夜陰の訪問者-2-
今まで飄々とした態度でメイヤー夫人達を躱していたはずの柳偉が、身体を小さく揺らしたように見えた。
刃を向けられている右側とは反対から、自分の背後に立つジェフリーにゆっくりと首を巡らせる。
『……奴才は捨て子でした。言葉も話せぬくらい幼い頃に捨てられましたので、幼名すらわかりません。今のこの名も、同じような境遇の子供達に、宮中に上がるのに書類上必要で、儀礼的に付けられた名でございます』
柳偉は、ひたりとジェフリーの榛色の瞳を見据えると、そう言った。
先程の動揺を微塵も感じさせない態度に、ジェフリーは、片眉を上げて見せる。
幼名――母の姓の事だ。
父方の姓である柳と、母方の姓が揃えば凡その出身州が分かる。
成人したり、結婚して家を出る時には父方の姓を名乗るが、幼いうちは母方の姓を名乗るのが大蜃皇国の慣例だ。
これはどんなに貧しくとも、大蜃皇国では普通のことである。
貴族達であれば、敵対する貴族を抑え込む為に、娘を州を跨いで嫁がせる事は普通であるが、平民や貧民達が出身州を出て結婚するなど、余程の事が無い限り見かけなかったからだ。
同族婚を嫌う皇族の習わしから根付いた文化の一つだが、王族とは言え周辺国はほとんどが親族であり、血族婚も多い西側のアリシア達には、そこまでして血族婚を避けるのが不思議でならなかった。
『出身地も分からないのか?』
『一応、宦官管理簿には癸州と記されていましたが、それも登録時に必要で、誰かの戸籍を買ったものと思われます……』
宦官は、成り手が少ない。
これには、宦官の成り立ちが関係していた。
宦官は、元々敵国の捕虜や犯罪人に宮刑を施したのが始まりだ。
故に、一般的に犯罪者の就く職と見做されているところが大きい。
だが、彼等は総じて短命であった。
一番は、ホルモンバランス異常による平均寿命の短さだが、貴族や同僚達からの激しい折檻などで、毎年大量の死者が出る事も短命の要因の一つだ。
毎年大量に死亡するが、女性しか存在しない後宮では、重要な労働力である。
死亡したり、年老いて働けなくなった人数と同じか、それ以上に宮中に入れなければ、確実に人数は減っていく。
しかし、前述のように成り手は少ない。では敵国の捕虜で補充すればいいと思うが、ここ何十年も小さな小競り合いはあっても大きな戦争の無い大蜃皇国では無理があった。
大量の捕虜を確保する術が無ければ、他の手立てを考え無ければならない――そう、買い入れれば良いのだ。
人身売買になるが、この時代の大蜃皇国では当たり前のように、貧しい農家の子供達や、飢饉による孤児など、子供を売る大人達はそこかしこに居たのが現状だった。
そして、後宮に入るには出自がはっきりしていなければならないと言うことから、役人に賄賂を渡して戸籍を偽造したり、貧しい農村で同じ様な年頃の子供で、近々に死亡した戸籍を買ったりしていたのだ。
人買い達の間を転々とし、更に戸籍すら偽物であれば本当の出自を辿ることは不可能だろう。
柳偉もこれらに漏れず、飢饉などで食うに困った実の親に売られたのか、親元から攫われたか、はたまた孤児であったのか、言葉も理解しないほど幼い頃に人買いの間を転々として、皇都へ連れてこられた一人だと言う。
「後宮の妃嬪達は、宦官に自分の身体を直接触らせるの?」
ここで漸くアリシアが、口を開いた。
それも今尋ねている柳偉の出自とは、全く関係のない事をだ。
だが、彼にとってこれは助け舟であったと言えよう。
『柳偉が、娘娘にお答えいたします。……皇国の西側出身の方々は厭われますが、その他の州出身の妃嬪や、後宮でお生まれになられました皇主様方は気にはされてはいらっしゃいません』
柳偉は嫌な顔一つせずに、アリシアの質問に答える。
「そう……それは、異国の姫であっても不審に思われたりはしませんか?」
『引き続きお答えいたします。中央や西側の国でも、広く奴隷を使役しているとお聞きします。娘娘の祖国では、彼等をどのように扱われますか?』
そう言うと柳偉は、ジェフリーのナイフを押し退け、足元に置いてあった桶と盥を手に取るとアリシアに近づいて行く。
夫人と双子達が、庇うように立ちはだかっているアリシアの側までくると、再び足元へ桶置き頭を下げた。そしてその格好のままで、掌をゆっくりと横のベッドへと向ける。
態度こそ高貴な人に向けるそれだが、滲み出る雰囲気には有無を言わさずに座れと命じていた。
「我が国には、奴隷というものは存在しないわ」
アリシアの言葉に柳偉の顔が上げられる。
その表情から驚きが見て取れた。
そうだろう、どの国でも戦争があれば、敵国の軍人や捕虜にした兵士達は、奴隷にされる。
戦争で獲った領土の領民達ですら重税を課せられ、奴隷とほぼ変わらない極貧の生活を強いられるのだ。
柳偉の表情に、してやったりとニコリと笑ったアリシアは、勧められるままベッドへと腰を下ろし続けた。
「――表向きは、ね」
王族の目が届く王都では表立って奴隷の話は出ないが、王都を離れた貴族の領地や国境近い辺境地となれば、農奴を使役して農作物を作らせ、家畜を大量に生産して私腹を肥やしている。
