怜蜂と癸王妃と忘れ形見-1-
怜蜂は近づいて来た時同様に、ゆっくりとアリシアから離れて浮かせていた腰を椅子に下ろしたが、瞳を見開いたままのアリシアは微動だに出来ず、離れていく怜蜂の気配だけを感じていた。
時が止まったかのような静寂が辺りを漂う。
これは、非常に拙い。
こんな重要な秘密を打ち明けられるなど、考えてもいなかった。
アリシアは、必死に考えを巡らせた。
殿下の意図は何処にある?
例え瑞蛉殿下が天帝の御子で無かったとしても、皇孫であることには変わりない。だがらと言って、怜蜂殿下と子皇后との不義密通が許されるかと言えば、"否"だ。
禄蝉殿下か申州のどちらかに知られれば、命取りになるのは必至。それを、出会ってまだ間がない異国の姫に話した理由は何?
信用されているのか?いや、秘密など知る人間が少なければ少ないほどいいに決まっている。
秘密を共有する事で、逃げられないようにしたつもりだろうか?
それとも……私がこの情報を持って、禄蝉殿下側へと寝返かどうか試している?……寝返る人間に本当の事など教える必要は無い。だとするならば、この話自体が嘘である可能性が高い。
アリシアは、怜蜂の動きを図りかねて動けずにいた。
零れそうな瞳で自分を凝視するアリシアに、我慢できずに怜蜂が噴き出した。
『ふふ……あっはっはっは!』
『……誰かに聞かれては命取りなお話ですよ?』
やられた!
まさか全部作り話であったとは、悔しさに思わずアリシアは下口唇を噛んだ。
『ようやく貴女から一本取れた』
余程アリシアの驚いた顔がおかしかったのか、袖口で涙を拭う怜蜂が話し出した。
『瑞蛉は、間違いなく天帝陛下と先の子皇后の間に出来た子供ですよ。ただ――』
『ただ?』
『ただ、生まれた時から私と亡くなった私の妻、癸王妃とで育てたので、我が子も同然……というだけで』
汗で瑞蛉の額に張り付いた黒髪を掻き上げ、濡らした手拭いで拭いてやりながらも怜蜂は続ける。
『瑞蛉が、先ほどからうわ言のように繰り返している"癸阿娘"とは、私の最初の王妃、癸 韶華のことです』
亜娘とは、母親を指す言葉だ。つまり、母上やお母様と言った意味になる。実母であった場合、そのまま阿娘と呼ぶが、養母を指す場合は、前に苗字が付け足される。
高熱にうなされる瑞蛉がずっと縋っていたのは、養母であった癸王妃だったのだ。
『韶華が私の宮に入ったのは十ニ年前、私が十六になった年に正妃としての入宮でした』
韶華の母親は、旅の一座の技芸であったが、優美な踊りと類まれな美貌で大蜃皇国中だけでなく、周辺国にも知れ渡るほど有名人であった。そんな旅一座が癸州にやってきた時に、州侯の目に留まり一座から攫われるようにして州城へ連れてこられ、愛妾の一人にされてしまった。
当時、子皇后が彩蝣を産み、続いて酉昭儀も怜蜂を産んでいた事もあり、各州では州侯かその兄弟姉妹が競って姫を儲ける事に必死であった。勿論、どちらかの皇子の後宮へ入宮させるためである。
だが、癸州は何年も姫が生まれていなかった。
他の州が直系の姫をぞくぞくと後宮に送り込む中、止むを得ず一族の末端に席を置く遠い血筋の女児を養子という形で何とか先帝の後宮へ送り込んだほどだ。
なので韶華が生まれた時には、癸州はお祭り騒ぎであったとか。
その為、小さな身に一族の期待を一身に背負った韶華は、州候妃が養母となり育てられたという経緯があった。
実母の美貌と養母の教養とを兼ね備えた韶華は、いずれは皇太子妃にという癸州の期待を一身に浴びて大事に大事に育てられた。
そして時が過ぎ、皇子たちが独り立ちして宮を与えられると、貴族たちも色めき立った。
