罪刑法定主義
私とそう年の変わらなそうな少年が、後ろ手に拘束され、冷たい石床に座らされている。乱暴を受けたのだろう。髪の毛はぐしゃぐしゃで口の端が切れてしまっていた。貧しい身なりだ。ふくふくとした白い手と仕立ての良い自分の着ているドレスを見下ろして、私は鬱々とした気分になった。
「被告人は、皇帝陛下の御馬車の進路を遮り、その御前を妨げんとした。
皇帝陛下の尊厳は帝国の尊厳であり、その行幸の妨害は帝国の秩序に対する侵害にほかならない。故に、不敬罪として厳しく処断すべきと考えます。」
「異議なし。」
「陛下の御手を煩わせるまでもない話だ。早急に方をつけろ。」
文官が朗々と起訴状を読み上げるが、少年はピクリとも動かない。彼の翡翠のような目は深い絶望に染まっている。
「お待ちなさい。」
判決を下す木槌が鳴らされようとする前に、私は文官を止めた。
法廷が静まり返る。ケルテス伯は息を呑み、私の隣に立つ、祖父だと名乗った老人は黙りを決め込んでいたが、じっとこちらに注目しているのを感じた。
「不敬罪の条文は、本来私への侮辱と危害を加えた者を罰するはずよ。この子はただ、道を横切ろうとしただけです。それを責めることは酷ではないでしょうか。」
ずっと俯いていた少年が驚いたように顔を上げ、目が合った。
文官達はざわりとした。私の周囲を固める近衛兵達も困惑したように目線を泳がせている。
「しかし、陛下。」
若干萎れた様子のケルテス伯が言い募ろうとするのを手で制す。彼の行いは間違ってはいない。
しかし、侍女たちに集めさせた情報によると、彼はお腹が空きすぎてほとんど意識がないまま歩いていたそうだ。牢でずっとそんなつもりはなかったと暴れていたと聞いている。
「貴方、名はなんというの?」
「……フィルです。」
「フィル。どうしてあの道を横切ろうとしたの?一歩間違えたら近衛兵たちに攻撃されていたかもしれないわ。」
「あのときは、腹が減ってて、あんまり思い出せないし……フラフラしてたから……」
「そうだったの。……では、私があの時間に馬車で通ったことで、貴方には不都合をお掛けしましたね。」
「えっ!?」
フィルと名乗った少年は呆然としている。貴族たちの騒めきが一層大きくなった。
正直、ここで単に私が無罪放免にして解散させることもできる。彼にとっては、それが一番楽だろう。貴族たちも女帝の慈悲による恩赦だとしてすぐに気にしなくなるはずだ。
ただ、それでは意味がなかった。
「ケルテス伯」
「は、はい。」
「私が命令したことは法になるのでしょう?」
「その通りにございます。」
私が優雅さを意識して問いかけると、ケルテス伯の顔は真っ青を通り越して蒼白だった。こんな小娘にそんなに怯えないでほしい。いい大人なんだから。
法廷中の人間が私の発言を固唾を呑んで見守っていた。
ティエール帝国において、皇帝の正式な命令は法になる。
しかも、絶対的な法として自らの死後もそれは効力を発する。先の皇帝の命令を覆せるのは現皇帝だけだ。日本でいう憲法と同義。だからこそ、この国における帝室の権威は絶対的だった。
「彼は不敬罪に書かれているようなことは何もしておりません。例え彼の行動が敬意に欠けていると捉えられたとしても、私の馬車を横切ってはならないと書いてはありません。法に定められていない以上、彼を裁く根拠は存在しないのですよ。」
侍従の手を借りて玉座から降りる。
法廷中の人間が固唾を呑んで私を見つめていた。皇帝の権威の象徴たる王杖を握りしめて、私は震えそうになる足に力を入れる。
「アンヌツィアータ・サフィルス・ティエールの名の下に宣告します。法律なければ犯罪なく法律なければ刑罰なし。――以後国中に知らせなさい。
よってフィル、貴方は無罪です。」
フィルは呆然と私を見つめていた。信じられないというように唇が震えている。やがて彼は崩れ落ちるように石床へ額をつけた。




