#64
“Facing Darkness”
*
セレンたちが何者かの襲撃を受けた同刻。
「――――――♪」
場面は変わり廃病院。調子外れの上機嫌な鼻歌が廊下に響く。ラタネだ。いつもテンションの高い彼女だが、今はそれにも増して上機嫌になっている。
彼女は廊下をふらふらと徘徊しながら、そこかしこに転がっているガラクタを見つけては立ち止まり、物珍しそうに目を輝かせる。
「ふっふふのふー!」
屋内消火栓の残骸と思しき物の前でしゃがみながら、ラタネはテンション高めに奇声を上げた。そしてもはや何と書いてあったのか判別不能な、文字と思しき白線を興味深そうに指でなぞる。何がおかしいのか、口元をだらしなくにやけさせながら。
傍目から見たらどうしたのかと目を疑うような奇行。だが、彼女にそんな事を気にする様子はない。
「ふへへ……。見えるって素晴らしい! これなら外でもセレンくんのお手伝いなしでも大丈夫そうッすねー!」
目を爛々と輝かせながら、ラタネは眼鏡の縁を何度も持ち上げる。これ見よがしにクイクイッと。
そう、今の彼女には眼鏡という文明の利器があったのだ。
シンゴに手渡された眼鏡は彼女の世界を激変させた。元々、ラタネの視力は数十センチ先でもぼやけて見えるほどに悪い。彼女が人との距離感が近かったのはその為だ。歪んだ視界が適切な距離というものを教えてくれなかったのである。
だが、常にぼやけていた視界が今は開けている。輪郭の混じりあった光景が、はっきりとそれと分かる。ただ、それだけで胸が弾けそうなほど嬉しい。
何かわからないものが、見えているけど見えなかったものが、見えるだけで嬉しい。これならば一人でも怪我をせずに、外の世界を歩くことが出来るだろう。
それに……なにより彼らと同じ世界を見られることが嬉しかった。
「いやー、レキナちゃんの邪魔しちゃ悪いし、適当にブラブラするつもりが。ここにはまだまだ色んな発見があるッすねー!」
手に取ったガラクタを手放し、ラタネは鼻歌を再開させる。
「――――――♪」
調子外れの鼻歌。だが、ラタネに気にする様子はない。こうして歌っていると不思議と落ち着いてくるからだ。彼女自身、意識してのことではないかもしれないが、その様はまるで孤独を紛らわそうとする子供のようにも見て取れた。
そうして見慣れない病院を探索している内に、ラタネはある変化に気づいた。
「んー? なんすかね。モヤモヤ……?」
外で吹く灰色の砂嵐とは違う、白く漂うなにか。それが廊下の奥から音も無く湧き出てきていた。ラタネの記憶が間違っていなければ、周りの病室の扉は全て締め切られていたはずだ。そして今いるリノリウムの朽ちた廊下には、ほとんど窓は存在しない。だがそんな状況にもかかわらず、視界に移る白濁は廊下を這うように浸食してきている。
「はてさて……? これはいったい――――」
出所の分からないものに首を傾げながらも、その不可思議な光景に好奇心を刺激されたのか、すでに目の前までに来た白い霧へと手を伸ばす。
――――刹那、霧の中から何かが飛び出し。
――――同時に、背後から破裂音がラタネの耳朶に届いた。
「えっ」
驚愕する間もない。その何かは廊下を跳ね転がり、やがて動かなくなった。
動かなくなったそれをラタネは凝視する。そして鮮明に映ったその異形の姿に、思わず息を飲んだ。
まるで腫れ上がったように長い鼻。鰓と鰭を持つ肥大化した白銅色の体は不自然なまでに膨れ上がり、銃弾により生々しい肉の色を曝け出している。頭部は醜く歪んでおり、白く濁った目は光を失い、尚も濁り始めている。口と思われる部位には鋭い牙がいくつも生え、何者かの血で赤く染まって見えた。
ラタネの知識で当て嵌めるのであれば、それは魚の類のように見える。だが、このような醜悪な姿をした生物を彼女は知らない。知りたくもない。
