七夕の願い
窓の外から、街が賑わう音が聞こえる。今年は年に一度の七夕。この日の七夕祭りと呼ばれる一大イベントによって、街は活気に満ちていた。
「今年も見事に雨、外れたね」
姉の水瀬 灯は病室のベッドの上から窓を眺めた。雲の切れ間に薄い夕空が見え、その下を家族連れが歩いている。
「雨じゃない方が外れでしょ。この時期なんだから」
「凪は情緒がないなあ。七夕だよ?」
「病院から天の川なんて見えないし」
「そういうこと言うから願いが叶わないんだよ」
灯が笑う。頬は痩せ、以前より声も弱い。それでも妹をからかう時だけは、入院前と変わらなかった。
母の佳代は小さなテーブルの上で果物を切りながら、何度も灯の顔を窺っていた。
「苦しくない? 先生を呼ばなくて平気?」
「平気だって。さっきも聞いたよ」
「でも、昨日より顔色が悪いような」
「お母さんの顔色の方が悪いよ」
灯に言われ、佳代は無理に笑った。
窓の外から祭囃子が聞こえる。駅前から神社まで露店が並び、夕方になって人の流れはますます増えていた。病院の廊下でも、願い札を手にした見舞客と何度もすれ違った。
「そろそろ行ってくるね」
佳代は鞄を持ち、灯の布団を整えた。
「凪、本当に一緒に行かなくていいの?」
「姉ちゃんを一人にできないでしょ」
「一人じゃないよ。看護師さんもいるし」
「人混み嫌いだし、神頼みも柄じゃない」
凪の無愛想な言葉に灯は笑ったが、佳代は笑わなかった。
「今日は特別なの。天ノ杜様は、七夕の願いを聞いてくださるから」
信心深い母のその目に、冗談らしさは無かった。
数日前、担当医から新しい説明を受けた。治療の効果が見られないこと。投薬する薬を変更すること。今後は急に容体が変わる可能性があること。
佳代はそれ以来、眠れていない。
「ちゃんと神様にお願いしてくるからね」
灯の手を握り、佳代は言った。
「必ず、灯が元気になりますようにって」
「ありがとう、お母さん」
「大丈夫。きっと聞いてくださるから」
灯は困ったように目を伏せた。
「無理しないでね」
「何が?」
「ううん。行ってらっしゃい」
佳代は病室を出た。
凪は窓から、母が人の流れに加わるのを見送った。夕暮れの道を揺れながら、皆同じ方向へ進んでいく。
「凪も何か願えば?」
「願って治るなら、医者は必要無いよ」
「可愛くないなあ」
「お姉ちゃんは?」
灯は窓の外を見たまま言う。
「お母さんが、ちゃんと眠れますように」
その少しの諦めを含んだ横顔を見て、凪は何も言えなかった。
天ノ杜神社へ続く参道は、肩が触れ合うほど混み合っていた。
佳代は境内で願い札を受け取り、隅に置かれた机へ向かった。周囲では子供が試験の合格を、若い男女が恋を、年配の夫婦が家族の健康を書いている。
佳代は震える手で筆を持った。
灯の病気が治りますように。どうか、娘を助けてください。
一度書いてから、それでも足りない気がして、札の余白へ何度も同じ言葉を書き足した。
境内の奥には、巨大な枝垂れ柳が立っている。樹齢の分からない程の立派な木。御神木と呼ばれるだけの風格がある。その垂れた枝という枝に白い願い札が結ばれ、風が吹くたび、幾千もの紙が一斉に擦れ合う。
佳代は空いた枝を探し、札を強く結びつけた。
「お願いします」
手を合わせ、額が触れそうなほど深く頭を下げる。
「何でもします。あの子を助けてください」
ざわめきの中で、柳の葉だけが逆向きに揺れた。
その頃、病室にいた凪は、不意に窓の外を振り返った。
夕暮れの街の向こう、神社のある森だけが黒く沈んで見えた。何かに見られたような気がして、背筋に冷たいものが走る。
「どうしたの?」
「……別に」
凪がカーテンを閉めると、遠くの祭囃子が少し小さくなった気がした。




