閑話 サンダーソニアが揺れる頃
今となっては遠い昔に出会い、そして去っていった人の記憶をなぞる。
『本物の鐘が鳴る前に、帰ってくるから』
そう言って渡された、明るいオレンジ色の可愛らしい花を今も覚えている。
もっと強く止めれば良かったと、何度も思った。
「――確かにあなたは帰って来たわね」
その鐘が鳴らされたのは、祝祭よりも確かに早かった。
そして、確かにそれよりも彼は早く帰って来たのだ。
今でも、黒い布で覆われた簡素な木箱の感触を覚えている。
磨き上げられていない、粗末な急ごしらえの箱に入れられた彼の表情は穏やかだったけれど。
そんなことは、何の慰めにもならなかった。
「ジェイス…確かにあなたは言葉を違えなかったかもしれない。でもね」
言葉を切って、窓の外を見る。
そこは、一面の銀世界だ。
しんしんと降る雪は、ありとあらゆる音を奪う。
「あなたは自分自身を死なせてしまっただけじゃない。わたくしの心も、あの日殺してしまったのよ」
握りしめた黒玉のネックレスの玉を手繰りながら、死者への恨み言を連ねる。
ベッドと書き物をする机と、数冊の本、簡単な薬棚と小さなテーブルと椅子。
誰かを招き入れることも、何かを楽しむことも想定されていないその部屋に、寝に戻るだけの生活。
忙しく働き続けてきたからこそ、世界の全てが色を失ってしまったこの長い長い日々を、生きて来られた。
衣食住に困らず、生きがいになるような仕事を与えられ、多くの人たちに囲まれ、刺激的な日々を生きてきた。
恵まれた一生だったと思う。
誰にでも起こるような、そういう想定外が将来を誓い合った相手を失う、という出来事だっただけだ。
それ以外は、歴史にささやかなながら名を残すような存在に上り詰め、多くのことを成し、沢山の後進を世に送り出した。
それを嘆くなど、とても贅沢で罰当たりなことだと分かっている。
それでも、時折考えるのだ。
地位も名誉もなくて良い。
ただ、望み望まれた相手と結ばれ、暖かな家庭を築き、自分自身の子を抱いてみたかったと。
「年は取りたくないものだわ。ただの感傷だと分かっていても、物わかりの悪い自分自身にがっかりさせられること」
口元に苦笑を刻み、席を立つ。
「あの日、あなたを騎士に選ばなければ良かったのかしら」
冬の館の長候補となった日に護衛騎士の選定を許され、迷わず彼を選んだことを思い出す。
基本的に、愛し子には専属の護衛はつけられない。
愛し子たちは基本的にこの館を含む王城周辺の王家の直轄地である守護結界の中で生活しており、頻繁に外出することなどないからだ。
例外として、長や長候補など不特定多数の人物の前に出る必要がある、守護が必要な人物には男性の騎士がつけられるが、これは守護される本人が唯一人だけ選ぶことを許された存在だ。
唯一人を選ぶのは慣例とされているが、本当のところは長や長候補になれるほどの強い力を持つ者と、それを守る騎士はただの主従を超える関係だ。
それこそ、その存在に違和感を感じるようでは、共にいることすら苦痛なのだから、相性の合わない相手には傍近くで守りを任せることなどできない。
そして、騎士にも命がけで守る覚悟が求められる。
それは、家族も、自分自身さえも捨てられる覚悟。
なぜなら愛し子という存在は、その末端に位置付けられる存在ですら精霊の加護を受けているという点で、この国においては伴侶として迎えたい存在であり、また意に添わなければ害してしまいたいと思う者もいる要職なのだ。
本来のあり方が、その理由が風化して忘れられても、強い力を持つ愛し子はこのリュフェスタの守りの要であり、この地で人々が豊かに暮らすための揺籃の担い手であり、世界と人々を繋ぐ存在なのだ。
その巫女姫を守り、その血脈を繋ぐための存在が守りの騎士の起源。
だからこそ、一度選ばれた騎士はほぼ例外なく守護する愛し子の伴侶となっている。
ごく僅かな例外は騎士が命を落とした場合だが、その場合は例外なく愛し子は再び騎士を持たず、伴侶も持たない。
生きる理由を、意志を失い、自ら儚くなってしまった者も多いと聞く。
それでも、マノリアは十分に長く生きた。
課せられた役目を果たすために、長く生きてきた。
「マノリア様、ミランダ様がお越しです」
取り次いでくれた、マノリアの身の回りの世話をする当番の愛し子にいつも通りの柔らかな笑みを向けて、マノリアはミランダを部屋に招き入れる。
ミランダがこの部屋に来るようになって、いつからか椅子が1脚足された。
かつてこのテーブルセットは2脚の椅子と、1卓のティーテーブルとして使用されていた。
訪れる者がなくなって、仕舞い込まれていた椅子に座る少女を、見つめる。
エオルが全てを焦がし眩く照らす砂漠の太陽なら、ミランダは全てを凍てつかせ覆い尽くす冴え冴えとした真冬の月だ。
