夜陰の訪問者
その後も他愛の無い会話が続き、太后について聞き出すことは出来なかった。
瑞蛉がうとうとと眠そうな素振りを始めたので、適当に切り上げて自室へ戻って来たのだ。
「新しい皇后が立っているなど、一言も聞いてはおりませんよ!」
背後で扉を閉めるなり、イングリットが声を荒げて言い放った。
「確かに、皇子を産んだ妃嬪は三人、としか聞かされてはいなかったけど……」
「大蜃皇国の慣例からいっても、皇后位が長期間に亘って空位と言うのは有り得ないことでしたのに……考えが至りませんでしたわね」
「そうなの、そこなの。子皇后が亡くなる前に既に貴妃として入宮していたのに、メイランですら午皇后の事には触れなかったわ」
皇后の有無というのは、セントパルミア、特に王妃にとっては瑣末な事柄だった。
大蜃皇国は一夫多妻制、しかも異国の姫が皇后になどなれようはずは無いのだから、精々姿形を珍しがられ寵姫の一人にでもなれれば……、くらいだったのかも知れないが、当事者のアリシアにとっては重大な事柄だった。
何せ自分が後宮に入った後、どの派閥に付くのかで自身の今後だけでなく、命まで関わってくるのだから。
「第二皇子様のお話しでは、皇后の責務から離れていらっしゃるご様子ですけれども……」
「皇子をお産みになられれば、変わられるわ」
午皇后がどのような人柄なのかは分からないが、自身の好む好まざるに関わらず必ず表に出てくる。
何よりも、彼女の実家である午州は間違い無く出てくるだろう。
「太后が動いてくれればいいのだけれど……」
出来れば自分の手は汚したく無いと考えるのは、誰しも同じである。
アリシアもこれに漏れる事は無かった。
怜蜂には、太后が手を下してくれるとは言ったが、万が一、太后と午皇后が手を組んだ場合を考えておかねばならない――私達にとって最悪の場合、どう動くのが良いのか……、アリシアが考えに耽り始めたのを見た侍女達は、テキパキとアリシアの着替えを始め出した。
この時代のドレスはパーツごとに別れていて、縫い合わされてはいない。
各パーツを小さな針のようなピンで留めているだけだった。
コルセットの締め具合は、体調等で毎日変わるのもあるが、ドレス自体がシルク製の高価なものなのだ。
多少の体型の変化くらいで、新しいドレスを新調出来るものではない。
その為にドレスを各パーツごとに分け、それを縫い合わせずにピンで留めるという着方が考案されたのだ。
勿論パーツの少ないものなら一人でも着替えは出来るが、高貴な女性のドレスは一人では着替えができる代物ではない。
アリシアも同様に、侍女達にされるがまま腕を上げ下げして着せ付けて貰い、脱ぐ時も同じく侍女達の手を借りなければ脱ぐ事は出来なかった。
マルグリットがドレスのピンを抜き、取り外され布に戻っていくドレスをイングリットが集める。
流れるようにドレスを脱がされていくアリシアを見ながら、その綺麗に編み込まれていた髪を解き始めたメイヤー婦人が、ブラシを取ろうと振り返り息を呑んだ。
「ッ?!」
すかさずアリシアを自身の背後に庇いながら、声を荒げた。
「何者です‼」
その声に反応した双子達も、素早く身構える。
驚いて振り返ったアリシアが目にしたのは、袖で顔を隠して立っている男性だった。
『娘娘に拝謁いたします』
柳偉の声だ。
いつの間にやって来たのか、開かれたドアの側に柳偉が大きく腰を折った状態で立っていた。
アリシアを庇うように侍女達三人が壁になり、その中でメイヤー夫人が珍しく声を荒げた。
『ノックもせずに貴人の部屋に入るなど、不躾にも程があります!』
『……大変失礼致しました』
柳偉は未だ袖で顔を隠し、腰を折ったままで返答をしてきた。
『早く出て行きなさい‼』
