4
二日後、屋敷に到着した義父を、ロイはわたしに会わせることなくすぐさま執務室に連れていった。
わたしがいないほうが早く話が決まると思っているのだろう。
それからいくらも経たぬうちに執務室に呼ばれたので、あっさり話が決まったか、問答無用で決裂したのかどちらだろうと思いながら、部屋に入った。
「話は聞いたよ。良かったな、ニナ。これで後継の心配をしなくてすむぞ。すぐにでも手続きをしたほうがいいな」
挨拶もそこそこに満面の笑顔で言われ、わたしは心の底からがっかりした。
(少しは反対してくださるかと思っていたのだけれど……)
諦めるのはまだ早いとか、他人の子どもを育てられるのか心配だとか、そういった思いは義父にも一切ないようだ。
ロイの両親が息子に甘いのは知っていたけれど、さすがにここまで無条件で賛成するとは思っていなかった。
「クライド家の血筋でなくてもよろしいのですか?」
「分家筋から養子となれば、子爵か男爵家だ。血筋でなかろうと我が家よりも格上の伯爵家の子息を迎えられるのであれば、そのほうが良いだろう? しかもこれでブラン家ともマイルズ家ともつながりができるのだ、ありがたい話じゃないか」
義父は上機嫌で、今回は連れてきていないが、領地にいる義母も同じ意見だと言った。
「私は子どもができないからといってニナを離縁するのは可哀相だと思っていたんだが、そんな心配も無くなったしな」
わたしも同じ気持ちだと疑わないようで、にこにこしながらこちらを見ている義父と、満足げに軽くうなずいたロイを目にして、諦めていたはずなのに再び怒りがこみ上げてきた。
(どうしていつもわたしの気持ちを聞かないで勝手に決めるの?)
しかも、義父母のあいだでは早々にわたしたちの離縁の話が出ていたようだ。
(それならかえって話がしやすいわ。ちょうどいい、この場で片付けてしまいましょう)
「お待ちください」
わたしは用件は済んだとばかりに席を立とうとした義父を引き留めた。
「養子縁組の手続きをする前に、こちらを先に進めてください」
わたしがテーブルの上に署名済みの離婚届を広げると、ふたりとも呆気にとられたようだった。
「これは何だ?」
ロイはまだ、妻に離婚届を突きつけられているという今の状況が飲み込めていないらしい。
「見ての通り、離婚届ですわ」
「俺と離婚したいのか?」
「ええ、そうです」
「なぜだ?」
ロイが心底不思議でたまらないといった顔をするのがおかしかった。
この人は本当に分かっていないのだ。どれほど自分が妻を傷つけてきたのかを。
それならわたしも手加減なんてしない。この場ではっきりと言わせてもらう。
「わたしにはサラ様のお子を育てることはできません。あなたはノア様をこの屋敷に入れるとお決めになりました。ですから、わたしが出て行くのです」
「何を言っているんだ? 養子の件は子どものいない君のためでもあるのに、なぜ自分から出ていくんだね?」
義父も戸惑っているようだ。
(通じるかわからないけれど、説明してさしあげましょう)
「お義父様、サラ様が旦那様の初恋の人だとご存じでしたか?」
「それはまあ。でも、過去のことだろう」
「いいえ。今も思っていらっしゃいますわ」
「まさか、不貞をしたのか?」
「馬鹿なことを言わないでください!!」
ロイは顔色を変えた。
「私と彼女はそんな関係じゃない。やましいことなど何もありませんよ」
「妻とは寝室を共にせず、サラ様がまだブラン伯爵夫人である頃から見舞いと称して屋敷に通い詰める。旦那様の心がどちらを向いているか、一目瞭然ですわ」
「寝室を分けたのは君じゃないか。サラはアレクシスに冷たくされて弱っていたんだ。心配するのは当然だろう」
「同じベッドにいてもまったく触れようとしない夫といっしょにいる意味がありますか? いっそ白い結婚にしてくださればもっと早く諦めがつきましたのに、本当にあなたは中途半端ですわ」
「なんだと!?」
「だってそうでしょう? それほど思っていらっしゃるのなら、サラ様が離婚なさった時に、さっさとわたしと別れて求婚なさればよろしかったのよ。何もしなかったくせに、それでも思い切れずに子どもを引き取って縁をつなごうなんて、はっきり言って気持ち悪いですわ」
ロイは立ち上がると、平手でわたしの頬を打った。
ぱんっと乾いた音が響く。
わたしはじんじんと痛む頬を押さえ、ロイをにらみつけた。
「ロイ、何も叩くことはないだろう。確かにニナは言い過ぎたと思うが……」
義父はどうしていいかわからないようでおろおろしている。
「離婚はしない。少し頭を冷やせ」
(怒りで熱くなっているのはあなたのほうでしょう?)
