第12話 「Echoes of Memory」
ライブまで、あと十日。
「……違う」
凛はギターを止めた。
スマートフォンから流れている原曲を、もう一度最初から再生する。
イントロ。
何度も聴いた音。
何年も聴いてきた音。
ギターが入る。
凛は目を閉じた。
そのまま最後まで聴く。
再生が終わる。
ギターを構える。
同じ場所を弾く。
「……違う」
やっぱり違った。
弾けないわけじゃない。
譜面通りには弾けている。
音も外していない。
それなのに。
原曲と重ねると、どこか違う。
何が違うのかは分からない。
でも違う。
その感覚だけが残る。
翌日。
また弾いた。
その次の日も。
譜面を見る。
原曲を聴く。
弾く。
止める。
また聴く。
また弾く。
同じことの繰り返しだった。
ライブで演奏するための譜面は、ほとんど完成している。
四人で演奏する形にもなった。
充も弾ける。
零花も合わせられる。
晶も歌える。
だから本当なら、それで十分なはずだった。
それでも。
凛は原曲を再生する。
そしてまたギターを手に取る。
「……違う」
何度目かも分からなかった。
指先が少し痛む。
気付けば同じ場所ばかり弾いている。
それでも、ギターを置く気にはなれなかった。
自分がギターを始めたきっかけになった曲だった。
初めて聴いたときのことは、もう細かく覚えていない。
それでも。
あの音に憧れたことだけは覚えている。
だからこそ。
何が違うのか分からないままなのが、妙に煩わしかった。
スマートフォンを手に取る。
原曲の動画を開く。
いつもの映像。
顔は映らない。
ギターだけが映っている。
何度見たか分からない。
何度真似したかも分からない。
それでも。
まだ遠い。
「……」
凛は動画を止めた。
一人で考えていても、もう分からない気がした。
スマートフォンを操作する。
Twitterを開く。
フォロー一覧を下へ送る。
静月汐。
名前を見つける。
DM画面を開いた。
文字を打つ。
『お疲れ様です。』
そこで止まった。
消す。
もう一度打つ。
『お疲れ様です。神崎です。』
また止まる。
相談したい。
でも、何をどう説明すればいいのか分からない。
そもそも、こんなことで連絡していいんだろうか。
しばらく画面を見つめる。
何度か文章を消す。
打ち直す。
結局、一番短い言葉だけが残った。
『お疲れ様です。神崎です。
相談したいことがあるんですが、今度少し時間ありますか?』
送信。
指が止まる。
画面を見る。
当然、すぐには既読にならない。
「……送っちゃった」
スマートフォンを伏せる。
数秒後。
また手に取る。
何も変わっていない。
分かっている。
それでも気になった。
スマートフォンを置く。
代わりにギターを手に取る。
「……もう一回だけ」
凛は、また弾き始めた。
返信が来たのは、翌日の昼だった。
仕事の休憩中だった凛は、通知に気付いて思わずスマートフォンを開いた。
『大丈夫ですよ。
今週なら水曜か木曜が空いてます。』
「……よかった」
思わず息が漏れる。
少しだけ肩の力が抜けた。
日程を決める。
待ち合わせは、駅から少し離れた公園になった。
当日。
凛はギターケースを抱えて公園へ向かった。
ベンチの近くに、見覚えのある姿がある。
白いパーカー。
少し長めの髪。
静月汐だった。
「あ」
凛が声をかける。
汐が顔を上げた。
「こんにちは」
「こんにちは」
軽く頭を下げる。
少しだけ緊張した。
ライブ会場で話すのとは違う。
今日は、自分から頼った側だった。
「すみません。急に」
「いえ」
汐は首を振った。
「それで、相談って?」
「あの……」
凛はギターケースを開いた。
「これなんですけど」
ギターを取り出す。
「ちょっと聴いてもらってもいいですか?」
「もちろん」
汐は頷いた。
凛は深呼吸を一つした。
スマートフォンを足元に置く。
譜面は見ない。
何度も弾いた曲だった。
イントロ。
Aメロ。
サビ。
途中で止まらない。
最後まで弾く。
音が消える。
公園に静けさが戻った。
「……どうですか?」
凛が尋ねる。
汐は少し考えた。
「上手いと思います」
「そういうことじゃなくて」
思わず即答した。
「あ……すみません」
汐は少し困ったように笑う。
凛も少しだけ笑った。
「たぶん、そう言うと思いました」
「じゃあ、何が気になるんですか?」
凛はスマートフォンを取り出した。
動画を開く。
GLAMOROUS MOON。
何年も聴いてきた音。
「私、本当はこれをやりたかったんです」
再生する。
イントロが流れる。
汐は黙って聴いていた。
途中で止めることもない。
最後まで聴く。
それから凛を見る。
「譜面ってあります?」
「あります」
凛は鞄から紙の譜面を取り出した。
何度も書き込みをした跡が残っている。
汐が受け取る。
譜面を見る。
音源を聴く。
また譜面を見る。
凛は黙って待った。
数分。
汐は一ページ目を見ていた。
それから二ページ目。
音源を少し戻す。
また聴く。
凛は何も言わなかった。
汐は譜面と音源を何度も見比べている。
