夜半(よわ)の訪問-1-
「姫様」
橋の中ほど辺りで、ぼんやりと考え事をしていたアボットは、アリシアの背後から掛けられた言葉にびくりと肩を揺らした。
「怜蜂殿下にお会いになる前に」
「まずはお召し替え遊ばしませ」
掛けられた細い板を渡り四番艦に乗り込む為、アボットの手を借り先を歩くアリシアに、双子達は溜め息交じりにそう零した。
だが一瞬振り返ったアリシアの返事は、耳を疑うものだった。
「いいえ、このままお会いするわ」
「恐れながら、大蜃皇国では殊更血を穢れと忌み嫌っておりますれば……」
手を引くアボットですら遠回しに注意をしてくるが、アリシアは頑として首を縦に振らない。
「では尚更このまま殿下にお会いします。こちらは掛け替えのないものを失ったのだから、あちらにもそれ相応の代償を支払っていただくわ」
護衛を命じられた王女の衣装が血塗れなど、皇国側からすれば衝撃的だろう。
血が忌み嫌わられているのならば、好都合だ。
頭から浴びたのかと思うほどの量だ。何かが起こった事、これだけの血を流したのならば、死人が出たことは言わなくてもわかるだろう。
何も伝えなくとも、聡い怜蜂ならば一瞬で理解し、そしてこちらが何も言わずとも要望を叶えてくれるはずだ。
アリシアは話し終わると、橋の終わりを見つめて歩を進めてはいるが、何にも反応しなくなってしまった。何事かを考え始めたのだろう。
こうなると彼女が梃子でも動かない事を、長年一緒に過ごして来た双子達は良く知っていた。
橋を渡り切ると、仕方ないといった体の双子達は、側に居た水夫からランプを一つ借りると、アリシアの足元を照らし歩き始める。
皇子達の為に設えた部屋は、一つ下の階層に用意した。本来ならば将校が使用するデッキが最適なのだろうが、デッキは甲板にある為、騒々しい。敵地で気を張り詰めていたであろう怜蜂にゆっくりと休んで貰うため、敢えてデッキでは無く一つ下の階に部屋を設えたのだ。
だが、これが功を奏した。
まさか瑞蛉が倒れるとは思ってもみなかったが、騒がしいデッキよりも下の階の方が怜蜂もまだ落ち着いていられるだろう。
デッキでアボットに見送られ、下の階へと続く階段で双子達が声を潜めて尋ねて来た。
「イーディス卿の事、よろしかったのですか?」
「部屋のこと?」
頷くマルグリットにアリシアは、微笑んだ。
「反対に好都合よ。誰も部屋に入れなければ、何も気づかれる心配が無いわ」
クリストファーは、上官達には覚えは悪いが、下士官達には慕われていた。
もしクリストファーの容体が安定すれば「お見舞い」に、急変し亡くなりでもすれば、「最後の別れを」と兵士達が入れ替わり立ち替わりクリストファーに会いに行くだろう。
だが、アリシアの私室であれば、クリストファーの容体がどうであれ容易に出入りは出来ない。
王女の部屋というだけでなく、衣装や宝石類もそのままになっているためだ。
ジェフリーが付いているとはいえ、船内で盗難など目も当てられない事態は回避したいだろうから、部屋に入れる人間を極力抑える事ができる。
証拠は全て処分したが、何かの拍子に気づかれる恐れがあるし、何より薬の効力が切れて、クリストファーが目を覚ましてしまった時に出くわしてしまっては、折角の苦労が水の泡だ。
前を向いたまま声を潜めたアリシアが二人に話す。
「わたくしが部屋に入ったら、通路を封鎖してちょうだい。誰も近づけないで、部屋の前には絶対に誰も立たせないで。兵士たちは通路の端に配置して、貴女達は通路の中央で人が近づかないように見張ってて」
船の造りは、甲板から続く階段は通路の中央付近に設置されており、通路に降り立つと右手奥に次の階段があり、左手突き当たりに船長室として使用する部屋がある。
