怜蜂と癸王妃と忘れ形見-2-
『子皇后よりも先に韶華が産気づいたと報せが入ったときは、心臓が止まる思いだった。何せ癸王妃は身体が丈夫ではなかったから、難産になるかと思われたが、案外早く生まれてくれて胸を撫でおろしたのを覚えている』
生まれた子供は初めての皇孫で男児であったこともあり、怜蜂の宮殿だけでなく皇宮全体が喜びに満ちていた。
月足らずで生まれた為、少し小さく脈も弱いものの他にこれといった病状も無いので、気をつければ大丈夫だろう、というのが太医達の見解であった。
この時代、病弱であっても皇族や貴族の子供であれば、危ない乳幼児期を過ぎれば成人する可能性は高かった。
怜蜂と癸王妃がお互いに安堵したのも束の間、子供の異変に乳母が気が付いた。
自力で乳を吸うことができないのだ。
少々病弱なくらいは宮殿内で大事に育てればどうにか出来ても、乳を吸わないというのはどうにも出来なかった。
母親の胎の中で臍の緒で繋がっていれば栄養を貰えた子供は、切り離されれば自力で栄養を取り込まなければならない。
その唯一の方法である乳を嚥下出来ずに吐きこぼしてしまうのであれば、いかに優秀な太医達にも成す術は無い。
小さな赤子が死亡するなど、あっという間の出来事で。王子は、この世に生まれて三日ほどで天に還って行った。
『初めての子でしたが、生まれて三日ほどで亡くなりました。私は仕事に忙殺されて辛さを感じる暇など無かったが、癸王妃はそうではなかった。彼女の様子がおかしいと、宦官から報告が上がって来ていたが、太医と女官に任せっきりにしてしまった』
初めての出産、大事に自分の胎で育てた赤子が生まれて三日で亡くなればおかしくもなる。
しかも辛さを分かち合える唯一の夫である怜蜂は、自分の宮殿にも立ち寄ってはくれぬのであれば尚更だ。
『そのうち、夜中に寝所を抜け出し、ふらふらと歩き回る奇病を患った』
最初は、自分の宮の内だけだったのだろうが、それを抜け出すのは時間の問題だった。
あちこちで癸王妃の姿が目撃されるようになり、その奇行が怜蜂の耳に届いたのは、子供の死から十日が過ぎた頃の事だ。
瞳は焦点が合わず綺麗な黒髪は乱れ、手足は何処で怪我をしたのか切り傷だらけで。
怜蜂が宮殿に駆けつけて見た彼女は、身も心もぼろぼろであった。
『もう居ない我が子を探して、宮中を夜通し歩き続けるのです。困り果て、宮殿に閉じ込めれば、治療した傷を掻き毟って更に酷くしてしまう』
太医達からは、心を先に治療しなければ、身体の治療は難しいとまで言われた。
『瑞蛉が生まれたのは、そんな時です』
怜蜂が頭を抱えていた最中、子皇后が産気づいた。
彼女は、長男の彩蝣の他に既に皇女を二人産んでいる。上の三人と随分離れてはいたが、今回は四回目のお産である。
太医達が心配したのは、皇后の年齢が既に三十五歳に近いという事だけで、本人だけでなくお付きの侍女達も慣れたもので、陣痛が始まるまでは飄々としていた。
だが、予定日をとっくに過ぎてもいたし、安産だと思われた彼女のお産は、思いもよらないほど時間の掛かる難産となった。
『上の三人の時は何事もなく安産でしたから、今回も……と誰もが考えていたのですが、丸二日も掛かる難産でした。皇后の子と言うこともあり、後宮は、特に皇太后が大層やきもきされていた』
珍しく太后宮から皇后宮へとまでやってきた彼女は、父親である天帝よりも宮殿内をウロウロと歩き回って落ち着きがなかった。
生まれて来た子が、男児と女児とでは扱いが変わる。彩蝣に帝位を譲りたくない皇太后にすれば、対抗出来る男児が生まれる事をより願っていたのだろう。
当時を思い出してか、怜蜂は苦笑を零し瑞蛉の頬を撫でていた。
『でも二日も掛かったのに私の子の時とは違い、元気な産声が聞こえてきましたよ』
