ネリネは露を含んで煌めく
優しい呼び声に、ゆらゆらと揺蕩っていた意識が浮上する。
何も欠けたものがないような、とても満ち足りた気分で目を開ける。
いるはずのない人が目の前にいて、エオルはまたしても都合の良い夢を見ている自分自身に苦笑した。
「ああ、夢か」
触れたら消えてしまいそうだから、寝具に包まり直してもう一度眠ってしまうことにした。
「エオル様。そろそろ起きてください」
少しばかり不服そうな声音に、ふわりと花のような甘い匂いが香る。
ぼんやりと目を開ければ、唇をとがらせて不満そうに見下ろしてくるミランダがいた。
「リラ?」
ペチペチと頬を手のひらで軽くたたかれて、その感触に一気に意識が覚醒する。
「あっ」
ガバッと勢いよく起き上がったエオルに、顔をのぞき込んでいたミランダは大きくのけぞり、バランスを崩して倒れかける。
それを咄嗟に抱き留めて、エオルはそのままミランダの胸元に顔を埋めた。
「えっちょっ、ちょっと待って、ちょっと待ってください」
ベッドに膝立ちになったままの不安定な姿勢に慌てるミランダに気づかないまま、もがくミランダを強く抱きしめるエオルのいつもと違う様子に、ミランダはふと動きを止めた。
ちょうど撫でやすいぐらいの位置にある微動だにしない頭を、しょうがないなとばかりに、撫で始める。
少し巻きがちな癖のある硬い手触りの髪を梳いてはなでつける指の感触に、少しずつエオルの力が抜けていくのを感じる。
こういうちょっとした仕草が何だか従順な犬のようで、どうしても構いたくなる。
触れ、構え、と押しかけて来たわんこが、撫でられ方に満足して脱力した犬型の敷物に変化していくみたいでちょっと楽しい。
「ふふっ、目が覚めたら当たり前のようにいるのでとてもびっくりしました。エオル様はいつも温かいので、久し振りによく眠れたような気がしますけれど」
特に咎めるでなく、理由を問い詰めるでもなく、心から楽しそうに笑うミランダに、エオルはやっと息がつけたような気がした。
「私は常に火の力を帯びているから、温かいのでしょう」
エオルはほのかな笑みを浮かべ、ミランダを見上げて息をのんだ。
エオルの頭をなでながら、ミランダは涙を浮かべていた。
「……見つかってしまいました」
慌てて体を起こし、ミランダの顔をのぞき込むエオルに、ミランダはいたずらが見つかった子供のように笑おうとし、失敗した。
その様子に、エオルは理由に思い当たりグッと手を握りしめた。
「見たのですか?」
「はい。あまりにもひどくうなされていたので、理由を知りたくて」
「あなたに、見せたいものではなかったのですが」
弱弱しく、少しばかりかすれた声でエオルは呟いた。
そんなエオルの言葉に、ミランダの目にみるみる涙があふれ、頬を伝う。
それを丁寧に指先で拭い去って、エオルは困ったように笑った。
次々にあふれる涙に頬を濡らすままに、ミランダは小さな声でぽつぽつと語り始めた。
「わたしを守るために、父様もエオル様も、皆様がこの館に留まることができるよう尽力いただいていることは良く分かっているつもりです。エオル様が強くありたいと願っているのも、知っています」
ミランダの流した涙がエオルの身に着けているゆったりとしたシャツの袖に沁みていくのを、見つめながらミランダはすねたように唇を尖らせた。
「わたくし、あなたに会いたいのをとってもとっても我慢していましたのに、あんなに切なく呼ばれたら、居ても立っても居られないといいますか……エオル様はずるいです。あんなことがあったのですから、無理もないとは思いますけれど」
ミランダの言葉をじっと聴いていたエオルは、ミランダが口にした内容に、虚を突かれてポカンとした表情になった。
無自覚で自分自身がやらかした事実に、ハクハクと言葉にならない呼吸を繰り返し、必死に言葉を探す。
「私が、リラを呼んだのですか?」
「はい。抑え込んだ力が不安定になり始めていたらしく、お熱があってうなされていましたので、カーティス様に相談してこちらに来ていただきました」
説明するうちに涙が引っ込んだらしいミランダに、エオルは小さく息を吐く。
少しだけばつが悪そうに言葉を探しながら、ミランダの表情を伺ってくるエオルに、ミランダは困ったような笑みを浮かべた。
「リラ、今回はあくまでも観ただけなんですよね?」
「はい。意識の共有などはしていませんから、大丈夫です」
ミランダの回答にもう一度息を吐き、エオルは気持ちを切り替えたようだった。
名残惜しそうに背をひと撫でして離れていく手の温もりに、ほんの少しだけ寂しい気がしながら、自分の足で床の上に立ったエオルを、ベッドに座り込んだままミランダは見上げる。
「まだ事後処理がありますから、私は帰ります」
