冒険者82 破壊脱出
頬に拳が突き刺さる。
反対に拳を頬に突き刺す。
殴って、殴って、殴り合って。 血反吐が地面を濡らしては別の血で上書きする。
まるで最終決戦さながらの状態だが、ただ単純に互いに引けなくなっただけ。 男の方は気にしていないように見えて、実際は殴り飛ばされた事実を認めたくないのだ。
相手は極端に距離を縮め、搦め手や遠距離攻撃を行う空隙を与えまいとしている。 俺自身の手にも武器なんて武器は無く、あるのは精々破れた衣服のみ。
そして、互いの攻撃はその全てが急速な回復と頑強な肉体の所為で非常に長丁場になっている。
体感は一時間だろうか。 状況を変えたければこの殴り合いを止めねばならないのだが、それを眼前の相手は求めてはいない。
他の人間も黙って見ているだけ。
止めるなら俺自身で止めなければならず、かといって相手の勢いは徐々にどうしようもなくなり始めている。
先程までは相手よりも速度の面で上回っていると確信出来た。 動体視力が格段に強化され、嘗てよりも見えている世界が変わっているのが解る。
けれど所詮、それは入口に立っただけだ。 歩いていたと思っていたこれまでは同じ道を無限に周回していただけで、ハムスターと何も変わらない。
俺は今赤子なのだ。 生まれてはいはいを覚え始めた段階で大人による手加減付きの暴力を受け、相手はその行為をエスカレートさせようとしている。
客観的に見て、止めなければならないだろう。 今ここでその暴挙を止めなければ、赤子に待っているのは順当に死のみだ。
脇腹を殴りつけ、腹に一撃もらう。
先程からの応酬で胃袋の中身は残らず吐き出され、最早何も出てはこない。
ただ苦しいだけの攻撃を受け、そんな重撃を歯を食いしばって耐えながら自分の足で相手の足を踏み潰す。
足先の骨を全て折り、強引に服の袖を掴んでは自身を更に相手の内側に持って行く。
そのまま胸の前に両拳を置き、短くコンパクトに畳んだ連打を浴びせ続けた。
「ぬぅぅっぅぅぅうぅぅぅ!」
「ぉぉぉぉぉおおおおおおおおお!!」
百発叩き込んで胸骨を砕き、二百で肉を穿つ。
それでもなお足りないと出来うる限りの攻撃を続け、我慢が出来なくなった男は俺の背中を掴んで適当に放り投げた。
空中に投げ出された俺はその場で体勢を整え、眼下の男を見やる。
肉体の損傷はこれで向こうも酷くなった筈だ。 一瞬の攻防だが、散々に叩きつけられた報復には十分だろう。
最早試験とも呼べない状況だ。 生死がかかったこの場で、相手が無事かどうかを慮る思考の余地はない。
最初の内はどう情けなく負けるかを考えていた。 試験には明確な合格ラインが存在していて、試験官を満足させなければきっと残留そのものを認めない。
仮に残留は認めたとしても、その時点で変な期待をかけられてしまう。 それで難易度が上がるくらいなら、早々に情けなく終わって消えた方が誰の記憶からも悪い意味で覚えてもらえる。
この虚構ですべきはクリアではない。 脱出だ。
如何にこの場を作った者の予想を上回るかが肝要なのであって、勝ちは流れで決まるかどうかだった。
けれど今、この瞬間においてそんな思考は既に塵芥に過ぎない。
俺は小さい人間だが、そんな俺を産んでくれた人は偉大な存在だ。 そして、小さいながらの俺を確かに育ててくれた人も同じくらいに偉大な人間である。
そんな人達を守り、共に暮らすのが俺の夢。 死なんてものが立ち塞がる道理は無いし、ましてや軽く扱われるのも我慢ならない。
それはまるで、俺を大切だと言ってくれた家族も愚弄しているみたいじゃないか。
確かに少し前までは自分は大した人間じゃないと言い続けてきたけれど、そこに両親の要素は微塵も含まれてはいなかった。
この男にそんな思考が入っていたとは思っていない。
だがそれでも、そう思ってしまった時点で俺の目的は切り替わった。 我ながら単純に過ぎるものの、それでも最大の原動力の前では建前など簡単に崩れ去る。