……こうやって理解すればするほどに思う。見てはならないものを見てしまった、と。驚愕から戻ったラタネの胸中に生理的嫌悪がふつふつと沸き、抑えきれない吐き気が胃の辺りをむかつかせた。
「あ……え、なに? えぇ……?」
そうして混乱していたラタネだったが、そのの肩に何者かの手が添えられる。
「ヒッ」
「ラタネ様、お怪我はないでしょうか」
「アンちゃん……それに……」
ラタネが振り向くとそこには聖母のように微笑むファルファレルロの神仔アン、それと共に彼女の兵隊である修道女のシエルがそこにいた。見知った顔を確認したラタネは安堵の息をこぼす。だがそんな彼女をシエルは見咎めるように睨んだ。
「……様だ」
「え?」
「アン様だと言っている」
「シエル。構いません」
「…………フン」
固まるラタネを他所に、シエルは不機嫌そうに鼻を鳴らし、そのまま両手に持った二丁の拳銃を無明の霧に向けて数発撃った。
一、二秒の後、ベチャリと水っぽい何かが地面へ落ちる音。縦横に揺れた銃口は、その全てが過たず標的を捉えていたようだ。恐らくはあの醜悪な生物の仲間であろうか。顔色を青くしているラタネには確認する勇気はない。
「うぅ……」
「……我々は襲撃を受けているようです。この異形を内包した『霧』はドラギニャッツオの神性でしょう。
「この場所はアンちゃんたちとアタシら以外知らないはずなのに……なんで分かったんすか……」
「それは……」
「どうだか。お前らの中に裏切り者……いや、元々敵側のやつがいるんじゃないのかい?」
「え……?」
シエルは底冷えするような目でラタネを睨む。が、何を言っているかわからない、という風にラタネはシエルを見返した。アンがシエルを手で制し、首を横に振る。
「いえ。『霧』の規模から特定の場所への襲撃というよりは無差別……もしくはこの神性の範囲はこの世界全てに広がっているかもしれません」
「じゃあ、じゃあ……外に居るセレンくんたちは……?」
「……今は、彼らの無事を祈りましょう」
震えるラタネを他所にシエルは『霧』を見据え顔を顰めた。
「しかし、嫌な臭いだ。これだけで胸糞悪くなってきやがるね」
「臭い……?」
苛立つシエルに不思議そうに首を傾げるラタネ。その様子に呆れたようにシエルは息を吐いた。
「……この臭いがわからないってどんな鼻してんだ。まぁ、いい。アン様、私が先行します。そいつを連れるならその後に」
「え……何処に行くんすか……?」
「少しは自分で考えたらどうだい? この『霧』の中にはこいつみたいな化け物がうじゃうじゃいやがる。とりあえず、病院の中にいる連中で合流すべき――――」
突然の巨大な音と衝撃にシエルの言葉は途切れた。咄嗟にシエルはアンを庇い、身を伏せる。少し遅れてラタネは慌ててそれに倣った。
体を揺るがす振動に全員が身を強張らせる。天井からは砂煙がこぼれ落ち、目の前の霧と混じり合い、ただでさえ劣悪な視界を更に濁らせていく。
「なっ……」
「ゆれ……ゆれゆれゆれ……?」
揺れ続けること数分――体感であり、実際は一分も満たないかもしれないが――を超えたあたりで、シエルは嫌な予感を覚え……それが的中する。
もし仮に地震であればすでに収まるべき時間は既に経っているはず。
だが、未だ収まる様子はない。振動が長く続きすぎている。
かつては地震の多い地域に居たが、ここまで長いものを彼女は体験したことがなかった。ましてや、この世界に来てからは地震なんてものは一度たりとも経験していない。
同時にシエル自身のコナトゥスがこれは全く別のものだと感じていた。
まさか、と彼女はふと思い浮かんだことを口にする。
「これは……この、建物自体が、揺れている……?」