アリシアは、甲板へと続く階段と部屋との中央辺りに双子を、奥の階段付近に兵士の配置を指示し、第一階層部分の封鎖を命じた。
ランプを持ったマルグリットが、言いにくそうに問いかける。
「鈺鋭殿は?」
「貴女達と同じく通路中央に」
「……畏まりました」
怜蜂の部屋には、きっと鈺鋭も一緒に居るはずだ。
彼女達の言いたいことはわかる。鈺鋭が大人しく言う事を聞いてくれるかどうか、と考えたのだろう。
命じたからには、双子達は身体を張ってでも止めてくれるだろう。何がなんでも止めて貰わなければならなかった。
何故なら、今から話す内容は決して誰にも聞かれてはならないからだ。
話を聞く人数が多ければ、些細な綻びを見つけてしまう者が現れる。
話をするのは怜蜂ただ一人。
彼だけを騙しおおせれば、後はこちらの筋書き通りに進む。
クリストファーも皇国高位もどちらも手に入れてみせる、とアリシアがこれからの事を考えているうちに目的の部屋へと到着した。
部屋の前には、公国の士官が扉の左右に一人ずつ立っている。
階段を降りて来たアリシア達に気づくと、立ったまま目礼を寄越して来た。
「これは、アリシア様」
「ご苦労様です」
アリシアを庇うようにマルグリットが前に出た。
そして、イングリットがにっこりと微笑んで続ける。
「怜蜂殿下に火急の用です。お通しください」
イングリットの言葉に顔を見合わせていた兵達だが、先程から上階が騒がしかったこともあってか、すんなりと動いた。
兵士の片割れが扉をノックすると、顔を出したのはメイランだった。
こんな夜更に誰かと思ったのだろう、隙間から覗いたメイランの表情は訝しげに曇っている。
「メイラン」
だが、兵士達の隙間からアリシアが呼びかけると、途端ににっこりと笑顔を見せた。
「姫様」
そっと扉から身体を滑らせるように外へ出てきて、アリシアの側へと急いでやって来る。
「怜蜂殿下に火急の用があって参りしました。取り次ぎをお願い」
アリシアの言葉を聞いたメイランは、少し逡巡する素振りを見せ、そしておずおずと口を開くと、アリシアと双子達にだけ聞こえるような小さな声で話し始めた。
「姫様、今は……大層ご機嫌が悪くていらっしゃいます。出来ますれば、明日の方がよろしいかと……」
瑞蛉の熱が下がらないどころか、船に乗ってから益々熱は上がり、時折意識が浮上するも混濁していて、うわ言を繰り返している。
太医は、成す術もなくただ瑞蛉の額の汗を拭っているだけだという。それでは、怜蜂の機嫌など明日になっても治る事は無いだろう。
「メイラン、お前が取り次げ無いのなら、わたくし自ら参ります」
「姫様!」
アリシアの言葉に、焦ったのはメイランの方だった。
助け舟を求めるかのように双子達を交互に見つめたが、彼女達の返答はただ首を左右に振られただけで終わる。
仕方無しと、メイランが再び扉の隙間から身体を滑り込ませようと扉をほんの少し開けた瞬間、双子達が先に割って入った。
何事かと目を丸くしている太医と違い、鈺鋭は鞘を投げ捨て剣を抜いて怜蜂を庇うようにその前に駆け寄り、怜蜂は剣を握り、瑞蛉の身体をその胸に抱き寄せる。
瞬時にこれだけ動けるという事に目を見張ったアリシアは、双子の影から様子を見守る事にした。
「お茶をお持ちしました」
にっこりと微笑んだイングリットが、手に持つトレイを少し掲げて見せると、殺気は薄れたものの、鈺鋭は不機嫌さを隠しもせずに怒鳴りつけてきた。
『何を考えている!皇子殿下方の寝所であるぞ!』
「心得ておりますよ。ですが、火急の要件にて怜蜂殿下に御目通りを」