フッと寂しげに笑ったエオルの表情は少しだけ陰りを帯びて、ミランダにはひどく大人びて見えた。
少し会わない間に更に背が伸びて、まだ少年らしい線の細さを残しているものの、同年代の子供たちに比べて成長の早いミランダよりも背が高いらしい。
どんどん先に行くエオルに、ふと心に焦りが生まれる。
「エオル様、お待ちください」
ミランダは跳ぼうとするエオルを引き留めて、枕元に活けてあった花を一輪手に取り、枯れることのないように保存のための術式を重ねる。
百合のような形の花が沢山ついた、華やかなその花を差し出しながら、いつかの返礼と、ミランダはいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「このお花はダイヤモンドリリーと呼ばれるお花です。わたくしの気持ちです。どうか、毎日眺めて……わたしを思い出して、ください」
ほんのりと頬を染めて言いよどむミランダに、エオルは花を受け取り、心のままに頬にかすめるような口づけを残して転移してしまった。
月明かりにキラキラと輝く薄い青の花弁の花を眺めて、エオルはポツリと呟く。
「本当に、あなたはずるい」
ほのかな花の香りを吸い込んで、大きく息を吐く。
硝子の花瓶に活けられた花を愛おしげに撫でて、エオルは目を伏せる。
「会いたくて会いたくてたまらないなんて、そんなこと、誰にも言えない」
触れる度に感じるミランダの力の気配に、心がチリチリと音を立て続ける。
エオルはじっと、自分自身の手を見つめた。
まだこの手で、成すべきことは山のようにある。
それでも必ず成し遂げられると知っている。
何を措いても会いたい人がいるから。
共に未来を分かち合いたい人がいるから。
だから、どれほど困難でも、厳しい道のりでも、必ず成し遂げられると知っている。
「私は、あなたに誇れる私でいたいから。だから、どんな痛みにも耐え抜いて、必ず掴んでみせると誓うよ。あなたとの、幸福な未来を」
空に輝くうっすらと青を纏う月に、エオルはここにいないミランダを想って目を細めた。
「ごめんね、エオル様。わたし、嘘をつきました」
凍てつくような真冬の月を見上げて、ミランダは小さく呟いた。
本当は、触れた瞬間にエオルの激しい感情に呑まれてしまった。
冷静に、冷徹に事を運ぶ彼の心が、泣き叫んでいる声に、息もできないほど苦しかった。
抑え込まれた激しい感情に、焼き尽くされそうだった。
思い出すと全身が震えそうになる。
だから必死にその熱にありったけの力を注ぎこんで冷やした。
ミランダの未熟な制御能力では、エオルとの深い繋がりを解消することができず、その苦痛の余波でミランダ自身もかなりの痛手を受けた。
そうして不安定になった状態を安定させるために、3日間も眠り続けていたことを、エオルには伝えられなかった。
伝えれば、優しくて責任感の強いエオルのことだ、自分自身のことを責めてしまうのは明らかだったから。
だからミランダは、何も詳しいことを語らなかった。
それに。きっと。
「もう、こんなことは起きないから」
エオルはもう2度と、この程度のことで感情のままに暴走したりなどしないだろうと思う。
エオルは見事に、自分に課せられた試練を乗り越えたのだから。
感情に囚われ、嘆いていても決して物事を良い方向に変えていくことなどできないと、分かっている。
辛くて、大変で、困難に満ちていても。
時には選択を迫られる。
切り捨てるべきものを、適切に切り捨てられるか。
いつだってその覚悟を問われる。
無理矢理奪われるのではなく、守り抜けずに失うのではなく、切り捨てるべきものを切り捨てて、守るべきものを守り抜けるかと。
いつだって、わたしたちはこの世界に試されているのだ。
それでも。
この試練は孤独な戦いではないから。
手を伸ばせば、いくつもの手がこの手を取ろうと、助けとなろうと伸ばされることを知っている。
大切で、温かで、かけがえのない人たち。
言葉少なに、無意識のうちに唇を噛み締めていたカーティスの気づかわしげな表情を思う。
信頼されるからこその厳しさと、時に率直に、時に不器用に示される優しさと。
「大丈夫。わたしたちは、ひとりじゃない。……エオル様、わたくしたちは恵まれていますね」
気に掛け、導いてくれる人たちが沢山いる。
ミランダにはエオルが、エオルにはミランダがいる以上に、沢山の人たちに支えられて生きていることを、ミランダは心の中で大切な人たちのことを指折り数えながら思った。
「わたしたちはきっと、幸せな思い出を沢山重ねていけるね」
失われてしまった命は戻らないし、裏切られ、傷つけられた痛みは消えないけれど。
それでも、今を生きる私たちは。
「立ち止まってなど、いられない」
閉ざされた箱庭の中で、ミランダは静かに人々の平安を願った。




