冒険者87 母は強し
病院着の袖を力の限り掴み、涙を流す母親を宥めるのは苦労した。
大丈夫だと何度言っても流れる雫の量は変わらず、困った俺はこちらの様子を見守っていた父親に顔を向けて協力を募った。
父親は苦笑を零し、母親の肩を優しく掴んで落ち着くように静かに低い言葉で耳元で囁く。
その声を聞いて母親は何度も首を縦に振り、やっと袖を掴むことを止めてくれた。
ゆっくりと父親が持ってきてくれた丸椅子に腰を落として、涙を手で拭って鼻を啜る。そんな姿でも美しさは損なわれず、我が母親ながら畏れすら感じさせてくれた。
父親も丸椅子に座り、母が落とした紙袋を足元に置く。今日は伯父は来ていないようで、きっと家族水入らずにさせてくれたのだろう。
ただ、残念ながらこの場は家族だけではない。病室の壁際には榊原が直立姿勢で立ち、俺達の会話に耳を傾けている。
決してプライベートには介入しないだろうが、両親にとっては第三者が居るのは慣れない筈だ。母の感情が爆発したのはこれまでの蓄積があったからこそで、冷静になれば羞恥心も湧くかもしれない。
「父さん、母さん、心配をかけてごめん」
「事の次第はギルドの責任者に聞いた。だが、本当にそれは事実なのか? 正体不明の巨大モンスターの強襲を受けたと聞いたが……」
「ああ、うん。それは本当。ギルドで先輩の方々と組んでダンジョンで調査をしてたら、急に見たことのないモンスターが出てきたみたいでさ。しかも恐ろしく強かったよ」
父親の疑問に、淀まずに嘘を吐く。
俺は両親の目線からすれば、ギルドの調査の名目で日本のダンジョンに入っていることになっている。
その調査内容も俺の能力に一部特異なものが見つかったからで、その能力の実態を知る為に他より被害も少なく済むであろうダンジョンに潜った。
そして、その過程でおかしなモンスターが現れて頭部を負傷。肉体の治療そのものは問題なく進んだものの、意識が戻らない植物人間になったとされている。
この中で真実があるとすれば、戦った相手が本当に強かったところだけだ。真実を語れば二人が卒倒するのは目に見えている。
「……ギルド、もうやめない?」
「母さん……」
なんとか涙目のところまで戻った母親が、目元を赤くしながら自身の願いを告げる。
その言葉は親としてのものであるし、決して軽々しく言っている訳でもない。俺は家族の前で怪我をする可能性を伝えて、二人もそれは了承していた。
だがそれは、結局のところその意味を完全には把握しきれていなかったから出来たことだ。
こうして実際に自分の子供が死んでしまうかもしれない様を見せられ、母親はこのままでは永遠に俺と会えなくなるのではないかと正面から受け止めてしまった。
父親も気持ちは一緒の筈だ。母の台詞を聞いて口を挟まず、寧ろ引き結んで俺を見つめていた。
大切な我が子。愛している子供。彼等にとっての宝が、今正に破壊されようとしている。
認められるものではないし、納得なんていくら言葉を募られても出来る筈もない。
居なくなっても次を作れば良いじゃないかと言う人間がもしも現れれば、母親どころか普段から温厚な父親も全力で相手を殴り飛ばすだろう。
あらん限りの罵倒を放ち、可能な限り悪意をばら撒いてしまうかもしれない。
実際にそんな風になるかは解らないまでも、それに近い状態になるのは一緒に生活していてよく理解している。
感情的になるのは母親でも、本気で爆発すれば怖いのは父親だ。
だからこそ、彼等の想いが解らないなんて馬鹿なことは考えない。この人達の俺に向ける感情は真っ直ぐで、嘘など微塵も含まれない。
「母さん。今ここで辞めるって宣言したら、きっと一生監視がつくよ。冒険者の力が強いのはニュースでも流れてたでしょ?」
「それでも、貴方が居なくなるよりはずっとマシよ……。そんなことで命が守られるなら、私達のプライベートなんて無くていい」
