ送っていこう」
「ありがとうございます。助かりますわ」
使用人たちにはすでに挨拶をすませてある。
乳母に頼んでノアの身支度をさせている間に、わたしは義父に会い、離婚が成立したから出て行くと告げた。
驚いて引き留めようとする義父に、ロイがサラ様と結婚するつもりだと教えてあげると、喜ぶかと思いきや頭を抱えて椅子に座り込んでしまった。
わたしは晴れ晴れとした気持ちで屋敷から出た。そして、一度も振り返ることなくアレクシス様に手を取られ、馬車に乗り込んだ。




