夜半(よわ)の訪問-2-
パタンと扉が閉まる音を最後に、二人で足音が聞こえなくなるまで沈黙を守ったが、それを破ったのは怜蜂がアリシアを呼ぶ声だった。
『……娘娘、通訳の姑娘も引かせてよろしかったのですか?』
怜蜂が心配するのはわかる。皇国語の師であろう侍女が、アリシアの通訳を自ずと買って出たくらいだ。アリシアの皇国語は未だ普通に会話するには達していないのだろうと考えられても仕方ない。
呼ばれたアリシアは、小さく頷いてからするりと肩から上着を滑り落として見せた。現れたのは、元の色が分からないほど血に塗れた衣装だ。
若い王女にと用意したのは、派手すぎない明るい赤や、愛らしい濃い桃色を基調とした衣装だが、それはどす黒く変色していて何かがあった事を物語っている。
差し出された手にも拭き取れなかった血が所々付着していた。
指先を切っただけでも大事だが、まさかこれほどの惨事だとは思っていなかった怜蜂の顔色が一瞬で青褪めるのが分かる。
『お怪我は?!』
『わたくしには有りません』
わたくしには無い、言い換えれば、アリシア以外の者が怪我を負ったと暗に仄かした言い方だが、怜蜂は素早く反応する。
『では誰が?』
そう言いながら、怜蜂の秀麗な眉が寄せられた。
血を浴びたようなアリシアだが、彼女の血で汚れたので無いならば他の誰かが大怪我を負っている。下手をすれば既に死亡している可能性があった。
皇国軍か、それともアリシアの付き人か。
皇国軍ならば問題は無い。天帝妃を庇っての負傷であれば、これ以上の名誉は無い。公国人の船乗りであった場合も同様、多少の金品を見舞いとして積めば黙らせられる。だが、これがアリシアの従者や公国の軍人であった場合、両国にとって大問題となる。
『わたくしを庇ったイーディス卿が亡くなりました』
『亡くなった……?』
選りにも選って、公国側の最高司令官の死亡の報とは。
最悪の結末に怜蜂は右手で自分の顔半分を覆った。
ふと視線を落としたアリシアが、その瞬間を思い出したのか眉根を寄せて続ける。
『はい、隠れていた賊が撃った銃弾から、咄嗟にわたくしを庇って』
アリシアは、余分な情報は削ぎ落とし淡々と事実だけを伝えるに留めた。
嘘を吐く時は、相手の瞳を見て視線を逸らさないこと。喋り過ぎて余計な情報を与えないこと。
そして相手に必要以上に考える時間を与えないことだ。
『その賊は?』
『海に飛び込み逃げられそうになったところを、クーパー艦長が銃で怪我を負わせたとの報告を受けました。血の量から助から無いのではないかと……』
撃たれたのも公国側の人間ならば、捕り物をして大怪我を負わせたのも公国人とは。
自国軍は何をしていた?慣れない異国の艦の上とは言え、誰も物音に反応出来ぬとは……怜蜂は、何度目かわからない溜め息を零した。
『風貌は?』
近くで対峙したのであれば、艦内が薄暗くとも体格や風貌は見ただろうと考えるのは、誰しも同じである。
アリシアは俯き加減だった顔を上げ、怜蜂と視線を合わせはしたが、逡巡する素振りを見せた。
『……皇国人でしたか』
アリシアの戸惑う素振りに結果は見えているが、敢えて怜蜂は尋ねた。
『はい……顔立ちや衣服は皇国人のようでしたが、軍属では無い……と思われます。動きが訓練された者ではありませんでしたので、ただの盗賊であったのかも』
何も言わずにじっとアリシアを見つめる怜蜂に、根負けして話し始めたアリシアの言葉は、やはり分かってはいても衝撃が大きかった。
百名から乗船した皇国軍の誰も賊の侵入に気付かなかったばかりか、天帝妃に危害が及ぶ事態を招いたなど皇都でなんと申し開きをしたものか。
怜蜂は、フッと自嘲めいた自嘲いを口元に刷く。
