#38
“The Black Goat”
戦場の空気が、変わった。
噎せ返るような緑の臭いは一層濃く、一層深いものへ。もはや、瘴気と言っても差し支えない。気を抜けば、その臭いだけで溺れかねないほどだ。
「――――ようこそ、私たちの家へ。招いてなんていないけれど、歓迎するわ」
ザンカに続き、どこからともなくフルエフルの甲高い声が響く。彼女の声から感じられるのは、母の如き慈愛と覚悟。先程の恐慌した様子も、童女の持つ天真爛漫さも、今の彼女にはない。彼女の姿を知る者であれば、違和感を覚えるほどに。
「お前たちは私を殺しに来たのでしょう? それを悪いことだなんて、私は言えない。だけれど、私はこの平穏を壊したくない」
アウトサイダーとファルファレルロたちの動きが止まる。シンゴとレイバルまで手に持つ武器を下ろし、フルエフルの声を聞き入っていた。彼らの前に姿を現していないにも関わらず、彼女に完全に飲み込まれてしまっている。動揺と混迷が彼らの内に広がり始めていた。
「クソッ……! ここまで来て……! ふざけるなッ……!!」
己を蝕む負の感情に抗おうと、セレンは必死に声を絞り出す。フルエフルはそれに対し嘆息で返した。
「ふざけるな? それはこちらのセリフだ。私たちが一体、お前たちに何をした? これまでの者たち同様、静かに眠りについていればいいものを。
お前たちが私に理不尽を感じているように、お前たちの理屈は私にとって理不尽だ。だから、私はお前たちに正しく怒りの拳を振り落とす。話はその後に聞いてあげる。アウトサイダー、お前たちが連れている神仔についても、しっかりね」
互いに譲歩するものなど何もない。故にこれは戦争である。怒りを隠さず、聞き分けのない子に対する母に似た感情で彼女は断言した。
そして、豊穣迷宮は彼女の胎内の中。準備も全て、ツバメが稼いだ時間の中で既に完了している。後は、産声をあげるだけ。
「いあ! しゅぶ=にぐらぁす! 私たちの世界に、栄えあれ!」
彼女の母を賛美する言霊と共に、フルエフルは己の神性を行使する。同時にぐらりと地が揺れた。切り拓かれた道の壁は蠢き、閉じようと動き出す。
――――めぇめぇ。めぇめぇ。
歪な蠕動により木々は擦れ、山羊の鳴き声に似た音を出す。一匹、二匹、三匹。数は増すばかり。
めぇめぇ。めぇめぇ。めぇめぇ。
めぇめぇ。めぇめぇ。めぇめぇ。めぇめぇ。
めぇめぇ。めぇめぇ。めぇめぇ。めぇめぇ。めぇめぇ。めぇめぇ。めぇめぇ。めぇめぇ。めぇめぇ。めぇめぇ。めぇめぇ。めぇめぇ。めぇめぇ。めぇめぇ。めぇめぇ。めぇめぇ。めぇめぇ。めぇめぇ……………………
焦げた枝から枝が生え、新たな枝が際限なく伸び続け……各々の枝が発する、千匹にも達しそうな森の仔山羊たちの斉唱。一匹、一匹の鳴き声が心を揺さぶり、狂気を奏でる。故に、これまでの比ではない狂乱が彼女の招かざる客人たちの心を飲み込んだ。
そうして幾重の枝が再び絡み合い、また伸び出して、侵入者を押し潰さんと切り開かれた道を閉ざし始める。木々の怒濤は彼女の怒りに呼応するように、辺り一面に広がり続けた。
――――フルエフルの神性は『豊穣』。それは生きとし生ける、植物の生育。黄金の穂先。熟した果実。生命の実りを司る力。
その異常にいち早く反応したのはファルファレルロの神仔だ。
「皆さん、どうか……! 私の手に!」
このままでは全滅だ。そう断言するように苦しく、彼女は叫んだ。同時にレイバルと残った兵隊は動き、気絶している兵隊を抱えて、その手を取った。
シンゴもそれに習い、セレンも掴もうとしたところで――――
「あ、あ……あわわわわ!!!」
突然の事態に、ラタネが恐慌を起こして出遅れていた。
――――このままでは、間に合わない。
「……クソッ! あのバカッ!」
『視認』することでそのことを瞬時に理解したセレンは、反射的に身体を走らせた。そもそもラタネにとってはこれが初めての前線だ。彼女が浮き足立っていることに何故、自分は気づかなかったと、彼は歯噛みする。
混乱するラタネの腕を掴み、そのままの勢いで彼は彼女と入れ替わる形でシンゴたちのいる方向へ突き離した。
「えっ……? ちょっとっ……!? セレン君!?」
セレンの目に映る時間がコマ送りのように過ぎていく。
ラタネは無事、シンゴに引き寄せられた。その事に僅かに安堵したが、セレンの視界は未だ成長を続ける植物によって容赦なく塞がれていく。
『視認』しなくたって分かる。……手遅れだ。
「……畜生ッ!!」
悪態を吐くがもう遅い。彼の腕も、足も、既に成長する植物に捕らえられる。もがこうにも全く動くことができない。まるで人の両手で包まれる矮小な虫になったと錯覚する。絡みつかれ、指先すらビクともしない。やがて彼の視界は全て遮断され、もう『視認』することすら叶わない。
「あ……あ……。セレンくーーーーんッ!!!」
暗闇の中、ラタネの悲痛な叫びだけが聞こえた。セレンの身体は幾重にも植物に巻き付かれ――――
そして、彼は森に完全に飲み込まれたのだった。




