夜陰の訪問者-5-
『有難う御座います』
一瞬顔を上げた柳偉は、額が床に着くまで再び深々と頭を下げた。
そのまま動こうとしない彼の背から、メイヤー夫人が声を掛ける。
『夜も随分と更けました。姫様はもうお休みになられます』
話は終わった――もう用は無い。
夜更けの女性の部屋に、例え宦官であろうとも置いておきたくないと考えるのは、西側の人間では仕方無いだろう。
だが、後宮に入れば宦官は女官と共に宮殿の寝ずの番もするため、アリシアだけが身近に彼らを置かないという選択肢は無いのだが、この時メイヤー夫人はこの矛盾に気づいてはいなかった。
柳偉も反論する事もなく、湯を手桶に戻すと、てきぱきと道具を片付けて後ろ向きに後ずさり、『どうぞ御寝遊ばしませ』と言って退室して行った。
「大丈夫ですか?あのような約束をなされて」
「あの者をお側近くに置くのは、やはり反対です」
「我々の味方は、第一、第二、第五皇子ご本人だけと考えておく方が安全かと思われますが……」
柳偉の気配が去ると侍女達は、アリシアの側へとやって来た。
彼女達は、アリシアの柔らかな金髪を櫛で梳き、着替えの続きを始めながら、堰を切ったかのように口々に問いかけてきた。
「そうね、危なくなるかもしれない。それでも、今は彼を側に置く利点の方が大きいわ」
そうでしょう?と、アリシアが侍女達の瞳を見ながら言うと、それ以上の反論は出なかった。
「それに、彼が敵の手に落ちたとき、我々を裏切るような事があったとき、我々の手に余るときは……」
双子達は、言われずともその先は理解しているし、自分達の仕事だとでも言うように、ゆっくりと頷いてみせた。
「約束自体は大した問題では無いわ。問題なのは、太后を始めとする後宮の妃嬪達の方でしょうし……」
貧民救済になど興味も無い彼女達は、アリシアのする事になど関心を寄せることはないだろうが、それを逆手にアリシアに嫌がらせをして足を引っ張るような事が無いか、それが心配だった。
「彼が言っていたように、貴妃の給扮をお使いになられるのですか?」
いくら貴妃の宮扮が大金とはいえ、皇国全土の貧民救済を続けるには無理がある。
ましてや、穀物倉庫と呼ばれる南の州で戦争の準備を始められれば、遠からず穀物類の物価が上がってくるのは自然の流れだ。
そして戦争が始まれば、貧民だけでなく大量の流民が発生する。
貴妃の給扮で彼らの分まで賄う事は、不可能だ。
そもそも戦争難民は、国が策を講じるべき規模のものだ。
「姫様の宮廷費を削れば、他の妃嬪達に侮られます!」
イングリットが力説する。
妃嬪達に与えられる給扮には、金銭だけでなく現物支給である衣装用の絹の反物、ミンクやテンなどの毛皮、食材、年間に使用できる薪の数まで位によって決まっている。
これを超える分を賄うには、州姫達は各々の実家を頼りにする。
実家が裕福な州であれば、下位の妃嬪や女官であっても、上位の者よりも派手な暮らしをすることが出来る。
だが、実家に頼れないアリシアは、自分の衣食費を削らなければ、貧民救済の費用を捻出する事が出来ないという訳だ。
そうすると貴妃であるにも拘わらず、下位の妃嬪達よりも質素な暮らしを余儀なくされる事になる。
豪奢な衣装、珍しい遠方の料理で日々競い合う後宮で、アリシアは下位の女官達にすら嘲笑われると、イングリットは訴えているのだ。
「別に給扮を削るとは一言も言っていないわよ?」
「ひょっとして、……持参金に手を付けられるおつもりですか?」
ここ大蜃皇国では、持参金は嫁いできた姫の個人資産ではなく、嫁いだ家の物という見方をされるが、西側の考え方では持参金とは嫁いできた姫個人の財産という考え方が普通だった。
万が一の場合、結婚が白紙になった時などには、持ってきた持参金を全て持って帰国するのが慣例だ。
だから、結婚して数年で伴侶が事故や病気で亡くなった場合、あれこれと理由を付けて姫の帰国を許さないこともあった。
これは、姫だけでなくその多額の持参金も一緒に持って帰られてしまうことから、多額の借金がある国などは手放したく無いという理由が大きい。