全ての命の終わりであり、次の春を呼び込む気配に満ちている。
いつかそこにあった気配とは、似ても似つかない存在。
それが今のマノリアにある理由の全てだ。
だけどそれも、もう――。
胸の内にある物思いを隠して、マノリアは身に馴染んだ笑みを浮かべる。
「いらっしゃい、ミランダ」
ここは私室だから、いつもの敬語はなしにしようというミランダとの取り決めに従い、立ち上がって出迎えることもせず、ゆったりと座ったままでミランダを迎える。
「良い香りですね」
「レモングラスとラベンダーのお茶なの。お気に召したかしら?」
「はい、とても」
嬉しそうに、少しだけはにかんで笑うミランダの笑顔に、ふと去ったはずの面影を追う。
あの人も、がっしりとした長身を華奢な椅子に押し込むように少しだけ窮屈そうに座り、裏表のない明るい笑顔でマノリアが用意したナイトティーを寝る前に飲んで、他愛のない話をした。
何ということのないその日あったことの話。
いつか行ってみたい場所、食べてみたい料理、今町で流行っている料理屋の、服装の、小物の話。
多くの人と接する彼の話を、外の世界に触れることのないマノリアのために届けてくれるそんな話を静かに相槌を打ちながら聞くのが好きだった。
本当に好きだった。
たっぷりと日差しを含んだ日向を吹く風のように。
彼がいる場所は、いつでも日向の匂いがした。
それでも、強い力を持たない彼との婚姻を反対され、ちょうど攻め入ってきた隣国の軍を軽く押し返してくるだけの戦いに武勲を欲して参加した彼は、流れ矢から味方をかばって命を落としたという。
結果的に婚姻に反対した者たちの思惑通りになってしまったのだから、心底馬鹿な人だと思う。
「マノリア様?」
不思議そうに首を傾げて自分を見上げるミランダに、マノリアは物思いから覚める。
「そうそう。あなたに、もらってもらいたいものがあったの」
マノリアはそう言って、一抱えはある箱をミランダに渡す。
「わたくしが使っていたお裁縫のセット。わたくしはもう、刺繡はしそうにないから。もし、刺しかけのハンカチが入っていたら、見本にして練習して構いませんからね」
もう年寄りなので、目も手もちょっと、ね。そう言って笑ったマノリアに、ミランダも笑顔でその箱を受け取った。
「貴重なものをありがとうございます。……可愛いお花ですね。これは何のお花なんですか?」
「ああ、これはランタンリリーよ。ジェイが、……わたくしの護衛騎士が、わたくしにぴったりだとこの花を彫らせたの」
悲し気に一瞬歪んだマノリアの表情に、ミランダはハッとした表情になる。
「だからあなたに貰ってほしいの」
マノリアの言葉に、ミランダは口にしようとした言葉を咄嗟に飲み込む。
「分かりました。いつか、もう少し刺繍の腕が上がったらマノリア様にハンカチを贈らせていただきますね」
微笑んだミランダに、マノリアも笑みを浮かべた。
その言葉がきっと実現しないことを、マノリアは知っている。
心残りは、目の前の少女の成長を見届けられないこと。
それでも、マノリアが課せられた役目はここまでということなのだろう。
心残りよりも、役目を全う出来た安堵感の方が強いと言ったら、きっと皆を悲しませてしまうだろうけれど。
関わってきた沢山の人々の顔を思い浮かべ、マノリアは常と変わらない笑みを浮かべた。
「ありがとう」
そっと握られた手にこもる万感の思いに応えたいと、ミランダはマノリアの手を握り返した。
春が来る頃に、花々に囲まれる場所にマノリアは眠ることになった。
その棺には、彼女が手放すことのなかった黒玉のネックレスと、1輪のランタンリリーが刺繍されたハンカチが納められた。
その墓石はマノリアの遺言により、古びた簡素な墓石の隣に立てられた。
「マノリア様。今度こそ、ずっと一緒ですね」
降っていた小雨が上がり、空にうっすらと色のない虹がかかる。
その白い虹を駆け上がっていく娘の後ろ姿を、ミランダはじっと見送る。
満面の笑顔を浮かべ、息を切らして彼女が急ぐ先には、黒髪に緑の瞳、緑色のチュニックを着た長身の男が腕をいっぱいに広げて待っているのが見える。
たどり着いた娘を抱き上げて、男はくるくると踊るように回る。
そんな男にしがみついた娘は、屈託なく笑う。
くるくる、くるくる。
風を含んで膨らむワンピースドレスの色は、オレンジがかった黄色で。
可愛らしい花と、それを守る葉のような組み合わせにミランダは笑顔になる。
見上げるミランダに気づいた娘は、輝くような笑顔で手を振る。
男も振り向くと軽く一礼し、娘と手を取り合って天への階段を上る。
微笑み合う2人の笑顔が、眼の裏に焼き付いたように、消えない。
「マノリア様。どうか、お幸せに」
頬に落ちた雫を、ミランダは静かにぬぐった。




