#63
“The Mist”
異常極まりない事態にセレンは唖然としながらも、その霧の不自然さに瞬時に気づいた。伸び行く純白の先端、それが断ち切られたかのように、世界の灰色と霧の白色が分けられていたからだ。まるで、人の手で作られたものであるかのように。否、人工のものに決まっている。
「こいつは『神性』だッ!! 撤退するぞ!!」
セレンの叫びにトーヤは立ち上がると、二人は揃って踵を返し遁走した。
何が起きたかなんて考えるまでもない。これはドラギニャッツオの神仔の神性だ。そもそも霧なんてもの、この世界に来てから一度も目撃をしたことがないのだ。
全てではないが、セレンはこれまでに様々な神仔の神性を『視認』してきた。
しかし、神性は強大な神の力だということは知っていても――――よもや、世界そのものを呑み込むほどの無差別攻撃に等しい力を持つ者がいるとは想像できなかった。
「チッ……」
己の失態に舌打ちを鳴らし、だがセレンは思考を巡らせる。
これまでにドラギニャッツオの神仔が神性を使う姿は誰も見たことがないという。今ならばその理由も理解せざるを得ない。これ程強大な神性、恐らくは一度切りしか使えないものだ。こんな力が無制限に使えるのならば、とうの昔にこのゲームは終わっているに違いない。
そしてそんな切り札を出してきたということは、相手には必勝の戦略があるということだ。
全力で走りながらも何とか振り返り、セレンは霧を『視認』する。
拡散する速度が速い。速すぎる。自分たちの走る速さの倍くらいはありそうだ。人間などはちっぽけな存在だと嫌ほど分からされる。少しでも情報をと思っての行動だったが、見るんじゃなかったとセレンは内心激しく後悔した。
「クソッ」
……必死の逃走も虚しく、やがて視界が白濁に塗りつぶされていく。一寸先は何も見えない。白い、白い、暗黒の世界。セレンはその不快感に本能的に瞼を閉じそうになったが、何とか周囲を探れないかと意志の力で見開き続けた。
「……」
視界は最悪。近くを走っているはずのトーヤすら確認できない。足音で判断は出来るものの、こんな状態で敵の襲撃を受けたらと思うとゾッとする。だがそんな予感すら現実になろうというのか、ざぁざぁと何か形容しがたい音が先程から聞こえてきている。霧に混じった生臭さもいやましに高まっていて、気を抜いたら吐いてしまいそうなほどだ。
この様々な臭いが混ざった、腐ったような饐えた匂い。記憶の彼方から呼びかける。途方もなく大きく、紺碧に染まった、母なる……
「……! そうか、そういうことかよ……!」
セレンはそこでようやく臭いの正体に気づいた。トーヤが愕然とするはずだ。そんなもの、この世界には存在するはずがない。在り得ないものなのだから。
どうにかして、病院に居る仲間たちにこの危機を知らせねばならない。
寄せては返す霧に溺れながらも、セレンは『視認』を駆使し廃墟を走り抜けた。
(この辺りは大分見覚えがあるか……)
病院まで残り半分といったところか。トーヤも迷うことなく彼に追従出来ている。四方を警戒しながらの逃走でひどく消耗しているが、何とか帰ることが出来そうだ――――
「グっ!!?」
そう思った次の瞬間、突然セレンの右目に激痛が走った。咄嗟に視線を走らせるも、近すぎて原因が何か『視認』が出来ない。
「セレンさん!」
瞬時に状況判断したトーヤがセレンの眼前へとナイフを投擲する。同時にブツリという嫌な音が耳朶に響く。それで怯んだのか、何かが離れる気配がしたかと思うと、ベチャリと水を含んだような不快な音が鳴った。
「野郎ッ……!」
ようやくセレンが左目で襲撃者を『視認』した時。
この世のモノとは思えない醜悪な生物が、誰かの眼球を咥えていた。
*
霧に沈みゆく世界の中で。
少女の歌が聞こえた。
「ラ、ラララ……神は眠るわ。神は宿るわ。貴方に。私に。彼方に……」
霧の中に浮かぶ五つの影。悠然と、泰然と泳ぐそれらを取り巻くように、無数の何かがぐるぐると渦を巻いている。
その何かを形容するには、いささか言葉が足りないと言えるだろう。というのも、それらすべて一つとして同じカタチをしたものなどおらず、多様性の坩堝というべき様相を呈していたからだ。
しかし敢えて共通した点を挙げるとするならば―――――それらは悉くが醜悪、いや最悪と言っていい姿をしていたということだ。生理的嫌悪感を掻き立て人の内に潜む恐怖を暴き立てる。神に背き、天に唾を吐くという行為を具現化したとすれば、このようなカタチに成り果てるのだろう。或いは……世界のどの場所よりも『深淵』に近しいからこそ、その姿を得たのであろうか。
そんな醜悪な生物たちの中心で、件の声の主たる少女はうっとりと声を弾ませる。その一音一音に付き従うかのように、周りの生物は回遊の速度を上げ下げし、その度に霧は唸りを上げた。それを見て少女は更に頬を紅潮させた。
「私にとっての成就。繋がり。貴方たち、祝いなさい……その身を躍らせて」
これらは彼女にとっての手駒であり、消耗品であり……大事な参列客だった。
その身で造らせるはバージンロード。
思い描くは悲願への道。
声は旋律へと昇華し、反響した旋律は追複曲を紡ぎ上げ、大いなる目標への凱歌となる。
「ララ、ラララ……ふふふっ、少し陳腐かしら。でも誰でも分かるくらいの定番じゃないと、教養のある人たちだけってわけじゃないのだからね……」
少女が歌うは紛れもなく祝福の歌。それもいわゆる式場で流れているべきものだった。周囲のグロテスクさと対極を成すそれを、彼女はこれこそが相応しいのだと言わんばかりに嫣然と歌い続ける。これこそが光差す未来なのだと、世に知らしめるべく。
これは、これこそが彼女の希望であり、運命であり、生きる意志であった。
「姫様……機嫌、良い」
「それもそうネー。あの胡散臭い道化者に今日までずっと我慢させられてきたからヨ」
「フヒッ。それギャグで言ってんの? お前も十分胡散臭いっつーの! 前から思ってたけど、なんだよ、その片言のエセ中国人語。お前、アレだろ? 実は漫画の世界から来たとかじゃねーの?」
「ヒドイネー。ちゃんと現実の人間ヨー」
「まぁ、まぁ。……殺るのはいつも通り早い者勝ち。哀しい。あぁ、哀しい。これが最期だと思うと……私は哀しまずにはいられない」
「お前の哀しいはいつものことじゃんかぁっ! アッハハハハハハッ!! クソつまんねーけどチョーウケるっ!!」
少女を取り巻く影たちは目前に広がるグロテスクな光景にも目もくれず、この世界を謳歌している。しかし、それぞれの感情の色は別々なものであった。
或る者は喜を。
或る者は怒を。
或る者は哀を。
或る者は楽を。
その胸に狂わせ、躍っている。
そんな影らに少女は蠢き、高らかに言葉を紡いだ。
「……祝福しなさい、 その運命を。 信じなさい、 その意味を。さぁ、今日は記念すべき――――婚儀の日よ」