『……ならば、彼等の待遇はご存じですね?』
柳偉はアリシアの足元に跪くと、袖の中から生成り色の包みを取り出し、一緒に用意していた盥の中に入れた。
それは、柳偉の手の平ほどの大きさの麻袋で、中に何か詰め物がされている物だった。その上から勢いよく桶の湯をかけ始める。
途端に蒸気が立ち込める温の中に、戸惑うことなく両手を入れると湯の中で麻袋を揉みしだき始めた。
見る間に彼の両手は真っ赤に変わって行くが、気にせずにその麻袋を揉んでいる。
暫くすると、湯気と共に柔らかな花の香が立ち込めて来た。
とても良い香りだが、熱くは無いのだろうか……アリシアは、その動作を見つめながら問われた事に返答をする。
「ええ、知っているわ。王宮にも他国の奴隷だった人達が、下働きとして働いていたし」
どういった経緯でセントパルミアに流れ着いたのかは分からないが、下働きだった者の中でも有能な者達は、王族の侍女や従者に抜擢されていた。
彼らに纏わり付いては異国の話や、戦の話を聞かせて貰っていたアリシアは、メイヤー夫人にいつも怒られていたものだ。
『では、我らが直接娘娘のお身体に触れても、何も問題は無いとご理解いただけますね?』
アリシアは、ベッドに腰掛けたままでゆっくりと頭を振った。
西側諸国では、大蜃皇国やハサンファティマのように大々的な後宮を持ち合わせてはいない。
その為、男性を去勢して使役することは無かったが、奴隷は男女ともに人間のような扱いを受けることは無かった。
残念だが、奴隷達は人では無いのだから、その前で肌を晒しても問題が無いとされていた。
おかしな話だが、例え同性同士であっても爪先すら見せない貴婦人達でも、男性奴隷の前では平気で裸になるのだ。
『宦官は人の言葉を理解はしますが、人間ではありません。――後宮では、そのようにお振る舞い下さい』
顔を上げずに作業を繰り返していた柳偉は、何でも無いことのように伝えてきた。
ここ大蜃皇国において、宦官に温情を掛け人のように接する方が、身体に触れさせるよりも奇異の目で見られるという事だ。
柳偉のつむじ辺りを見下ろしていたアリシアは、その言葉に辛そうに瞳を揺らした。
お湯の色が薄茶に染まった頃、柳偉がアリシアの靴を履いたままの右足を手に取った。それを見て慌てたのは侍女達だ。
メイヤー夫人は、くるりと背後を振り返ると、まだ扉の近くに立っていたジェフリーの腕を取り、ぐいぐいと引っ張って部屋を出て行った。
「あ、おい!」等とジェフリーが言葉を発していたが、それも直ぐに遠ざかって聞こえなくなっていく。
「姫さんにまだ話があったんだがな……」
「わたくしが伺っておきます」
有無を言わさずに、部屋から少し離れた場所まで連れて来られたジェフリーは、そうボヤくように呟いた。
だが、メイヤー夫人の返答もにべも無い。
「……あの宦官、何者だ?」
「姫様が側に置きたがっている人物です。太医の助手のようでしたが……」
メイヤー夫人は一拍分呼吸を置くと、ジェフリーの瞳をじっと見詰めて続ける。
「瑞蛉殿下と面識があるようでした」
二人で暫く見つめ合う形になったものの、先に耐えきれなくなったのは、ジェフリーの方だった。
ガリガリと頭を掻いたと思うと、降参だと言わんばかりに両手を上げた。
「分かった!分かりました!瑞蛉殿下の方に探りを入れてみる。けど大した事は分からないと思うぜ。皇都に着いたら、ちょっと伝を当たってみるが……」
あの調子なら、本当に何も分からない可能性のほうが高く、ただの骨折り損になる事も有り得る。
「あんまり期待しないでいてくれ」
分かっているとでも言うように、メイヤー夫人は頷くだけだった。
アリシアが、柳偉を側に置きたいと考えていても、メイヤー夫人は彼に全幅の信頼を置いてはいない。
船の中で自由に動き回り、情報を収集するには自分たち女よりも、男性であり船長でもあるジェフリーが適任と考えたのだろう。
皇都に着いてしまってからでは、蜜に話をする事も憚られる。
それならば、今の内にジェフリーに、彼の素性を探るよう命じておこうと考えたのだ。
「多分、……どこかの州の直系だと思われるのですが……」
「また姫さんは、ど偉いのを見つけてきたな」
右手で顔の半分を覆いながら天井を見上げているジェフリーに、自分の用事が終わった夫人は問い掛ける。
「それで、姫様にお話とは?」
「ああ、それな。船倉で火は使えないから、湯を使わせて欲しいんだ」
「艦長に何をなさるおつもりか、訊いてもよろしいかしら?」
「身体を温める。皇都到着が早まった今、硬直を少しでも解しておかなきゃならない」
「もう皇国領内です。薪の調達には、両岸に町や村がありますし、水は大量に足元にありますから存分にお使いになられると良いでしょう」
姫様にはお伝えしておきます……と、メイヤー夫人が答えると、ジェフリーはニッと口角を上げて笑顔を作った。
「他に何か?」
「皇都に着いて、皇子達を見送るときに姫様を着飾らせてくれ」
――それこそとびっきり豪奢に……、だ――




