誰もいない神社
七夕祭りの日以外で天ノ杜神社を訪れるのは初めてだった。祭りの当日は屋台が並ぶ神社へと続く石段の前は、手前の道路を通行人が通り過ぎるだけで、その石段を登る人はいない。
「普段の天ノ杜神社ってこんな感じなんだ……」
凪は一呼吸置いて、石段を登り始める。
凪は石段を上るたび、異様な雰囲気に足が止まる。夕暮れの日の光が、玉垣の向こうの木々の影を作り、石段の半分を闇に染め上げている。祭りの当日は石段の両端には提灯が並び、幻想的にさえ見えていた。今は本当に同じ場所なのかと思う程に違和感を感じる。
母はここへ来た翌日から変わった。灯の病気が治るように願ったことは覚えている。それなのに、もう治ってほしいとは思っていない。何かおかしくなる理由があるなら、ここにしかない。
凪はここへ来た後悔を振り払いながら、一段ずつゆっくりと登っていく。
天ノ杜神社に着いたときには既に日が暮れていた。境内は静まり返り、人で溢れる祭りの日と違い、立ち入るのを躊躇うほどの別の空間であるように感じる。
右手には御神木の巨大な枝垂れ柳が立っている。その垂れ下がる枝は、紐で括られた白い願い札で埋め尽くされている。度々見ていた筈のその姿が、何故だかとても異質なものであるように感じた。
凪は枝の下へ行き、願い札を見た。
試験に受かりますように。赤ちゃんが元気に生まれますように。家族が健康でありますように。どれもありふれた願いだった。
ぎいいぃ……
母の札が近くに無いか探そうとした時、人の気配の無い境内で、何処かで扉が開くような木の軋む重い音が聞こえた。
「……宮司さんがまだ居たのかな、入っていても怒られないよね?」
やけに暗い境内で一人きりであるこの状況が、自分を悪いことをしているように感じさせた。
シャンッ。
何か金属が擦れるような、音がする。
シャンッ。
今日は何か神事でも有ったのだろうか。凪は咄嗟に御神木の裏へと身を隠す。
シャンッ。
しゃら……
ず……
次第に様々な音が聞こえてくる。鈴のような綺麗な音と、何かを引き摺るような音。
凪は何か、立ち会ってはいけない瞬間に遭遇してしまったような緊張感を覚え、更に心臓の鼓動が速くなる。
暫くすると、拝殿の扉が音を立ててひとりでに開く。そこから白装束に顔の無い仮面を付け、錫杖のような杖を持った二人の人が出てきた。
その二人は注連縄をくぐり、少し進んでは杖を突く。
シャンッ。
杖を突くたび、綺麗な音が響く。
凪は見覚えの無い光景に、一体何の儀式だろうと、枝垂れ柳の枝の隙間から魅入っていた。そして見たことを後悔する。
しゃら……
ずず……
二人の後ろから、何か巨大なものが姿を現した。白い布を被せ、上から神具らしき縄や大小の鈴や飾りで装飾された何か。それが扉の向こうから現れ、注連縄を避けるべくその巨大な頭と思われるものが下がり、少しずつ出てくる。
その何かが進むと、出てきた巨体の身体に賽銭箱が飲み込まれていく。
凪は息を呑んだ。
拝殿から出てきたその怪物は、全長が十数メートルはある。獅子舞のような輪郭をした巨体を、幾重もの白い布が覆っている。布には鈴や御幣、黒ずんだ錘が吊られ、進むたびに鈍く揺れ、音が鳴る。
しかしよく見ると、布の隙間から無数の人の手らしきものが生えている。それが動く度に蠢いている。薄汚れた端部の布が、不気味さを増していた。
白装束の二人はその怪物の進む速度に合わせて進んでいるように見える。
それらは進行方向を変え、凪の方に向かってくる。
ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバい……!!!!
凪は驚き御神木に背を当て、自身の口に手を当てる。心臓が張り裂けそうな程鳴り、吐き気が込み上げてくる。音が出ないように深呼吸し、何とか落ち着くよう努めた。
再度様子を伺うと、それらは御神木の前で止まっている。脇の二人は細長い棒を掲げ、空中を掬うように杖を動かす。
シャラシャラという音が辺りに響く。真ん中の怪物が首をもたげるように上げると、御神木に吊るされた願い札がぼんやりと光り、そこから細い光の線が伸びその何かに繋がっていく。
その光の糸が消えるたび、願い札の文字が薄くなっていく。
怪物の布の下で、無数の何かが蠢いた。
隙間から覗く人の腕が蠢き、指が何本も宙を掻く。怪物がもたげた首の隙間から布の中身が垣間見えた。深い闇の中その奥には頬や口、閉じた瞼が重なっていた。人の顔面が現れてはどれもすぐに闇の中へ沈んでいく。
凪の足から力が抜けた。尻餅をついた音に、二つの仮面が同時に凪の方に向く。
巨大な怪物も動きを止める。しゃらしゃらと鳴る鈴の音が消えた。
怪物は頭部らしきものを下げ、ゆっくりと凪の方へ向いた。顔は見えない。それでも見つかったと分かった。
逃げようとしても身体が動かない。膝が震え、立つことすら出来なかった。
すると突然、酷い耳鳴りと共に、頭蓋の内側で声が鳴り響く。
――願いは。
母の顔が浮かんだ。灯の手を握りながら、穏やかに微笑む母。
凪は唇を噛み締め、言葉を搾り出す。
「お母さんに何をしたの」
凪の問い掛けに対する返事はない。
――願いは。
再び頭蓋に鳴り響く爆音に、凪の鼻から血が吹き出す。
病室にいる姉のことが頭に浮かぶ。痩せた頬。浅い呼吸。苦しいはずなのに、凪を安心させるために笑う顔。今日の管に繋がれ、意識の無い姉。
「姉ちゃんを助けて」
声が震えた。
「灯の病気を治して。死なせないで」
御神木の願い札が、一斉に揺れた。白装束の二体が棒を持ち上げると、胸の奥から、何かを引きずり出される感覚がした。
胸の辺りが光り、白い糸が凪から伸びている。痛みはない。
「待って」
糸は白布の隙間へ吸い込まれた。その奥で、無数の口が凪の何かを喰らうように待ち構えていた。
凪の意識はそこで途切れた。