双子達の後ろから姿を現したアリシアに、怜蜂が目に見えて大きな溜め息を吐いてみせる。
『娘娘……』
明らかに怒気を孕んだ声だった。
だが、アリシアも一歩も引くことは出来ない。
「怜蜂殿下にお話がございます」
真っ直ぐに怜蜂の瞳を見つめて対峙するアリシアに、折れたのは怜蜂の方だった。
再び大きく溜め息を吐くと、鈺鋭に剣を収めるように視線だけで諫め、自分も剣をベッド脇へと立てかける。
『公国の船がいかに速いと言えど、これほど騒々しいとは思っておりませんでしたよ。例え三日の行程でも、途中で根を上げる者が出て来るでしょうな』
余程機嫌が悪いのか、怜蜂の口から嫌味が飛び出してくるとは思っても見なかったが、アリシアはそのまま受け流す。
「お人払いを」
『いかに娘娘と言えど、……娘娘故に、深夜に天帝妃と二人きりなど、双方にやましいことが無くとも、疑われるような愚行は出来かねる!』
自分の言葉を無視した挙句、更に要求を突きつけて来たアリシアに、怜蜂も流石に苛立ちを隠そうともせずに応戦して来た。
部屋に入る事は、譲歩した。これ以上まだ望むのか!と命ぜられる事に慣れていない怜蜂が思うのも理解できる。
言葉を選んでいるが、これが女官や下女が相手ならば、口を利くどころかその場で首を刎ねられても仕方ない程の怒気が瞳に宿っていた。
普通の王女であれば震え上がって、大人しく引き下がったことだろう。だが、アリシアは普通には育てられていなかった。
この程度で引くのであれば、最初からこんな博打のような芝居など仕掛けはしない。
平常心を失っていれば、それだけこちらの術中に嵌る確率も高くなるし、意のままに操り易くなるというものだ。
そのまま怒りに機嫌を損ねたままでいてちょうだいと考えながら、アリシアは動かない怜蜂に代わり太医に命じる。
『太医殿、退室願えますか?』
きょろきょろとアリシアと怜蜂を何度か見遣った太医は、深々と頭を下げ『是、娘娘、怜蜂殿下、失礼いたします』と小さな声で残すと、頭を下げたまま後退って退室して行った。
アリシアは、怜蜂の悋気などお構いなしに太医を部屋の外へと出すと、次は自分の侍女達に声を掛ける。
「イング、マルゴ、メイリン、貴女達も外してちょうだい」
「畏まりました」
「仰のままに」
と、双子達がその場を去ろうとするのとは反対に、メイランは「ですが……」と言い募って動こうとしない。だが、双子達はそれを許さずに彼女の背を押して三人で退室して行った。
メイランが心配するのも分かる。言葉が通じないと思っているのだろう。だがアリシアは、彼女が心配する必要は無いくらいに、皇国語を操ることは出来るのだ。
『……怜蜂殿下』
それでもまだ動かない怜蜂へとアリシアは近づいて行く。
ベッド脇に腰を掛けた怜蜂は、睨み付けるようにそれを見ていたが、怜蜂の目の前までやってきたアリシアが歩みを止めた。
決して怜蜂に恐れをなしたわけでは無いのは、その瞳を見ればわかる。
何をするのかと見守っていれば、肩から掛けていた大きな上着の合わせから、ついと細く小さな手を怜蜂へと伸ばしてくる。思わず差し出された腕を見て、怜蜂が驚きに目を見開き立ち上がった。
アリシアの手を取り、自分の背後に隠すように回すと静かに落ち着いた声で命じる。
『鈺鋭、下がれ』
『ですが……』
『下がれ。何も無い、娘娘と、……娘娘と瑞蛉と三人でただ茶を飲むだけだ。今宵我々の間には何事も無かった、よいな』
苦しい言い訳だが、これで一応の面目が立つだろう。
そしてこれ以上の言い合いは不要と、怜蜂が鈺鋭から視線を外した。
それを合図に、鈺鋭が一礼して退室していった。