禄蝉を追い落とすどころか、こちらが窮地に立たされてしまった。
これをどう挽回する?と怜蜂が思案し始めた時、アリシアが付け加えて話し出した。
『ただ』
『ただ?』
『ただの物盗りだったと仮定して、わざわざ公国軍の軍艦に、それも皇国の禁軍が護衛するわたくしの艦に乗り込めますでしょうか?』
確かに西側の王女の持参金となれば、皇国では珍しい装飾品やドレス類だろう。だが、それを売り捌くにしても、珍しいということは価値は高くなるが、逆に足も付きやすいという難点がある。
何隻も停泊していた艦の中から、どうやってアリシアの艦を見極めたのか、潜り込んだ艦が偶然アリシアの艦だっただけなのか。
何より、あれだけの軍人の目を掻い潜り、誰にも見つからずに品物を盗んでまた何事も無く逃げ果せるというのは、誰から見ても不可能だ。
もし万に一つ出来たとしても、皇国側は他国の前で顔に泥を塗られるも同じだ。そうなれば国を挙げて犯人を探し出し、一族郎党もろともに極刑に処するだろう。
『なるほど……得られるものよりも、失うものの方が大きい。手間の割に身入りの少ない仕事という訳か』
頭の回転の速い者には、"賊の狙いは金品では無い"と聞こえただろう。
怜蜂も同様に、そう理解したようだ。
『ですが、西側王女の持参金が目当ての物盗りの可能性も捨てきれません。賊を取り逃してしまったばかりに、……申し訳ありません』
逃げられないくらいの軽い怪我を負わせて生け捕りにするのが理想だが、もし殺してしまったとしても遺体であっても残っていればそこから遡って調べることが出来る。
もし背後に誰かが居るのだとしても、全くと言って接点を消し去ることは出来ないからだ。だが、遺体すら残っていないということは、手掛かりすら掴みようが無い。
済まなさそうに落ち込んでみせるアリシアに、怜蜂は違和感を感じて尋ねてくる。
最初の興奮が随分と落ち着いて来たのだろう。落ち着いて今の状況を分析する余裕が生まれて来た。
部屋に入って来た当初からアリシアは落ち着き払っていた。いや、アリシアだけでは無い、彼女の侍女達のドレスも汚れていたが、主人同様に何事も無かったかのような態度であった。
公国側の司令官は、彼女達には取るに足りない人物なのか?
怜蜂の表情が少し曇ったことを見てとったアリシアは、既に冷めてしまっているお茶を、部屋に置いてあった三つのガラス製のカップに注ぎ始めた。
『話は変わりますが……娘娘、司令官が亡くなっているのに、随分と落ち着いていらっしゃいますね』
アリシアは、きょとんと怜蜂を見上げた。
ああ、普通の姫ならばこういう場合は、泣き叫ぶか震えて口も利けないのか、と思い至った。
双子達も慣れていて特に気にした事が無かったが、こうして王宮の外に出ると自分が普通では無いと痛感させられる。
アリシアは、ガラスカップの一つを怜蜂へと差し出した。受け取りはしたものの、口を付けない怜蜂に微笑みかけたアリシアは、両手に残りのカップを持ってベッドへと近づいていく。
そしてベッド脇でくるりと怜蜂を振り返ると、その宝石のような特徴的な瞳で、怜蜂の赤み掛かった褐色の瞳をひたと捉えて答えた。
『お恥ずかしい話ですが、標的にされることには慣れております。わたくしの代わりに、近しい者が亡くなる事にも』
嘘である。
自分でも可笑しくなるほど、口からすらすらと出まかせが突いて出たものだ。
アリシアは、次のマリア・セシリアとして自国内では王太子と同じか、それ以上の存在として厳重な警護が付いていた。
彼女を害する事は、それ即ちセントパルミア公国で一番の権力者たるマリア・セシリアに害なす者と見做され、公国内だけでなく西側諸国に亡命したとしても、逃げ果せる事は出来ないだろう。
