夜陰の訪問者-4-
柳偉の言葉の意味を計りかねていたアリシアは、次の言葉を待つが答えは無かった。
それどころか、柳偉の方ははぐらかすように話題を変えようとする。
『……半分は合っていますから、一先ず合格と致しましょう』
その言葉にイングリットが、柳偉の頚筋に当てていた刃を更に近づけた。
王族に対して無礼な、といったところだろう。
刃が当たった部分に赤い筋が出来たが、イングリットも柳偉もそしてその場に居た三人も動じる事は無い。
『州姫達であれば、それにすら気付くことも無いでしょうから……』
動じる素振りは微塵も見せずに、柳偉は桶の中から両手を出すとアリシアの前に大仰に額づいて見せた。
『貴妃娘娘、貴女様のご要望の通りお側にお仕え致しましょう』
アリシアは、柳偉に知られないよう詰めていた息をほぅっと吐き出した。
これで彼を手元に置くことが出来る。安堵にも似た溜め息だった。
『……但し』
顔は伏せたまま、柳偉が普段とは違い張りのある声で続ける。
『娘娘が高位の座にある限り、……とさせていただきます』
「ええ……勿論そのつもりよ。下級の人間に付いても貴方には何の得にもならないでしょうから」
反対にアリシアは、柔らかく微笑んだ。
はっきりと利害が一致している間だけの関係だと言われる方が楽である。
ただ、それを了承したからには、どんな手を使ってでも貴妃の座に齧り付かなければならなくはなったのだが。
「では改めて問うわ、貴方の望みは何かしら?」
約束したでしょう?とアリシアが尋ねると、一瞬言葉に詰まったのか間があった。
彼にしては珍しい、とアリシアが小首を傾げると、程なくして言葉が返ってきた。
『……娘娘に、出来得る限り長い期間高位にお就きいただく事でございます』
「それではわたくしは、貴方に何も支払う事が無いでしょう?正当な対価にはならないわ」
『娘娘が、貴妃位にあられる間は、奴才もその太監として権力を振るう事が出来ます……』
「それだけ?」
ザバッと水飛沫を上げながら、アリシアは桶に入っていた左足を右足の上に組んだ。
『と、申されますのは?』
「わたくしが高位に就き続ける事で、貴方の懐にどれほどの賄賂が入るのかは分からないけれど、貴方がそんな端金で動かされる人間では無いと思うのだけれど?」
金銭や高位が目的であったならば、アリシアが声を掛けた最初の時に要求してきたはずだ。
それにそちらを要求してくれた方が、アリシアとしてもこんな手の込んだ試験など受けずとも良かった。
わざわざアリシアが自分の眼鏡に敵うか見極めようとした人間が、欲しいものがたかだか「袖の下」とは笑わせてくれる。
「それに、……」
『それに?』
「異国の姫がいくら貴妃の座に就いたからと言って、ただのお飾りでしかないわ。皇国出身の州姫達ほどの影響力も無ければ、実家である州の後ろ楯も無い貴妃に、誰もご機嫌伺いになど来ないでしょう?」
例えアリシアが天帝の寵姫となったとしても、太后が居る限り彩蝣の意見は簡単には通らない。
そんなお飾りの天帝とその貴妃に、わざわざご機嫌伺いに来る州侯など居るはずも無いだろう。
貴方の本当の狙いは何処にあるの?と下げたままの柳偉の頭を見下ろす。
ザザッと時折船の切っ尖が波を切る音が響くだけの静かな部屋の中、柳偉は顔の横に置いていた掌をグッと握り込むのが袖の皺から分かる。
「何もかもお見通しという訳では無いけれど、貴方が"訳有り"であることは理解しているつもりよ」
『貴妃娘娘に、お願い申し上げます』
「申せ……」
アリシアの返事に柳偉は顔を上げた。
貴人が許しを与える前に奴隷が顔を上げるのは、極刑に処されてれてもおかしくは無い。
だが、柳偉は真っ直ぐにアリシアを見上げ、そのキラキラと好奇心に輝く瞳を見つめて口を開いた。
『娘娘のお名前で、各地の孤児や貧民の救済をお願い致したく』
『ならぬ‼︎』
厳しい口調で制したのは、メイヤー夫人であった。
『何故でございます?娘娘の持参金が及ばずとも、貴妃位の宮份は途方も無い額でございます。各地の貧民を救済するくらい何ほどの物でもありますまい』
続いて柳偉の言葉を理解したイングリットの剣が、彼の首に更に太い赤い筋を作った。
