怜蜂と癸王妃と忘れ形見-3-
それが返事だった。
だが、それだけで十分だった。
『彩蝣殿下も同じ意見でよろしいか?』
『ええ、決して私の一存では無く、兄もこれが帝位に就くことを望んでいる』
ならば、アリシアがやるべきことは一つ、彩蝣が帝位に就いたのち、瑞蛉に繋げる道筋をつけることだ。
これから先、禄蝉だけでなく、怜蜂の妃達と子供達そしてその実家も敵となる。
何より、一番の障壁は――卯皇太后その人だ。
『ですが、皇太后陛下は怜蜂殿下か瑞蛉殿下を推してこられるのではないですか?』
癸韶華を怜蜂の宮へ入宮させたのは、皇太后の一声だ。
これは、皇太后が癸州と韶華の後ろ盾になった事を意味する。そして、その後ろ盾となった州姫は、亡くなったとは言え怜蜂の先の正妃であった。
天帝と子皇后が彩蝣を皇太子にと望んでいたが、皇太后は怜蜂を皇太子に望んでいると言う意思表示である。
そして瑞蛉は、そんな皇太后が後ろ盾である癸王妃を養母として持つ皇子となれば、扱いにくい怜蜂ではなく未だ幼い瑞蛉を天帝に、と望んできそうなものだが。
『だから私の母は、”昭儀”のままなのですよ』
怜蜂は、にっこりと笑って言った。
後宮において、いくら皇太后が絶対の権力者であろうとも、妃嬪への位を決定できるのは天帝ただ一人なのだ。
皇后を選定する時などは、皇太后の助言を仰ぐこともある。言い換えれば、皇后以外の妃嬪の位は、皇太后ですら口を挟めない、と言う事になる。
酉昭儀の位を上げられぬのではなく、上げたく無い理由がこれか。
皇太后への牽制のために、怜蜂殿下の母君は位の低い"昭儀"のままだったのだ。
と、言うことは、禄蝉殿下の母君が"賢妃"である理由も納得が出来る――怜蜂殿下が帝位に就くための障害役として、禄蝉殿下を置いたのだ。
申州は、領土内に海を抱えているとはいえ、西側との交易ルートを持つ酉州には資金面では敵わない。でも、肥沃な土地柄もあり穀物の収穫量は皇国内では上位に入る。
もしも申州と酉州とで戦争になった場合、穀物倉庫を抱える申州に軍配が上がるだろう。だが、これはあくまでも単独で戦った場合である。内戦となった場合には、必ずどちらの州にも味方する州が現れる。
各々の妃の実家がこれにあたるし、彩蝣殿下の妃達も自分達に子が出来ないのであれば、弟達のいずれかに与しようと実家の命を受けて動き出すだろう。
いくつかは中立を保ったとしても、味方に引き入れた州の数で勝利が決まるはずだ。これならば、禄蝉殿下自身に人望が薄いこともあり、母親の身分は低くとも、嗣子である彩蝣殿下と瑞蛉殿下を味方に持つ怜蜂殿下に利がある。
あくまでも戦争になれば……だが。
平時の間は、"昭儀"の子が"賢妃"の子にどうしたところで敵うはずが無いのだ。
今までは、賢妃の子である禄蝉殿下の方が何事においても優先されていただろうし、怜蜂殿下の性格上、禄蝉殿下を押し除けるようなことは無かったはずだ。それ故に増長してしまったのだろう。
『お可愛そうに、禄蝉殿下と申州は天帝陛下に甘い夢を見せられただけですか?』
実力の無い禄蝉殿下と彼を担いだ申州は、宮廷と後宮を手中に納めるため、今まで必死に怜蜂殿下の足を引っ張ろうと躍起になった事だろう。
天帝の思惑通りに盤面は、怜蜂と禄蝉の睨み合いで進んできた。ただ、禄蝉を怜蜂の障害として配置したつもりであったが、実際は反対だ。彩蝣を守る為に、怜蜂が禄蝉を抑えていたに過ぎない。
――だが、天帝も子皇后も亡き今、笑うのは最後に残った皇太后ではないか?――
アリシアは不安そうに怜蜂を見つめたが、怜蜂はにこりと微笑んだ。
『夢はいつか醒めるものだーー禄蝉も、皇太后も。それに何より、父上は我等に朱筆を残された』
朱筆――天帝だけが使用出来る朱い墨のことで、勅命は全てこの朱い墨で書かれたことから、勅命そのものを指すこともあった。
