#65
“Deep Sea Ones”
*
「……どうして、こうなってるんだろう」
目前に広がる白色にハカナは何度目か分からない呟きをこぼす。
『霧』が蔓延した病院の地下一階。白一色の廊下の中を彼らは恐る恐る進む。辛うじて手を伸ばせば届く程度の範囲は見えるものの、まるで白い絵の具に塗りつぶされたかのようだ。一歩、一歩と白い闇の中を進む度に不快な臭いと湿気が体を包んでいく。酷く息苦しい。
「どうしてって、敵の襲撃でしょうね」
「敵……」
ハカナは同行者――レキナの言葉を反芻し、目を向けた。この異常事態はどうあってもそうとしか考えられないだろう。
事の始まりは少し時を遡る。セレン達が偵察に出るのを見送った後、ハカナは少しでも銃を手に馴染ませようと射撃場で訓練をしていた。そこへ何の前触れもなく起こった地揺れ。慌てふためいて射撃場から出てきた彼が見たのは、廊下一面に広がる真っ白な『霧』だった。
呆然とその光景を見ている背中に声をかけたのがレキナというわけである。……聞けば訓練中ずっと入り口で見張っていたらしい。
――――なんで、見張ってるの?
――――別に。何か問題がある?
と、理由を聞いても適当にはぐらかされるだけだったが。
「何か、不服なのかしら」
「不服というか……」
レキナは怯えた様子もなく、何故かこちらの制服の裾を摘んでいる。病院内とはいえ、霧に覆われ視界がおぼつかない現状、はぐれないとは限らない。対策は確かに必要だ。それはそれとしても……
「落ち着かない……」
ハカナの小さな呟きにレキナは首を傾げるだけだ。レキナは全く気にしていない様子だが、数時間前の剣呑な会話もあって、妙な気まずさばかりを感じる。
「この『霧』。……多分、神性なのはわかるけど、一体どんな力なんだろう。今のところ視界が悪いのと、臭い以外何も起こってなさそうだけど……」
「そうね。……このまま何事もなくみんなと合流出来ればいいのだけれど」
暗澹とした気分を紛らわせるように、ハカナは今まで見たことのある神性を思い浮かべる。
体を人喰い機械にする少女。植物を異常に成長させる少女。……目の前の、生きた雷を召喚する少女。
少なくともそれらのように急な変化は感じられない。『霧』から感じるものは生暖かい湿り気と異様な生臭さ。確かに不快だが、それだけだ。すぐにどうこうなる様子もない。
「何事も無ければ、か……」
現状、身に迫る危険が無い事に安堵しつつも、二人はゆっくりと、しかし着実に歩を進めていく。仲間との合流、それが第一の目標だ。耳に入る二つの足音が、やけに耳障りに感じた。
そうして二人で進むこと数分。視界が悪い分、時間が掛かってしまったが、ようやく一階へと続く階段へと到達した。ホッと胸をなでおろしながらも、ほとんど無意識にその一段目へと足をかける。
しかし次の瞬間、ハカナの背筋にゾクリと『恐怖』が這った。
「なッ!?」
直後、影が霧の中から現れ、ハカナの眼前へ襲い掛かる。鋭い牙がハカナの眼球へ突き刺さろうとするが、間一髪、『恐怖』により僅かに差し出していた左腕が盾となった。
「痛ッ!」
即座に走る激痛。反射的に左腕を振るが、影は離れようとしない。
「ぐっ……!」
ハカナはパニックに陥りながらも短機関銃の安全装置を解除。勢い余って全弾射撃へ。そのまま引き金を引いた。
己の思惑とは無関係に、刻まれたコナトゥスがハカナを突き動かす。
自身の行動に驚きながらも、まだ慣れない銃の反動が腕全体に伝わる。いくつもの銃声に遅れ、べちゃりと水っぽい音が聞こえ……その正体がごろりと足元に転がった。
「なんだ……これ」
ハカナの目に映ったのは醜悪な生き物の残骸だった。原型もほとんど留めていないものの、残された部分部分がそれがどんな生物であったかを物語っている。
鰓に鰭。全体のシルエットを見れば魚に間違いないだろう。ただし、異様に半透明な頭を除けば。漏れ出た血液に染まりつつあるが、頭部から素透けて内側のものが見えている。魚だとしても、酷く気味の悪い生物だった。
「これ……魚、なのかな?」
「……これは、深海魚ね」
いつの間にか後ろから覗き込んでいたレキナが呟いた。
「深海魚って……なんでそんなのが」
「『なんで』は意味のない質問ね。それがこの神性だからよ」
怪魚の残骸を再び見て、霧の臭いが濃度を増した気がした。錯覚や思い込み、そういった主観で切り捨てられないものが、コレからは漏れ出ている。
「あぁ……そうか」
そこでハカナはこの生臭さの正体を思い出した。これは、海の臭いだ。
磯の香りなどという生易しいものではなく、荒ぶる波飛沫の、あるいは黒く逆巻く海嘯の臭い。耳鳴りのように漣の音さえ聞こえてくる気がするほどに。以前、海の近くに住んでいたせいだろうか、怪魚の濃密な臭気からそう連想するのにさほど時間はかからなかった。
この異形の魚は霧の中を泳いでいた。この霧が彼らの海原であるのならば、ただ一匹で済むはずもないだろう。これまでの理不尽を鑑みれば、何百、いや何千匹いたとしても想像にかたくない。この世界は常に常識の埒外から襲いかかってくるのだから。
そうして浮かんだ神性の正体に、ハカナは思わず頭を抱えた。
「無茶苦茶だ……」
「そんなことより。腕、見せなさい」
「腕……? 痛つつ……」
レキナに指摘され、ハカナは怪魚に噛まれた腕の痛みを今更に知覚した。噛まれた部分を見てみると牙は上着を貫通したようで血が滲んでいる。痛みは見た目ほどではないが、思ったよりは傷が深そうだ。
そうしてぼんやりと観察していたハカナだったが、その腕へと唐突に白い何かがかけられた。
「……って。なにしてんの!?」
「何って。止血してるのよ」
「いや、その包帯……」
視線を上げればいつの間に制服を捲ったのか、レキナは彼女の持つ包帯をこちらの腕に巻きつけている。つまり、彼女の腕に巻かれていた包帯を、だ。解けた部分から覗く目玉がギョロりとハカナを見つめてくる。即座に首を思い切り捻って目を逸らした。
「問題ないわ。新品だもの」
「そういう問題じゃないと思う……」
止血は確かに必要だ。しかし……謎の背徳感がされるがままのハカナの胸に巡った。