大蜃皇国の内情に詳しく無い侍女達ですら、それがアリシアの命取りになる可能性は直ぐにでも理解できる。
西側の姫が、勝手に貧民救済などしようものなら、州侯達の顔に泥を塗るのと同じ事だ。
本来ならば、自分達が施さなければならない救済を、異国からやってきて貴妃の位に就いただけの小娘が行うと言えば各州からの反発は必至の上、要らぬ反感を買う事になるかもしれない。
それに、アリシアの持参金が最初から少ないと宦官如きに馬鹿にされた事も二重に腹立たしかったのだろう。
「大蜃皇国では貧民救済は、国の事業ではないの?」
西側では宗教上、各国に必ず孤児や貧民、病人などの面倒を見る救済所が教会の敷地内に建てられている。
現世での罪が軽くなると教会に言われ、国王は国の予算から一定額を、貴族達はこぞって教会に寄付をしていた。
その寄付金で救済所は運営されているのだった。
『皇都では、天帝陛下の命で貧民街では炊き出しが行われております。地方には州都に必ず一つ以上、それ以外の大都市にも先の皇后陛下がお造りになられた救済所があります。皇后陛下亡き後は、皇太后殿下の命にて各州が管理することになっておりますが、実情はほとんど機能していない現状でございます』
「先の皇后陛下は、貧民救済を積極的にされていたのね?」
アリシアの問いに、柳偉は一つ頷くだけで答える。
「そして、貴方はその救済所が無くなると困るという事かしら?」
『いずれ……そこから娘娘の手足になる者が出て参ります』
なるほど、先の皇后は貧民救済という名目で有望な子供を見つけ出し、どこの息も掛かっていない自分に忠実な部下を育てていたのか。
「州侯達を敵に回しても、今は足場を固める方を優先しろ、と?」
『是』と力強く頷いた柳偉に、アリシアは溜め息を吐いた。
取ってつけた様な言い訳に聞こえて仕方がない。
「それだと、わたくしにのみ利点があるように聞こえるわよ?」
もう少し貴方の得になるような答えを用意しなくては……と、くすくすと柔らかく微笑いながら話すアリシアを見つめる柳偉は、形の良い眉を寄せた。
『……"訳あり"でございますれば、奴才の利点に付きましてはご容赦を……』
「まぁいいわ。救済所が貴方にとっての弱点であるという事が分かっただけでも、わたくしには収穫だもの」
アリシアに急所を見せるつもりは毛頭無かったが、自分の給金とわずかな賄賂だけでは全国にある救済所を援助する事は不可能なのは明らかなのだ。
皇族か天帝妃の内の誰かのお気に入りにでもならない限り、一宦官がどうにか出来る問題では無かった。
瑞蛉とは見知った間柄でも、ただの顔見知りの宦官でしかない。
それに瑞蛉はまだ幼く、その宮も怜蜂の宮での預かりの為、皇子の宮份も怜蜂が管理している状況だ。
例え瑞蛉が独立したとして、運よくその太監に任じられたとしても、その宮份を勝手に動かす事は決して出来ない。
ここは例え異国の姫とはいえ、次代の天帝妃、しかも貴妃として入宮することが決まっている女に付くのが得策だろう。
目的の為だ、と深々を頭を下げた柳偉は、誰にも見えない位置で奥歯を噛み締めた。
「大蜃皇国の貧民達の救済を約束するわ」
「姫様!」
メイヤー夫人が声を上げた。
大蜃皇国の内情が分からない状態で約束をするには、危険過ぎる内容だからだ。
「大丈夫よ。先の皇后陛下の命であっても、救済所は既に各州では持て余しているみたいだもの。わたくしがその役を買って出れば、彼らは両手を挙げて譲ってくれるわ」
これはアリシアにとって願ってもない機会であった。
州侯達を篩に掛ける事が出来る。
アリシアが貧民救済を引き受けると言い出した時に、喜んでその役を譲ってくれる者と反対に異を唱える者とに。
喜んで譲ってくれる州侯達は、自州の民の事など何も考えていない者達であり、今後大蜃皇国には必要の無い者達だ。
反対にアリシアの言葉に異を唱え、救済所の運営はあくまでも自分達の役目だという州侯達は、まだ見所がある。
だが、この異を唱える者達の中にも、人身売買などに関わっている者がいれば、アリシアを救済所に関わらせたく無いと考えて反対する場合も有り得るのだが。
――そこは追々見極めるとして、まずは州侯達の出方を見ることにしましょう――




