第二十歩 本当の家族
漠然とした部分は多いものの、翔は世界の変化を知った。
曖昧な感覚は現場に戻ることで鮮明になり、やがて肌で全てを実感するようになるだろう。
世間話も交えた説明を終えて、榊原は一時病室から退室した。これからギルドに戻り、老人に報告をした後に翔の家族と合流して諸々の説明をする予定だ。
まかり間違っても裏の話は出さないつもりであるも、翔に説明していないだけで既に彼の家族は微妙に怪しさを覚えている。実際に説明された全てが真実ではないと疑い、事実の説明を家族は翔に頼むだろう。
翔がそれに応えないのは解っている。榊原とて、そこに疑いを挟む余地はない。
ただ、家族の訴えは時に理性を凌駕する力を発揮する。今回でそれが起きれば、少なくない衝撃を家族は受けることになってしまうだろう。
「……っふ、ふ、っふ!」
「その調子です。起きたばかりなのにもう歩けるなんて凄いですよ!」
「ははは、これでも冒険者ですので」
午前の時間を説明に使い、昼食を過ごしてから早速とばかりに翔のリハビリが始まった。
先ずは立ち上がること。これは鈍重極まりない感覚に苦しみながらも二本の足で立つことでクリアになった。
いきなりの成功に医師もナースも驚き、そのままの勢いで支えを使った歩行訓練へ移行。
移動自体には車椅子を使ったが、いざリハビリ室で開始された最初の歩行で翔はもうゆっくりと歩けていた。
担当のナースは頻りに凄い凄いと褒めているものの、当人である翔の胸中は苦い。
仮想空間内では出来た単純な移動が、現実になった途端に超重力の中で歩かされているような感覚になるのだ。
一歩を踏み出すだけでも意識せねばならず、数歩も進めば汗が噴き出す。一回の移動に数分もかけ、無事に終われば深く息を吐き出した。
はっきり言えば、今の翔にまともな戦闘行為は行えない。
この状態ではレベルで圧倒可能な小鬼にも殺されかねず、ダンジョン内を移動するのも不可能だ。
これが元通りになるとしたら、早くても半年は掛かるかもしれない。もっと遅くなれば、一年程は覚悟せねばならないだろう。
それは翔にとって最悪の二字だ。直ぐにでも復帰したいのに、緩やかな回復しか行えないのでは無駄な浪費でしかない。
――――ならば、自分にとって都合の良い形で回復させればいい。
「ふ、ふ、ふっ、っふ……」
自分が真っ直ぐに歩ける姿を思い描く。
仮想空間内で最後に戦ったあの時の感覚のまま、自分が健常者と変わらない状態になった姿を幻視させた。
歩く、歩く、歩く、歩く。
筋肉が痛みを発している。内臓が不規則に蠢き出した。
途端に気持ちの悪さが上ってくるも、その全てを彼は飲み込んで歩く。
元の自分はこんな風に歩けていた。元の自分はあんな風に走れていた。武器はこうやって振るって、能力の発動はあんな感じで使っていたな。
思い出して、幻の自分を見本にして、翔は緩やかに移動する。
だが、此処は現実。ソアが構築した仮想空間ではない。あの中であればスムーズに起動した力も、現実の肉体となった今の状態では中々上手くは動いてくれなかった。
それでも彼は確信している。胸から上ってくるこの異様なまでの吐き気が、自身の治療が進んでいる証拠であると。
実際、既に最初に予定されているリハビリ時間は集中していた為に瞬く間に過ぎ去っていた。
リハビリの担当ナースももう終わりを告げるべきなのに、恐るべき程の集中力で真っ直ぐ前を見据える彼を見て何も言えなくなっている。
患者が無理をするのを医療関係者は望んではいない。だが、この集中を途切れさせるのは違うとナースは無言で彼の状態を観察し続けた。
そして長い時間を見て、徐々にナースの顔は驚嘆に染め上げられていく。
一時間が過ぎ、二時間が過ぎても翔は動くのを止めなかった。その肉体は既に枯れ枝が如くに細くなっていたのに、通常の回復速度を超過する勢いで太く硬くなっていく。