勝とう。 勝って、あの人達と笑い合うんだ。 俺にはそうしなければならない責任がある。
「勝つ!」
「やってみせろ――」
着地と同時に走る。
愚直に前へは行かない。 今一度同じ状況になってはまた極小の削り合いが起きるだけだ。
それなら背面へ行き、攻撃の瞬間に強引に足で空気を蹴る。 小さな破裂音と共に身体は横斜め下に移動し、地面に足の裏がついた直後にまた別の角度へと肉体を動かす。
やっていることは完全に漫画だが、どだい漫画じみた戦闘をしているのが現在だ。 多少の無茶を気合でねじ伏せ、背面の裏拳を放ったばかりの男の正面へと潜り込む。
馬鹿正直にもう顔は殴らない。 かといって胸を攻撃しても一緒だ。 手を刃の形にして、太腿に突き立てる。
服は頑丈で、そう簡単には俺の思った通りの結果は出ない。
だから、ここでもやるのは妄想の一手。 この鎧の如き服も自分の前では綿も同然と思い込み、先端の爪が槍の如くに太腿の皮膚を貫く。
そうなってしまえば、後は自然と力を入れるだけでいい。 手首まで突き刺しては一気に引き抜き、さっさと逃げの姿勢へ。
噴き出す血はそのまま男の活動時間を縮める。
伸びれば伸びる程に肉体から血は抜け、やがては失血による死が襲ってくるだろう。
筋肉に力を入れて強引に止血するなんて真似もさせない。 そのために敢えて深くまでダメージを刻んだのだから、これで止まるならもうモンスターも同然だ。
明確な時間を与えられ、それでも男に慄きは無い。 ただ純粋な闘争心が彼を戦いに駆り立て、次へ次へと前に歩かせる。
激痛が走っているだろうに、男はそれでも先と変わらぬ速度で攻撃を仕掛けてくる。 怪我の一切を無視した行動は後々に響く筈だが、そんなことは思考の端にも浮かんでいないに違いない。
「どうした!? まだ手足はあるぞ、心臓は潰されていないぞ、首に掠り傷の一つもありはしないぞッ」
「ッ、死にたいのかアンタ!」
「っはっはっは! 殺してみるがいい!! そんな台詞を吐く時点で殺す気などないだろうによぉ!」
再度、拳同士が激突する。
鍔迫り合いじみたぶつかり合いを歯を軋らせながら続け、男が目を限界まで開きながら己の持論を展開し始める。
「気合を入れろ。 自分の力を限界まで振り絞れ。 何かを成し遂げたいのなら、他者へ慮る真似などするな」
「黙れ! お前に指図される謂れはない!」
「ほう。 では一つ、見せてやろうではないか」
鍔迫り合いを男は途中で放棄した。
俺との激突をバネにして後ろに飛び、にんまりと気色の悪い笑みを浮かべる。
そのまま両の掌を重ね、祈るような形になった。
表情は一転して穏やかな微笑に変わり、二本の足で立つ姿は人々を見守る巨木のようにも思えてしまう。
突然の行動に俺は困惑した。 だってどう見ても今の男は隙だらけだ。
殴ってくださいとでも言いたげな姿にはどんな狙いがあるのか解らず、かといって絶対に無駄であるとも断言出来ない。
思惑に乗せられているようで癪だが、迂闊に飛び込むのも愚の骨頂。
唯一の救いは――――この状況を歓迎していないのが俺だけではないことだ。
「ザンク殿!」
「それは流石に禁止されています!!」
黒服が全員、一斉に男であるザンク目掛けて突撃していく。
だが、ザンクにとってはどうでもいいのだろう。 周りの声など気にせず、ついに終わりの言葉を述べた。
「主よ、我に聖戦を――――■の腕」
瞬間、ザンクの周りから亀裂が四方に伸びた。
それは黒服達を捉え、俺も捉え、そしてザンク自身も捉える。
上から追加されたかのような亀裂に接触した俺は動けなくなり、同時に他の面々も動けなくなっていた。
罅が増殖する。 急激な勢いで広がった罅はやがて空間全体にまで広がった。
傍で硝子の砕ける音がする。 その音を合図に、いきなり全ては砕け散っていった。