時々、動画を止める。
少し戻す。
また再生する。
凛には、何を確認しているのか分からなかった。
それでも口は挟まない。
今は待つしかなかった。
やがて。
「……あ」
小さく声が漏れた。
凛が顔を上げる。
「何か分かりました?」
「たぶん」
汐は譜面の一箇所を指で押さえた。
「ここ、違いますね」
「違う?」
「音源だと、このコードじゃないです」
凛は譜面を覗き込む。
汐はペンを取り出した。
「たぶん、こっちです」
譜面の余白に書き込む。
さらにページをめくる。
「ここも」
また書く。
「あと、この辺もですね」
凛は目を瞬いた。
一箇所じゃなかった。
曲全体に、少しずつ違いが混ざっていた。
「……こんなに?」
「かなり細かい違いですけどね」
汐は譜面を見ながら言う。
「普通に聴いてたら、流すと思います」
「……そうなんですか?」
凛は修正された譜面を見つめた。
今まで何度も見てきた譜面だった。
それなのに。
少しずつ別のものになっている。
「弾いてみますか?」
汐が譜面を返す。
凛は頷いた。
ギターを構える。
深呼吸を一つ。
修正された最初のコードを押さえる。
鳴らす。
その瞬間だった。
「あ……」
思わず声が漏れた。
違う。
今までと。
ほんの少しだけ。
でも確かに違う。
凛はそのまま弾き続ける。
イントロ。
Aメロ。
サビ。
指が止まらない。
最後の音が消える。
公園に静寂が戻った。
凛はギターを抱えたまま動かなかった。
何度も追いかけた音だった。
何年も聴いてきた音だった。
届かないと思っていた。
ずっと足りないと思っていた。
けれど。
「……これだ」
小さく呟く。
汐は少しだけ笑った。
「良かったです」
凛は譜面を見下ろした。
紙の上には、いくつもの書き込みが増えている。
たったそれだけだった。
なのに。
景色が変わって見えた。
「神崎さん、よく気付きましたね」
汐が言った。
凛は顔を上げる。
「そうですか?」
「俺だったら、多分流してます」
凛は少しだけ笑った。
「じゃあ、気付いてよかったです」
汐も笑った。
「そうですね」
譜面へ視線を落とす。
「この頃のGLAMOROUS MOONも、まだギター未熟だったんじゃないですかね」
「未熟?」
「普通あんまり使わないコード使ってます」
汐は修正した箇所を指差した。
「弾きやすさで考えるなら、別のコードの方が楽ですし」
凛は譜面を見る。
確かに、押さえづらい。
「でも、音源はこれなんですよね」
「そうですね」
汐は頷く。
「だから、多分ですけど」
一度言葉を探す。
「その頃は、そのコードしか思いつかなかったんじゃないですかね」
凛は黙った。
譜面を見る。
修正されたコードを見る。
もう一度見る。
「……じゃあ」
凛はゆっくり口を開く。
「私、結構近付いてたんですかね」
汐は少しだけ首を傾げた。
「近付くというより」
一度言葉を探す。
「もう追い付いてると思います」
凛は目を瞬いた。
思わず譜面へ視線を落とす。
何日も弾いていた。
何度も弾いた。
何度も失敗した。
届いていないと思っていた。
足りないと思っていた。
だから。
その言葉は少し意外だった。
「……そうですか」
「はい」
汐は頷く。
「少なくとも、俺にはそう聴こえました」
凛は小さく笑った。
嬉しかった。
でも、それを上手く言葉にはできなかった。
代わりに譜面を丁寧にケースへしまう。
今日のために持ってきた譜面。
何年も追いかけていた曲の譜面。
帰ったら、もう一度弾いてみようと思った。
今度は違う気がした。
ふと、顔を上げる。
汐は相変わらず穏やかな表情をしていた。
少し迷う。
けれど、今なら聞ける気がした。
「あの」
「はい?」
「また困った時は、相談してもいいですか?」
言ったあとで少しだけ緊張した。
断られるとは思わない。
でも、自分から誰かを頼ることに慣れていなかった。
汐は少しだけ考える。
それから、頷いた。
「俺で分かることなら」
その答えに、凛はほっとした。
「ありがとうございます」
頭を下げる。
汐も軽く頭を下げ返した。
公園の時計を見る。
思っていたより時間が経っていた。
「じゃあ、今日はありがとうございました」
「いえ」
凛はギターケースを背負う。
来た時より少しだけ足取りが軽かった。
譜面の重さは変わらない。
ギターの重さも変わらない。
それでも、何かが違った。
「失礼します」
そう言って歩き出す。
数歩進んでから振り返る。
汐はまだベンチに座っていた。
凛は小さく手を振る。
汐も軽く手を上げた。
それから凛は駅の方へ歩いていった。
姿が見えなくなる。
汐はしばらくそのまま座っていた。
やがて立ち上がる。
スマートフォンで時間を確認する。
夕方だった。
公園を出る。
向かう先は、いつものコンビニだった。
自動ドアが開く。
冷たい空気が流れてくる。
飲み物を取る。
ついでに缶ビールも一つ手に取った。
レジへ向かい、会計を済ませて店を出る。
ビニール袋が小さく揺れた。
昔の譜面。
昔のコード。
昔の自分。
汐は小さくため息をついた。