入院着は多量の汗で肌に張り付き、肉体のラインを極めて正確に見ることが出来ていた。
だからこそ、腰回りも元の健常者に戻ろうとしているのが解る。そして、健常者に近付けば自然と一歩を進む速度も上がっていく。
当初の予定を一時間も二時間も過ぎて、その代わりに翔の歩行は健常者と何も変わらなくなった。
まるで元に戻ったかのように思えるが、彼の表情は青白く染まっている。明らかな無理をした結果だ。
足を止めた瞬間にナースは駆け寄り、自身を支えにして壁に固定されたソファに座らせる。
そして予め準備していた飲み物の蓋を開け、ストローを差し込んで口に持って行った。
中身はスポーツドリンクに近い飲み物だ。汗をかいている今の翔は水分が不足していて、当人は迷わずストローで飲み物の大半を飲む。
その間にナースはタオルで彼の顔を拭き、明らかに最初との違いを間近で見た。
「凄い回復速度ですね……。私は冒険者を担当した経験が無いのですが、これほど早く治るものなのですか?」
「――いえ、冒険者でも一握りだと思いますよ」
苦しいだろうに、翔はナースに微笑んでみせた。
だがその目の奥に不穏な輝きがある。それがこれ以上の踏み込みを制止させているようで、ナースは唾を飲んで無言で彼の身体を拭いた。
ある程度終われば、今日のリハビリはこれで終了だ。時間をかなり超過してしまったが、彼女には後に控えている人間も居ない。
強いて言えば、報告すべき相手が居るだけ。その人物に情報を流すのも彼女の仕事だ。
別にスパイをしている訳ではない。ただ、己は自身の上司にこの情報を報告するだけだ。その上司が更に何処へ報告するかは、ナースは知らない顔をしている。
兎も角、翔は病室に戻って新しい入院着に着替えた。
時間はもう午後の四時になろうとしていた。病室に放置していた携帯は幾度もバイブ音を鳴らし、起動してみると大量のメールが届いている。
その全てが家族からのものだ。一番多いのは母親で、次点で父親が短い文面を送っている。
翔が目覚めたことを心底喜んでいて、特に母親は今日会えることを待ち望んでいたと強烈な文面で送ってきていた。
それだけ嬉しがってくれたのなら、彼が不安に思うことは僅かもない。
家族達は今回、この病室にそのまま来る。
入院に必要な品は既に揃っているから手ぶらで構わないのだが、翔の両親が何もしない選択をする筈がない。
幸いにして、彼の私物はまったくとこの部屋にはない。大体は家に戻されたか、あるいは処分されてしまったのかもしれないが、本人としては別にどちらでも構いはしなかった。
精々気にするとしたら購入した回復薬ぐらいのもの。決して安くはない値段で買っただけに、一度も使わずに処分されたとしたら悲しむだろう。
ベッドで横になって待機の姿勢を取る。なるべく心配をさせないようにしたいが、二年近くも会えない状況ではどうしたって心配はしてしまうだろう。
そのまま――――四時も半ばを過ぎた頃。
静かに響くノック音にどうぞと短く返す。スムーズに開いた扉の先には、かつての元気な姿よりも幾分細くなった家族の姿だった。
母親が翔と視線を交わす。静かに本心からの笑みを浮かべると母親は持っていた紙袋を落として一目散に彼に駆け寄った。
「翔! 翔ッ、しょう、しょうぅ……」
涙を流す彼女に、翔はただただ困った。
どんな言葉をかければ良いのか。何を言えば無難に終わるのか。
正直、彼は眼前の女性程に激しい感情を持ってはいなかった。体感時間は数日であるし、それほど酷い怪我も負ってはいない。
いや、していたにはしていたものの、それらは全て完治済みだ。
慌てる程ではないと解っているからこそ、悲嘆も歓喜も抱きはしない。故にズレが生まれてしまうのは――――致し方ないことなのだ。