天帝の遺言書で、『皇太子は第一皇子・彩蝣に』と記されているのであれば、たとえ皇太后といえども異議を唱えることは許されない。
これを狙って、皇太子を空位のままにしていたのだとするのなら、天帝はよほど彩蝣殿下を寵愛されていて、皇太后の事を恐れていたと見える。
『彩蝣と私にだけ、同じ物を一通ずつ。決して皇太后の手に渡ってはならぬ、と』
それが判ればいい、とアリシアは一つだけ確りと頷いた。
『幼い瑞蛉を帝位に就けた場合、皇太后の傀儡にされてしまう。それだけは何としても避けねばならない。』
幼い皇子が、皇太子妃を持たずに帝位に就けば、皇太后か太皇太后が妃嬪を選ぶこととなる。そうなれば、彼女達は自分に都合の良い州姫を入宮させ、後宮での権力ばかりか宮廷にまで影響力を持つ事になってしまう。
いくら怜蜂が幼い天帝を補佐しようとも、彼女達と対立した場合、彼女達の一声でその任も簡単に解かれる恐れがあった。
『瑞蛉殿下がもう少し大きくなるまで、どうしても時間が必要なのですね?』
彩蝣を帝位に就け、出来るだけ時間を稼ぎ、その間に怜蜂が瑞蛉の妃嬪を決めてしまうつもりなのだ。
瑞蛉が怜蜂の養子という立場の間は、怜蜂には養父として実父と同じ権限があり、皇太后の好き勝手には出来ない。
『父上がそこまでお考えであったかどうかは、今となっては分からぬが……皇太后は抑え込むことが出来る』
赤の他人では無い血の繋がった親と子と孫の三代で、ここまで策を巡らして騙し合い、相手を出し抜く為に罠に嵌めねばならない場所へ赴かねばならないのか。疲れる話である。
ああ、それからこれは聞くまでもないだろうが、と考えながらもアリシアは口を開いた。
『もしも、――もしもお三方に何かあった場合には、迷わずに瑞蛉殿下を最優先に逃します』
それでよろしいですね?とアリシアは、怜蜂の琥珀色の瞳を見つめて言い切った。
これから先は、敵味方入り混じっての情報戦になる。
今まで味方であったからと言って、数刻先はわからない。腹心の部下でも買収される事も有り得るし、本人に裏切ったつもりが無くとも、敵の偽情報に踊らされる可能性もある。
情報戦だけで済めばいいが、後宮に入ってしまえばアリシアとて命の補償は無い。
『勿論、誰よりも何よりも瑞蛉の命が最優先だ。何を切り捨てたとしても、瑞蛉だけは救っていただきたい』
もし万が一に敵の罠に掛かってしまった場合、彩蝣も怜蜂も捨て石にしてでも瑞蛉を助けろと、既に彼等の腹は決まっていた。
『そしてそのまま瑞蛉の妃に収まってくれれば尚良い』
怜蜂は、息子が望む娘を妃にしてやりたいと思っているだけなのか、それともアリシア個人の資質を皇后に望んでいるのか、アリシア自身でも計りかねるところがある。
が、アリシア自身の答えは決まっていた。
『……考えておきます』
その返答を聞いた怜蜂は、苦笑いを浮かべるばかりだった。
そんな怜蜂から瑞蛉に視線を向けたアリシアは、その呼気が随分と落ち着いてきている事に気付いた。
まだ幼さの残る柔らかそうな頬は、紅く汗も滲ませているが、喘ぐように浅く速かった呼吸自体は、ゆったりとしたものへと変わって来ている。
『熱はまだあるものの、随分と落ち着いて来たようだ。礼を言います』
落ち着いて来た瑞蛉の様子に安心したのか、怜蜂はにこりと微笑んで礼を伝えてきた。
アリシアは、それにゆうるりと首を左右に振ると、自身も力んでいた肩から力を抜いて答える。
『すっかり長居してしまいました。そろそろお暇いたします』
立ち上がったアリシアに付き添うように怜蜂も立ち上がる。
扉の近くまで来ると、アリシアが怜蜂を見上げた。
『梅蘭を置いておきます。殿下も少しお休みください』
『ええ、そうさせてもらいます』
そう言って怜蜂は、アリシアの為に扉を開けてくれた。