さすがにぶたれたのは初めてだったが、たいしてショックでもなかった。ロイが煽りに弱いのは知っていたので、こうなることも予想していたからだ。
それよりも思ったことをはっきりと口に出せたのが嬉しく、すっきりとした気分になった。
「そうですか。では裁判所に訴えます」
部屋を出て行こうとすると、義父に呼び止められた。
「待ってくれ、ニナ。離婚のために裁判所に行くなんて恥をさらすようなものだ。私がロイを説得するから、そのように事を荒立てず、穏便に済ませよう」
「では、お義父様が旦那様に離婚するよう言ってくださるのですね?」
「いや、そうではなくて……。だから、その、養子の件をもっと時間を掛けて話し合えば……」
「もう決まったことです」
義父が最後まで言わないうちに、ロイが断言する。
「離婚してどうするつもりだ? 君は子どもが産めないと思われて、再婚先も見つからないだろう。自分の立場をわきまえたほうがいいぞ」
「よくもぬけぬけとそのようなことを口にできますわね。誰のせいだと思ってるんですか?」
本当に話せば話すほど時間の無駄だと思えてくる。
「お義父様、驚かせてしまったお詫びに三日だけ待ちますわ。旦那様を説得するなり何なりお好きにどうぞ」
背後で何やら叫んでいるようだがすべて無視して自室に戻ると、荷物の整理を始めることにした。
ロイや義父の呼び出しを断り、夫人としてやらなければならない最低限の仕事だけをこなす。食事も部屋で取り、一切彼らとは顔を合わせない。
使用人たちから聞いたところによると、平然と三歳の子どもといっしょに食事をすると言い、その大変さについて何もわかっていなかったロイは、当然のように育児に手こずり、ようやく乳母や子守の女性を手配したらしい。
(何の準備もせずにいきなり子どもを連れてきて困るのは当たり前だわ。どうせ、全部わたしにやらせようと思っていたんでしょうね。せいぜい苦労すればいいのよ)
離婚するという言葉以外は聞きたくないと告げ、部屋に鍵を掛けてしまうと、彼らは何も言ってこなくなり、あっという間に三日目の朝を迎えた。荷造りはすっかり終わっている。
ひとりでのんびり食後のお茶を楽しんでいると、来客の知らせがもたらされた。
「サラ様がいらしたの?」
「はい、後からブラン伯爵もいらっしゃるそうです。ノア様のことでお話があるとか。旦那様にお知らせして応接間にお通ししたのですが、奥様も呼ぶようにと」
「わかったわ」
返事はしたものの、もちろんすぐに行くつもりなどない。
「アレクシス様がいらしたら、先にわたしに教えてちょうだい」
「かしこまりました」
侍女は心得たとばかりにうなずいた。
それからいくらも経たぬうちに、アレクシス様の来訪が伝えられた。
出迎えに行くと、アレクシス様はおひとりではなく、隣に黒い髪と藍色の目をした女性が立っていた。瞳と同じ色のドレスを身に着けた上品で理知的な人だ。
(マートン侯爵夫人だわ)
言葉を交わした事はないが、夜会で何度かお見かけしたことがある。マートン侯爵が病のため、半年ほど前から社交の場には出ていらっしゃらなかったはずだ。
「突然伺ってしまい、申し訳ない。事が事だけに早いほうが良いと思ってね」
「こうしてお話しするのは初めてですわね。今日は夫の代わりに参りました」
挨拶を交わした後、夫人はわたしに向かって頭を下げた。
「夫から頼まれましたの、自分に代わってあなたにお詫びをしてほしいと。この度はノアのことでご迷惑を掛けたようで、たいへん申し訳なく思っていると申しておりました」
「いえ、あの、どうか頭をお上げください」
救いを求めてアレクシス様を見ると、彼はどこか悲しげな微笑を浮かべ、わたしに向かって軽くうなずいてみせた。
(やはり、そうだったのね)
アレクシス様とご一緒にいらしたことから何となく予想はしていたが、マートン侯爵がノア様の父親なのだろう。
「サラはもう来ているかい?」
