母の異変
七夕の翌朝から、打って変わって母は穏やかになった。ずっと不安を口にし、夜には事あるごとに涙を流していた母の笑顔を久しぶりに見た。
姉の病室でも、楽しそうに笑いかけて話す様子に、姉と二人して怪訝な表情で、お互いの顔を見合わせていた。
よくもまあ、お参りひとつでこれ程までに変われるものだなと感心する。ここまで効果があるのなら、何かを信仰するというのも悪くは無いのかもしれない、と思っていた。
明らかにおかしいと気付くまでは。
母の異常に気付いたのは、七夕祭りから数日が経った日のことだった。
灯の容体が急変した。
病室へ駆け込むと、灯は酸素マスクをつけられ、点滴の管が繋がれていた。目は閉じたまま、胸だけが浅く上下している。
「昨夜から熱が下がらなくて」
佳代は濡らしたタオルを絞り、灯の額へ載せる。
「先生は?」
「さっき来てくださったわ。薬を変えて、しばらく様子を見るって」
「それだけ?」
「今できることはしてくださってるから」
凪は母の顔を見た。その表情も声も、終始穏やかだった。
今までなら、医師の説明を何度も聞き直し、他に治療はないのかと食い下がっていた。わずかな数値の変化にも怯え、灯の手を握りながら、お願いだから治ってと繰り返していた。
今はただ、汗で張りついた灯の髪を丁寧に撫でている。
「お母さん、平気なの」
「何が?」
「お姉ちゃん、悪くなってるんだよ?」
「分かってるわ」
「先生、何て言ったの」
佳代の手が止まった。
「このまま熱が続けば、体力がもたないかもしれないって」
「それだけ?」
「それだけって?」
「何とかしてくれって言わなかったの」
「先生たちも一生懸命やってくださってるもの」
「この前まで、他の病院にも聞くって言ってたじゃん」
「あの時はそう思っていたわ」
佳代は困ったように笑い、灯の頬を柔らかく拭った。
「今はただ、そばにいてあげたいの」
「治ってほしくないの?」
佳代はしばらく黙り、眠る灯を見つめた。その目には確かに愛情があった。苦しそうな呼吸に合わせて眉を寄せ、ずれた布団を直してやる。
けれど、凪の欲しい言葉は出てこなかった。
「灯が苦しくないようにしてあげたいわ」
「違う」
「何が違うの?」
「治ってほしいか聞いてるの」
佳代は責められた理由が分からないように首を傾げた。
「この子がどんな状態でも、お母さんはずっと大切よ」
「そういう話じゃない」
「落ち着いて。灯が起きちゃうでしょう」
その言い方まで、いつもの母だった。だが、今までとの明確な変化に、母が異常であると確信する。
その不快感に耐えかね、凪は病室を飛び出した。病院の待合所のベンチに座り、スマートフォンを取り出す。検索欄へ母の症状らしきものを打ち込み、検索しては消した。だが、それらしい病気は何も見つからない。そもそも母は至って元気だ。病気とも、疲労とも思えなかった。
凪は暫くの間、ベンチの上で膝を抱え込み、額を膝に当てたまま動かなかった。
母が変わったのは、いつからだ。
七夕祭りの時、母は神社へ行き、願い札を書いて御神木へ結んだと聞いた。帰ってきた時には、久しぶりによく眠れそうだと笑っていた。その翌日から、急に明るくなった。
「凪!どこに行ったのかと思って探したじゃない」
少しだけ顔を上げて見ると、心配そうな表情をした佳代がいる。
「凪、お家に帰りましょう。お昼は何か食べる?」
そう言う佳代の様子は、やはり普段と変わらない。凪は何事も無かったかのように立ち上がり、佳代に付いて歩く。
「いらない」
「そう。無理しないでね」
凪は自分の心臓の鼓動を感じる程緊張し、声が震えているのを感じた。
「この前、神社で何したの」
「あれ、話さなかった?お願いしてきたのよ、灯の病気が治りますようにって」
「覚えてるんだ」
「もちろん」
「今もそう思ってる?」
佳代は答えず、凪の頬に触れた。
「行ってよかったわ」
「何で?」
「あそこへ行ったら、気持ちがすっと軽くなったの。神様が受け止めてくださったのね」
「何も変わってない」
「ええ」
佳代は微笑んだ。
「でも、ありがたいでしょう?」
凪は反射的に一歩下がった。
佳代は不思議そうな顔をしたあと、また前へ向き直った。冷たくなったわけではない。現に病室では、灯の手を両手で包み、爪の色を確かめ、額の濡れタオルの温度を見ては取り替えていた。
「帰り、スーパーに寄って良い?起きたら桃を食べさせてあげようと思って。灯、昔から桃が好きだったでしょう?」
「そうだね」
灯の昔のことも、どれも覚えている。何も忘れていない。それなのに、灯が明日も生きていることを求めていないように見える。
病院からの帰り道、佳代は静かに呟いた。
「天ノ杜様には、本当に感謝しないとね」
母は、昔から天ノ杜神社にここまで心酔していただろうか?
確かめるしかない。
凪はポケットの中で、スマートフォンを握りしめた。