飄々とした柳偉の態度に堪り兼ねたのか、マルグリットも続いて声を荒げる。
動かない柳偉に痺れを切らしたイングリットが、椅子の背に掛けたままになっていたマントでアリシアを包んだ。
一向に動かない柳偉にアリシアが首を傾げていると、柳偉の背後から聞き覚えのある声が響いた。
「今度こそ本物の賊か?」
暗い廊下から現れたのは、ゆっくりと背を起こす柳偉の首筋に短剣の刃を突き付ける腕だった。
徐々に部屋の灯りに姿を現したのは、やはりジェフリーだ。
その姿を見て安堵したのか、アリシアは小さく息を吐き、緊張して強張っていた肩から力を抜いた。
「船長、彼は賊では無く大蜃皇国の宦官です」
『それは……失礼』
そう言いながらもジェフリーは、刃を柳偉の首筋から退ける素振りすら見せない。
「……貴方達は音を立て無いように言われているの?」
立ち居振る舞いだけで無く、物を音を立てずに運ぶなど至難の技だろうに、彼は簡単にそれらをやってのけている。
アリシアは、確認を含めて柳偉に尋ねた。
女官や宦官が、物音を立てずに部屋に入ってくるのであれば、何か扉に細工を施さなければならない。
『入宮して一番最初に教えられます。――出来うる限り気配を消すように、と』
やはり何か手立てを考えなければならないらしい。
妃嬪達はどうやって密談をしているのだろうか……アリシアだけでなく侍女達も同じ事を考えたようだ。
『後宮では、愚痴一つ零せそうにありませんね』
嫌味のつもりだろう、イングリットが独り言に託つけて呟いた。
だが、柳偉には通じなかったのか、彼は首元に刃を突きつけられたままでアリシアに語りかける。
『娘々、足湯をご用意致しました。足の経穴を解しましょう。良く眠れますので、どうぞお試し下さい』
そう言って柳偉は、自分の足元に視線を向ける。そこには、白い湯気の立つ水桶と盥が置かれていた。
『無礼者っ!』
その言葉に真っ先に反応したのは、メイヤー夫人だった。
余りの剣幕にジェフリーも目を丸くしてこちらを見ている。
『女性が軽々しく男性に足を見せるなど、ましてや触らせる事など有ってはなりません!』
そう、西側の常識では、女性だけでなく男性も足、特に足先を見せるというのは靴を脱ぐという事を意味する。即ちベッドの上を連想させるため、決して他人に見せることは有り得ない事であった。
だが、柳偉はくすくすと肩を震わせて笑い始める。
『何がおかしいのです?』
『失礼致しました。ですが、奴才は宦官でございます』
『知っていますよ』
マルグリットが苛立ちを滲ませた声で答えるが、柳偉は笑みを深くするだけだ。
『それを理解しておいでであれば、そのような言葉は絶対に出て来ない筈ですが?』
『なっ!』
激昂して声をまともに発する事の出来ないマルグリットに、大きな溜め息を吐いて見せた柳偉は、子供に言い聞かせるように話し始める。
『宦官は男のような見掛けをしていますが、″男″ではありません。かと言って女でもありません……まぁ、一部の皇族方や大貴族の方から夜伽を命じられる事もありますが、基本的に我ら宦官は動く家財と同じです』
柳偉の言葉に双子達はカアっと頬を赤く染め、視線を彼から逸らした。
そんな彼女達の行動を他所に、柳偉は更に続ける。
『それに、女性が夫以外の男性に足を見せる事は、大蜃皇国でも有り得ませんよ』
少し落ち着きを取り戻したメイヤー夫人が、柳偉を剣のある瞳で見つめたまま質問を投げかけた。
『では、何故疑われるような事を?』
『娘娘と昼間お約束を致しました。……ですが、宦官如きが夜分遅く用も無いのに、貴人の寝所に長居する訳にもまいりませんので……』
適当に咎められない用事を作って来た……という事だった。
なるほど、とアリシアが思っていると、ジェフリーが動いた。
『お前さん、幼名は?』