二日に亘るお産の後、高齢で体力の落ちていた皇后は四日も寝込む嵌めになった。
反対に生まれた皇子は、難産であったにも関わらず元気な産声をあげ、怜蜂の子とは違い丸まるとしていて、乳をよく飲み、誰が見ても病気とは無縁であった。
難産の末に産んだ皇子だ。しかも、ただ一人、二人も男児を産んだのだから、誰もがこの小さな皇子が子皇后の寵愛を一身に浴びるものと思っていた――ようやくベッドから起き上がれるようになった子皇后が、鏡に映る自分の姿を見て悲鳴を上げるまでは。
自慢であった娘のように張りのあった肌もつややかな口唇も荒れ、黒髪からは艶が消え櫛で梳かせば大量に抜けていく。目の下にはどんなに睡眠を取っても取れない隈が現れたことで、皇后宮は荒れに荒れた。
侍女達だけでなく宦官や、宮女にまで八つ当たりをし始めた皇后の憎しみが、産んだばかりの赤子に向くのは時間の問題だった。
皇子だ。しかも皇后が産んだ正統な嫡子に何かあってはと、瑞蛉は生まれてから一度も母親に抱かれる事なく、遠ざけらることとなった。
『皇后の容姿が戻れば、いずれ……と考えて瑞蛉を太后宮で預かる予定だったのですが、瑞蛉の元気が良すぎてね』
要は、赤子の泣き声が煩い、といったところか。
結局瑞蛉は、太后宮でも預かりが難しいとなったという訳だ。
『殿下の宮で引き取られることは?』
『すぐに子皇后にお返ししなければならないのは目に見えているのに?』
赤子が手元に来たは良いが、またすぐに皇后に返したのでは、癸王妃を更に落胆させてしまう。
欲しいのは、手元にずっと置いておける赤子だ。
だが、怜蜂の読みに反して皇后は、瑞蛉には微塵も頓着しなかった。
『皇后の美貌はすぐに戻ったのに、瑞蛉のことは気にもかけなかった。それどころか居ない者のような扱いで、……彩蝣への溺愛が更に増しただけに終わりました』
元々長男への愛着が異常なほどだったが、瑞蛉を産んだ後の彼女は、更に彩蝣に固執することになった。
『まぁ、そのお陰で瑞蛉を手元に引き取る事が出来たのだが』
兄には悪いことをしたと思う、と怜蜂は大きく息を吐いて言った。
だが、彩蝣も年の離れた弟を不憫に思ってか、皇后の執着を甘んじて受け、彼女の関心が瑞蛉に向かないようにしてくれていた。
『癸王妃が亡くなる五年前まで手元に置き、一度皇后宮に戻したがやはり手元で育てていないので可愛く無いのか、無碍にされるのを見るとね……しかもその子皇后も直ぐに亡くなってしまったので、もう一度引き取る形になったが』
母親に見向きもされず、小さな手を振り解かれては背を丸めて泣いている姿を、何度皇后宮の庭先で見たことか。
結局盥回しになってしまったが、再び怜蜂は瑞蛉を引き取った。
赤子の時から親同然に育て、今も庇護しているのならば、瑞蛉を帝位に就けたいと考える怜蜂の気持ちもわからなくは無い。
だが、自分が継ぎ、その皇太子に瑞蛉を指名しても良いのでは無いだろうか。
それとも怜蜂が振り切れないほどに、妃達の実家の影響力は強いのだろうか。
アリシアが、瑞蛉を優しい目で見つめる怜蜂の横顔を見ながら思案していると、怜蜂は瑞蛉の頬に手を伸ばしていた。
冷たくて気持ちがいいのか、瑞蛉が円い頬を怜蜂の大きな手に猫のように擦り付けふにゃりと笑った。
『面差しは亡くなられた子皇后にそっくりだが、こうやって笑うと韶華に良く似ている』
ぽつりと、ただ本当に思った事を呟いたのだろうが、怜蜂の言葉にアリシアは納得がいった。
ああ、そうか。
どうしても瑞蛉を帝位に就けたいと考えるはずだ。
『殿下は、今でも……癸王妃様を想っていらっしゃるのですね』
ゆっくりと振り向いた怜蜂からは返事が無かったが、代わりに優しく瞳を細めて微笑まれた。