その持参金を貧民救済に充てた場合、アリシアがもしもの事態に陥った時に、金銭を用立てる事が不可能になる事を意味していた。
双子達は自分達で声に出したものの、その恐ろしさに顔色を青くして主人の返答を待っている。
「大丈夫よ」
震える双子達に、柔らかくにこりと笑って安心させると、アリシアは続けた。
「持参金には手を付けたりはしないわ。かと言って給扮からも出せない、となると別の手立てを考えないと」
特徴的な瞳を好奇心でキラキラと光らせるアリシアに、メイヤー夫人は美しいブルーグレイの瞳を訝しげに顰める。
「……まさか、……商人の真似事をなさるおつもりですか?」
「そう、西側と取り引きをすることにするわ」
「王族が商売など……!」
一度やってみたかったの!と喜ぶアリシアの直ぐ横で、マルグリットが驚いた様な声を上げた。
「私自身が商売をするのでは無くてよ。私はただの出資者。商売をするのは、そうね……船長達にでも任せることにするわ」
元々商船を駆っていた男だ、餅は餅屋に任せておけば上手くやってくれるだろう。
「この船を使われる気ですか?」
察しの良いメイヤー夫人が問うてきた。
「そうよ。商船であれば、中央や西側と疑われる事なく行き来が出来るし、何より″鳥″よりも確実に手紙を託せるでしょう?」
足の速いクリッパーなら、アリシアのような貴人を乗せていなければ、ほんの数週間で大蜃皇国と西側とを行き来出来るだろう。
こちらの珍しい織物や陶器を乗せて西側に持ち帰り、西側や中央からワインや香辛料を持って戻ってくる。
ジェフリー達は、荷を下ろした各地で収益を上げることが出来て、船主であるアリシアは、船を貸し出す代わりにその賃料を受け取る事が出来る。
何よりも、私の手紙を、難無く大叔母様に届ける事が出来て、大叔母様から西側だけでなく東側が掴んでいない中央の動向を教えていただくことも出来る。
「それに、貧民救済の物資を各州に運搬するという名目で、人を行き来させても疑われないし。何より後ろ盾の無い私が、誰にも疑われずに資金を調達するにはもってこいでしょう?」
情報が欲しい。誰よりも何処よりも速く正確な情報が。
それには、クリッパーで商隊を編成し、各地を高速で行き来するのが、一番確実に情報を手に入れる事ができると読んだのだ。
「何処よりも速く正確な情報を手に入れる。少ない労力で、より多くの功を手に入れなければならないわ。動かせる人間の数が少ない今、重要な事よ」
「そうですね。そのように姫様をお育てした責任がわたくしにはありますので、最後までお手伝い致します」
メイヤー夫人が、困ったように眉尻を下げてアリシアを見つめている。
幼いアリシアの教育係に任命されたのは、何も貴婦人としてのマナー教師としてだけではない。
戦略や策略、果ては謀略まであらゆる事を教えてきた。
それは身を守るためであり、時に先手を打つため、出遅れた場合に出来るだけ手数の少ない状態で、敵を翻弄するように。
最小限の労力で最大限の効果を得るように、と祖父母であるラムゼイ伯爵夫妻が、幼い自分に教えたことをそのままアリシアに教えてきた。――マリア・セシリアの命によって。
彼女の教え子は、それをきちんと吸収し、そして実践で活かそうとしている。
それは教師としては嬉しい事だが、同時にこんな風に役立てるものだとは思ってもいなかった。
「申州の動きを鈍らせて、その間に謀反が露見してくれるのが一番いいわね。それならば、禄蝉殿下を担ぎ出した者達は処分されても、殿下は幽閉程度で済みそうだし。欲を言えば、謀反そのものが霧散してくれればいいのだけれど……」
ね?とメイヤー夫人を見て微笑むアリシアに、夫人は右頬に手を当て困ったように溜め息を零した。
「先手を打って、申州勢を叩かれないのですか?」
「別にこちらから仕掛ける気は無いの。覚えておいて、私は禄蝉殿下の死を望んではいないことを……」
――内戦が起こらず、誰の血も流れずに、瑞蛉殿下が玉座に就くことが一番の望みよ――




