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新月のふたり  作者: 六花
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第2話 「はじまりの予感」

 暑かった。


 駅から楽器店まで歩いただけなのに、背中に汗が張りついている。


 凛は店の扉を開けた。


 冷房の風が、火照った頬に当たる。


「……涼しい」


 思わず、小さく呟いた。


 店内にはギターが並んでいる。


 壁にも、天井にも。


 見慣れた光景なのに、楽器店に来ると少しだけ気分が上がる。


 今日はギターを見に来たわけじゃない。


 弦を買いに来ただけだ。


 いつも使っている弦を探して、棚の前で足を止める。


 同じようなパッケージがいくつも並んでいた。


「……?」


 凛は眉を寄せた。


 同じメーカーでも、種類が違う。


 数字も違う。


 コーティング、と書かれているものもある。


 何が違うんだろう。


 手に取って、裏返す。


 説明を読んでみる。


 けれど、いまひとつ分からない。


「……うーん」


 そのときだった。


 少し離れたところに、見覚えのある人がいた。


 黒い髪。


 赤茶色にも見える髪色。


 静かな雰囲気。


 ギターを見ている。


 凛は、すぐに気づいた。


 ライブに来ていた人だ。


 あのとき、最後まで客席にいた。


 何度かスマートフォンを見ていた人。


 どうしてここにいるんだろう。


 そう思った。


 けれど、それ以上に。


 ちょうどいい。


 ギターを持っている人なら、この違いを知っているかもしれない。


 凛は少し迷ってから、その人へ近づいた。


「あの、すみません」


「……はい?」


 振り返る。


 やっぱり、あの人だ。


「これって……何が違うんでしょうか?」


 凛が弦のパッケージを見せる。


「……太さとか、材質とか」


「太さ?」


「はい」


「太い方が、音が太くなるんですか?」


「……だいたいは」


「じゃあ、細い方は?」


「押さえやすくなります」


「じゃあ、初心者なら細い方がいいんですか?」


「……必ずしも、そうではないです」


「どうしてですか?」


 汐は少し考えた。


「細いと、音が軽くなったりしますし……弾き方によっては、音が暴れやすくなります」


「音が暴れる?」


「……弦が細い分、強く弾くと音が安定しにくいことがあります」


「なるほど……」


 凛は弦を見つめる。


「でも、音は太い方がいいんですよね?」


「……好みによります」


「好み?」


「はい。弾く人によって違います」


「じゃあ、ギターによっても違うんですか?」


「……違います」


「へえ……」


 凛の目が少しだけ輝いた。


「じゃあ、このギターならこっちの方がいい、とかもあるんですか?」


「あります」


「音が変わるんですか?」


「かなり変わることもあります」


「そんなに?」


「……はい」


 凛はパッケージを見比べる。


 さっきまで同じように見えていたものが、少し違って見えた。


「じゃあ、これも?」


 別の弦を手に取る。


「コーティングって書いてありますけど」


「錆びにくくするためです」


「じゃあ、長持ちするんですか?」


「はい」


「どのくらい?」


「使い方にもよります」


「触った感じも変わるんですか?」


「……少し」


「滑る?」


「そう感じる人もいます」


「音も変わります?」


「……多少は」


「種類があるんですか?」


「あります」


「へえ……」


 また別のパッケージを見る。


 凛は次々と手に取っていく。


 汐はそのたびに答えた。


 質問されれば答えられる。


 音楽の話なら、言葉が出てくる。


 それでも、自分から話を広げることはない。


 凛の方は、次から次へと疑問が浮かんでくる。


「これって、使ってたりします?」


 凛が一つのパッケージを指差した。


「……はい」


「どれですか?」


「Elixirです」


「これもコーティング?」


「そうです」


「種類あるんですか?」


「あります」


「じゃあ、どれでも同じじゃない?」


「……結構違います」


「そうなんですか?」


「はい」


「じゃあ、どうやって選ぶんですか?」


「ギターとか、音とか……あとは弾きやすさです」


「ギターによって変えるんですか?」


「……変えます」


「太さも?」


「はい」


「へえ……」


 凛は感心したようにパッケージを眺めた。


「これ、ちょっと高いですね」


「そうですね」


「でも長持ちするんですよね?」


「普通の弦よりは」


「じゃあ、結果的には安いのかな……」


 凛はしばらく考えた。


 それから、もう一つ質問する。


「これって、実際に弾いたら違い分かります?」


「……弾いてみますか?」


「え?」


「試せるギターがあれば」


 汐が店内を見回す。


「……たぶん、あります」


「いいんですか?」


「店員さんに聞けば」


「あ……」


 凛は少しだけ申し訳なさそうにした。


「すみません。そこまでしてもらって……」


「いえ」


 汐は首を横に振った。


 店員に声をかけ、試奏用のギターを借りる。


 弦はElixirだった。


 凛が椅子に座る。


「……これ、弾いていいんですよね?」


「はい」


 ギターを構える。


 いつものようにコードを押さえる。


 ストロークする。


「……あ」


 凛がもう一度弾く。


 音が違う。


 ほんの少しだけ。


「ちょっと滑りますね」


「コーティングされてるので」


「でも、思ったより弾きにくくない」


 もう一度、コードを鳴らす。


「音も……なんとなく違う気がする」


「そうですか」


「……面白いですね」


 凛は笑った。


 さっきまで迷っていた。


 けれど、もう決まった。


「これにします」


 弦を手に取る。


 少しだけ高い。


 それでも、試してみたいと思った。


 会計を済ませ、袋を受け取る。


 店を出る前に、凛は振り返った。


 さっきの人がまだ店内にいる。


 何かを見ている。


 凛は少しだけ迷った。


 何か言おうとした。


 けれど、結局そのまま店を出た。


 外はまだ暑かった。


 袋を手に持つ。


 新しい弦。


 早く張ってみたい。


 歩きながら、凛はさっきの会話を思い返していた。


 ギターによって、弦も変わる。


 音も変わる。


 まだ知らないことが、たくさんある。


 それが、少し嬉しかった。


 *


 しばらく歩いてから。


 凛はふと足を止めた。


「……あ」


 何かを思い出した。


 さっきの人。


 弦のことを教えてくれた人。


 試奏まで付き合ってくれた。


 なのに。


「……お礼、言ってない」


 凛は少しだけ振り返る。


 もちろん、もう店は見えない。


 戻るほどのことでもない。


 それに、名前も知らない。


「……次、会ったら」


 そこまで呟いて、凛は口を閉じた。


 別に、次に会う約束をしたわけじゃない。


 そう思いながら、また歩き出す。


 手の中の袋が、かすかに揺れた。


 新しい弦を、早く張ってみたかった。


 それだけだった。

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