「はい、夫がお相手をしておりますわ。ご案内します」
応接室に向かう途中、ノア様を抱いた乳母と行き会った。
「どうしたの?」
「旦那様にノア様をお連れするよう命じられました。お母様に会わせたいそうです」
(そういうことには気が回るのね)
得意げにふたりを会わせようとするロイの姿が思い浮かび、わたしはとても不愉快な気分になった。
(でも、ちょうど良かったわ)
乳母を引き留め、その腕に抱かれていたノア様を侯爵夫人に見せた。
「まあ、驚くほど幼い頃の夫によく似ているわ。わたくしたちは幼なじみでしたから懐かしい気持ちになりました」
夫人はひどく優しげな目でノア様をみつめ、ふうっと大きく息を吐いた。
「ずっと不安だったのですが、こうして会ってみると改めて覚悟が決まりましたわ。わたくしに子どもはおりませんから、夫の希望通り、ノアを侯爵家の嫡男として迎えようと思います」
「それでよろしいんですの?」
「ええ。夫とマイルズ嬢には思うところもありますが、この子に罪はありませんもの。おそらく夫はもう長くありません。彼の最後の願いですし、わたくしも義理の両親と共にこの子の後見人という形で侯爵家に残ることができますから、悪い話でもないのですよ」
迷いがなくなったのか、晴れやかな笑みを浮かべる夫人を見て、わたしはほっとした。
これから話し合いをすると乳母に告げ、ノアを部屋に帰らせると、再び三人で応接室に向かった。
「お待たせいたしました」
夫はサラ様と談笑していたが、わたしを見ると途端に険しい顔になった。
「遅いぞ。何をぐずぐずしていたのだ」
「申し訳ございません。お客様をお連れしましたわ」
先にお二人を中にお通しすると、夫人を見たサラ様の顔がこわばった。
「マートン侯爵夫人がどうしてこちらに?」
戸惑うサラ様を無視して、アレクシス様はロイに夫人を紹介した。
相手が侯爵夫人ということで無礼はできないが、なぜここにいるのか訳がわからずロイも困惑しているようだ。
「アレクシス、これはどういうことなの?」
サラ様の口調には非難めいた響きが込められていた。
「手紙で伝えたはずだ、ノアの養子縁組について話があると。君も気になることがあるから、呼ばれるままここに来たのだろう?」
「あなたがせっかくの良いお話に水を差すんじゃないかと思ったからよ」
「いったい誰にとって良い話なのかな? 少なくともノアにとってではないよね? 血のつながりのない赤の他人に育てられるのだから」
羞恥からか、それとも怒りからなのか、サラ様の顔が真っ赤に染まった。
「だって、仕方がないでしょう? あなたはあの子をいらないと言うし、わたしといっしょにいたら爵位は継げないのよ?」
「僕はノアを不要品のように扱ったりはしていないよ。ただ僕の子ではないからうちには置いておけないと言ったんだ」
「まだそんなことを言っているのか?」
アレクシス様の発言に、ロイが声を荒げた。
「どれだけサラを侮辱すれば気が済むんだ?」
「それはこちらの台詞だよ。サラの言葉を鵜呑みにして、いつまで奥方を傷つけるつもりなんだ? 僕もいいかげんうんざりしているから、今日こそ決着をつけるつもりで来たんだ」
いつになく棘のある言い方だった。こんな風にはっきりと怒りをあらわにするアレクシス様を見るのは初めてだ。
「ノアの本当の父親は、マートン侯爵だ。ご本人も認めていらっしゃる」
「馬鹿な。そんなこと信じられるものか」
ロイがアレクシス様を睨みつける。
「残念ながら本当ですわ」
侯爵夫人がロイを見つめ、凜とした声で告げた。
「お互い婚約者がいたから遊びのつもりだったが、ブラン伯爵には申し訳ないことをしたと夫が申しておりました。マイルズ嬢から子どもができたと聞いた時、夫は自分の子ではないと思ったそうです」
「サラ、違うよな。君が不貞などするわけがない」
すがるように聞いたロイと目を合わせようとせず、サラ様は唇を噛んでうつむいてしまった。




