祖父
「陛下が勅命をなさるのを、私初めて拝見いたしました。」
当てがわれた客室で、豪奢な鏡台を前に私の髪をとかしながらアナニヤが静かに口を開いた。
「彼を不敬罪で罰するのはあまりにも可哀想だと思ったの。これからこの原則が皆に理解してもらえるといいのだけれど。」
「勅命なのですから、皆が理解するのは義務にございます。陛下が気にされることではありませんよ。」
当然のように返された言葉に、私は小さく目を伏せた。
皇帝の勅命は法であり、臣民はそれに従うべきもの。それはこの国では疑う余地のない常識だ。
他の侍女達も当然といった様子でうなづいている。
「……そうなのね。」
鏡台の上に置かれた首飾りを弄りながら私は日の落ちた窓の外をぼんやりと眺めた。
「何か、お変わりになられましたか?」
思いがけない問いに、はっと顔を上げる。鏡越しにアナニヤの淡い瞳と目が合った。
「そう思う?」
「以前はあまり、陛下はおしゃべりされることが少なかったので。……こうしてお話ができて嬉しいです。」
そう言ってアナニヤは柔らかな微笑を浮かべた。その表情には媚びもお世辞もなく、純粋な喜びが滲んでいる。
「ありがとう、アナニヤ。」
ふと、法廷で蒼白になっていたケルテス伯の顔が脳裏に浮かんだ。
「……でも、ケルテス伯には可哀想なことをしたわ。私が怒ってないって伝わるといいのだけれど。」
「秘書官のセクトゥル殿にご相談なされてはいかがですか?」
「法廷で私の隣に立っていた方?」
「はい。先帝陛下にも仕えてらっしゃった方ですし、文官達や陛下のお仕事をお支えするのが彼の仕事ですから。」
壮年の男性を思い出す。穏やかそうな人だったから、どうすればいいのか後で聞いてみよう。
アナニヤと私が話している間にも侍女達は。慣れない部屋であるのに迷いなくテキパキと仕事をしている。部屋の中には穏やかな時間が流れていた。寝支度もほとんど終わり、あとは休むだけという頃合いだった。
侍女の一人であるエステルが困った様子でやってきた。
「お休みのところ失礼致します。陛下、ヴィジル元帥が陛下をお見舞いに参りたいと」
「元帥が?」
もう夜遅い。普段であれば私は寝ている時間だった。親族だからギリギリ許されるが、こんな時間に女性に面会を取り次ぐのは外聞が良いとは言えないのではないだろうか。
ジークフリート・ヴィジルは私の父方の祖父だ。六大公爵家が筆頭、ヴィジル家前公爵でもある。ただ年に数回謁見をするくらいで、そんなに関わりがない。
「何かしら……アナニヤ、セクトゥルに先ほどの件を話しておいて。エステル、元帥をこちらにお通しして。」
アナニヤとエステルが踵を返した。
ほどなくしてジークフリートが入室し、騎士の礼をとった。本当に背丈が大きい。老齢にもかかわらず背筋は寸分も曲がらず、その立ち姿には一切の隙がなかった。祖父であるはずなのに、思わず居住まいを正したくなるような厳しさがあった。
「陛下」
「アンヌツィアータでいいわ。」
「……アンヌツィアータ様。」
ジークフリートは一瞬言葉を選ぶように沈黙した。
「勅命は、軽々しく下されるべきものではございません。聡明な陛下ならば、その重みも御承知のはず。……なぜ、あのような勅命を下されたのですか。」
「あの裁判は、最初から有罪ありきでした。」
私は迷いなく答えた。
「そして、あの場でそれを止められる権力を持つのは皇帝だけでした。ならば、私が止めなければならないと思いました。」
「ケルテス伯のやり方は、これまでの慣例に照らせば誤りではありません。」
「ええ。」
私は頷いた。
「だからこそ改めなければなりません。慣例である以上、このままでは同じことが繰り返されます。」
「……一人の平民を救うために勅命を用いられた皇帝は、史上初めてでしょうな。」
「一人の平民だからです。」
ジークフリートがわずかに眉を動かした。
「もし被告が貴族だったなら、私が彼を助けたことを誰も疑問には思わなかったでしょう。」
「……。」
「ですが、帝国の法は平民にも及ぶはずです。」
私はまっすぐ祖父を見上げた。ただ、その鋭い灰色の瞳がこちらを見据えている。付き合いの短い私には、彼が何を考えているのかは推し量れない。
「私が問題にしたのは身分ではありません。」
「では、何ですかな。」
「法にない罪で人を裁こうとしたことです。」
部屋に沈黙が落ちた。
壁際に立っている近衛兵や控える侍女達もこちらを注目していた。その沈黙に気圧されそうになりながらも、私は視線を逸らさない。
ジークフリートはしばらく口を開かなかった。
「平民であろうと貴族であろうと、法の定めぬ罪によって処罰されるべきではありません。
……少なくとも私は、そう考えています。」