いよいよだ。手塩にかけて育てた州姫をどちらの皇子の宮へ送ったものか。どの州侯も頭を悩ませたことだろう。
身体は弱いが、天帝と皇后が寵愛する長男・彩蝣殿下か、母親の身分は低くとも既に朝議にも出席している次男・怜蜂殿下か。
宮廷では、年頃の州姫を持つ貴族達が毎朝朝議でいがみ合うようにまでになった。
そんな折、鶴の一声とも言える皇太后の令旨が発せられた。
――癸州姫を第二皇子の後宮へ。王妃として入宮させよ――
本来ならば、父親である天帝と国母たる子皇后、そして実母の酉昭儀とで怜蜂の妃選びが行われるはずである。
だが、天帝と子皇后は怜蜂には一切の関心を寄せていなかったのか、皇太后の越権行為とも言える令旨が発せられても、異論を唱えることは無かった。
天帝から異論が出なかったことで、癸州と韶華は皇太后の後ろ盾を手に入れる事が出来た。
反対に皇太后は、自分の故郷からは州姫を後宮へは入れられないため、自分の駒となる州と州姫を手に入れた事になる。
一族の悲願である王妃としての入宮であった。怜蜂が皇太子に封じられれば、自動的に王妃である韶華も皇太子妃に。そして怜蜂が帝位に就けば、韶華は皇后に柵封される。
だが、本来韶華は王妃として入宮するには難しかったのだ――医師達からは、出産には母体が耐えられないだろうと忠告を受けていたからだ。
癸州は、それでも子供が産めない訳ではない、ただ子供を産めば韶華の命が危ないだけで。子供が、皇子が無事に生まれれば韶華の命はどうでも良いと言う本音を最後まで隠して、韶華を王妃として怜蜂の宮へ入宮させてしまった。
『月の光のように淡く、雪のように儚い、とても綺麗な人でした』
入宮させてしまえば、どうにかなると考えた癸州の作戦は見事に成功した訳か。
怜蜂殿下のこの様子から、癸王妃様は余程の美姫であられたのだな。
だが怜蜂殿下は、そもそも兄の彩蝣殿下を押し除けてまで帝位を狙う性格でないことはわかりそうなのに……、癸州は欲に眼が眩んで見えなくなっていたのか?それとも、皇太后の後ろ盾があるからと油断していたのか。
アリシアは、当時の様子を思い出しているだろう怜蜂の横顔をみながら、黙って話を聞いていた。
『王妃を迎えて二年、懐妊の兆しが見えない事に宮廷からは、孺人、媵妾も娶れとせっつかれてね』
それは、そうだろう。
何せ、その数年前に幼い第四皇子が亡くなっていたはずだ。第三皇子の禄蝉殿下もまだ子供で、無事に成人するとは限らない。そして、第一皇子の彩蝣殿下は身体が弱く、元々子供が望めないとわかっていたのだから、早く男系皇孫を!と怜蜂殿下に圧力が掛けられたのだろう。
『禄蝉も十二歳になっていたし、そもそも皇子の人数が少ないのだから、父上の後宮へもっと州姫を入宮させるべきだと反論したのだが』
皇子に生まれたからには、逃れられない義務である――皇統を絶やさぬ為に、子を、帝位を継げる男児を沢山儲ける事は。
いくら怜蜂が癸王妃一人でいいと言ったところで、その王妃に懐妊の兆しが見えないのであれば、他の州姫を、と勧めてくるのは仕方の無いことだ。
ようやく自分たちの娘にも機会が回ってきたのだ。ここぞとばかりに姫を持つ州は競って話を持ってくるだろう。
怜蜂の抵抗も空しく外堀を埋められそうになった時に、子皇后の懐妊が判明した。
皇后が懐妊したと言う事で、怜蜂の妃嬪選定は延期となった。
そんな折だ、癸王妃懐妊の報せが宮廷のみならず、後宮にも響き渡ったのは。
皇后と王妃の同時の懐妊に、皇太后すら祝いの品を両妃に届けたほどだという。
だが、先に産気づいたのは、産月であった皇后ではなく、月の足りない癸王妃の方だった。