そんなマリア・セシリアの掌中の珠に傷を付ける者など、存在するはずが無い。だが、ここは同じダンタリア大陸とはいえ、東の端の大蜃皇国だ。
セントパルミアに居たアリシアが、皇国の後宮内部のことを調べる術が無いように、大蜃皇国の皇子達も公国王宮の内部事情など手に入るはずがないと踏んでの発言だった。
『ああ、……どの国も同じ、という訳ですね』
怜蜂は、アリシアの言葉を疑いもなく信じたのか、頷きながら同意していた。
大国も小国も高貴な血筋は狙われ易い。男性しか玉座に就く事が出来ない大蜃皇国とは違い、西側ではほとんどがお飾りだが、女性であっても王座に就ける。
それならばアリシアが狙われるというのも、理解が出来ると言いたいのだろう。
『いえ、わたくしだけです。セントパルミアで……実の母に狙われていたのは』
アリシアは俯きその視線は、ベッドに横たわる瑞蛉に向いたままで言いにくそうに伝えた。
ついでのようにベッド脇のナイトテーブルへと両手のカップを置くが、そこには薬湯が手付かずのまま乗っているところを見ると、太医は瑞蛉に水分を摂らせることが出来ていないのだろう。
ベッドの上で瑞蛉は、大量の汗を掻き、頬を真っ赤に染めて苦しそうな息を継ぎ、大きく胸を上下させている。
大蜃皇国では、大国故に天帝を含め、皇統を継げる男性が狙われる事が多い。
外国からの刺客もあるが、今回の瑞蛉のように国内で狙われる事の方が遥かに多かった。
幼い外孫を帝位に就け、政を意のままに操ろうと画策する重臣達と、自分の子を帝位に就け太后位を手に入れた後、他の寵姫とその子を殺害しようとする妃嬪達によって、宮廷、後宮問わず四六時中狙われることになる。
特に皇子であれば皇女よりも、母親の位が高ければ高いほど狙われる率は高くなる。寵姫の子であれば、腹の中に居る時から狙われることもあった。あわよくば、寵姫ごと一緒に屠る事が出来ると考えてだ。
だが実母や、事情により実母が育てられずに養母となった妃嬪であれば、自分の手元に居る子を狙う事は決して無かった。
皇国では、皇太子は母親の地位も関係するが、その資質も重要視される。そのため、実子であれ養子であれ、その妃嬪が手元で育てた子供が天帝位に就けば、自身が皇后で無かったとしても太后と同等か、それ以上の権力を手に入れることが出来るからだ。
そんな皇国の後宮で育った怜蜂にしてみれば、実子を殺そうと考えるなど思いもよらない回答であっただろう。
『それ、は……なんと申し上げたらいいのか』
怜蜂の動揺は、その言葉に現れていた。
『わたくしは、本来国を出る事の無い者、……アースアイを持つものは、出る事を禁じられておりました』
アリシアは、ベッドの端に腰掛け瑞蛉の額に張り付いた髪を払うと、自分の告白に耳を傾ける怜蜂に、にっこりと微笑い掛ける。
そして再びナイトテーブルに置いたカップの一つへと手を伸ばした。
『初代王妃の遺言です。その為、兄が国王となった暁にはその補佐をし、時に国王に代わり国を治め、次代の養育にも関わることを想定した教育を施されて育ちました』
手の中のカップに視線を落とすと、ゆっくりと口唇を付けてコクリと飲んで見せた。毒など入っていないと、アリシア自身で証明してみせるためだ。
カップの中に残った水面に自分の顔が映っている。淡く金色に色づくお茶の中でも、輝きが損なわれない瞳を見ながら話を続ける。
『王子が蔑ろにされていると感じていたのでしょう。母は、そんなわたくしが疎ましかったのだと思います』
それは事実だ。
身の安全の保証も無い、遠い東の端へと追いやってしまいたいほどに嫌っていたのだから。