「監視の件はギルドから聞いてる。兄貴も承諾済みだ。寧ろ僕達の傍に居た方がずっとまともな生活が出来るって本人が張り切っていたくらいだよ」
我が家の人間は総じて家族想いだ。
俺の為に、親戚も含めた家族達は優しく接してくれている。それは偏に居なくなる事実が身近になってしまったからこその恐怖故だが、きっと過去のあれこれも要因として含まれている筈だ。
昔から自分は家族に迷惑をかけていた。受けた側は気にしていないと笑ってくれても、実際問題迷惑をかけていたのは事実だ。
家族を安心させてやれないなんて、一人の人間として情けないだろう。
まったくどこまで自分は酷いのかと内心で呆れながら――――それでも今回も我を通すつもりだった。
「ありがとう。本当に、父さんや母さんには感謝してる。勿論伯父さんにもだ。きっと一人だったら何処かで野垂れ死んでいたかもしれない。家族の助けがあってこそ、今の俺は生きていられてるんだ。これは決して過剰でもなんでもない」
罪悪感を振り払い、二人に心からの感謝を。
未来の俺の分まで、愛してくれてありがとうと頭を下げる。同時に、是が非でも家族を守る意思は強くなった。
この人達が安穏と暮らしていけるように。この黎明を迎えた冒険者社会で、僅かな傷も無しに生きていけるように。
「――その上で、冒険者を辞める気はないよ。これからの未来を考えた時、強さは必要だって思うから」
「翔……」
「幸い、俺には他とはちょっと違う力があるみたいなんだ。だからって訳じゃないけど、皆を守れる自分になりたい。母さんや父さんの危機に助けられる、そんな男になりたい」
入院してるけどさ、と後頭部を掻いて本心を二人に告げる。
榊原も見ているので恥ずかしいと言えば恥ずかしいが、それよりも変な誤解をさせたくない。
二人が絶対的な味方で居てくれるなら、俺も二人の味方になる。その気概が他の大義よりも劣っているなど、断じて認める訳にはいかない。
母親は何かを言いそうになり、直ぐに口を噤む。
言いたいことは山程にあった筈だ。それは父親も一緒で、にも関わらず俺の意思を無言で二人は飲み込もうと必死だった。
俺の決めたことを応援するなら、その先には死が待っているかもしれない。
背中を押す行為が常に正義とはならず、地獄への道を善意で舗装する結果に終わるかもしれない。
それでも、それでもどうか、二人には頷いてほしい。俺はあの未来を歩きたくないから。
「……どうする、母さん。俺は応援してやりたい」
「…………」
俺の想いに父親は頷いてくれた。だが、母親は噤んだまま顔を下に向けている。
俯いた状態で表情を窺い知るのは難しく、だが葛藤しているのは解っていた。
子供の願いに応じるべきか、自身の願いを優先すべきか。そのどちらもが間違いではないからこそ、母親の意思一つで全てが決まる。
沈黙の時間は長かった。耳に痛くなる程の静寂は単純な戦いよりも神経を削り、背中に冷たい汗が流れているのを感じる。
母親を焦らせる真似はしない。勢いで飛び出る言葉なんて真意でもなんでもない。
じっくり考えて、絞り出たのが母の本音。だから待って、待ち続けて、不意に俯いた顔を上げてくれた。
「――――わかった」
「母さんッ……」
「子供の願いを応援しないのは親失格よ。それが例え死ぬかもしれないような出来事でも、決めたことを貫こうとする息子の邪魔を私達はしたくない。……でも!」
母親の手が伸びる。
俺の両の手を優しく掴み、どこまでも愛情と慈しみを込めた眼差しで言葉を紡ぐ。
「ちゃんと帰ってきて。親離れすべきだとか言ってきても、私達の家に顔を出しなさい。それが条件」
胸に熱いものが湧き上がる。
眦から雫が流れ落ち、全身が震えた。
この人に勝つことは生涯ないだろう。いや、そもそも勝負にすらならない。
どんな能力もこの人の言葉の前では全てが平伏す。土俵にも立てず、ただ心を貫く感覚に敗北を抱くのだ。
「ありがとう、ございます……ッ!」
全身全霊。俺が出来たのは、ただ心のままに感謝を口にすることだけだった。




