プロローグ
二十九歳の誕生日の三日前、医者は目を合わせようとしなかった。
病名はいやに長ったらしくて、何回聞いても頭に入ってこない。
まぁ、要するに神経が少しずつ壊れていく病気だった。
最初に指先が言うことを聞かなくなり、次に箸が持てなくなって、最後には息の吸い方も忘れてしまう。
治し方は誰も知らない。
「もって後三年、といったところだと思います」
そこでようやく医者がこちらを見た。
「はあ」
ほかに返す言葉が浮かばなかった。
三年。最後の一年は寝たきりの可能性が高いらしいので、実質二年。
仕事、どうすっかなー。すでに指先は動かなくなってきており、改善の見込みがないとの事なので、職場に迷惑を掛けない為にも辞めるしかないだろう。
別に好きなことを仕事に出来たわけではなく。選択肢の中で一番給料がいいからと選んだ職場ではあったが、せっかく色々任せて貰えるようになり、仕事の楽しさとはこういうことなのかとわかって来た時分ではあったので少し残念に思う。
初年度のゴールデンウィーク明けなんてあれ程辞めたかったのに、妙な感慨深さがある。
「……無職かー」
その時は自分の命の残り時間より、これからは仕事に行かなくてもいいんだ。という妙な寂しさと解放感の方が気になった。
つい先ほど病院で余命宣告を受けた星明は、家に帰る前に辞めていた紙タバコをコンビニで買い、喫煙エリアで5年ぶりのニコチンを接種する。
「ーーーーっぐ、ごほっ、ごほっ」
美味しくない。
美味しくないのだけども、どうせ後三年の命なのだから吸っとかないと損じゃないか、というよくわからん理屈が働いた。
家に帰り、妹のヒカリは、説明が終わるまで一言も口をきかなかった。
聞き終えてから湯呑みを両手で持ったまま十秒ほど黙り、テーブルに戻して、お土産に買ってきたコンビニの大盛プリンを一息でかっ込み、涙を流した。
どんな情緒? とアキラは突っ込みたかったが黙っていた。
「だけど絶対死ぬって決まった訳じゃない。コールドスリープっていうのがあるんだってよ」
出来るだけ明るい声を心掛けて、切り出す。
原理は身も蓋もない。人間をそのまま凍らせると、細胞の中の水が氷になって内側から膨らみ、全部破裂する。だから先に体の水を抜く。抜いた分だけ凍らない液体を流し込んで、それから温度を落とす。要するに人間を氷のお漬物にする技術だった。
「治療法ができたら起こしてもらえて、それまでは俺の時間が止まって、もちろん病気も進行しないってわけ」
「……それ、起きるの何年後?」
そこが問題だ。
三年で治療法ができる確率はほぼゼロだ。三十年でも怪しい。なので死なない為にはコールドスリープに一縷の望みをかけるしかないのだが、
アキラが目を覚ます頃には、ヒカリはもうこの世にいない可能性すらある。
「さあ? 俺にもわからん。起きたらヒカリがおばあちゃんになっていたなんて事も全然あり得る」
「浦島太郎じゃん」
「あー、確かにそうだな。まぁ俺は玉手箱があっても絶対に開けないけどな」
「なんでよ、妹がおばあちゃんになってるんだから兄貴もおじいちゃんになりなさいよ」
「アホ。浦島太郎は死ぬほど竜宮城でいい思いしただろうけど、俺が玉手箱開けたら、ただただ一瞬で年を取っただけじゃねぇか」
死が確定ではないと伝え、軽くふざけ合うと妹の顔に少し笑顔が戻った。
なんだかんだこいつは芯がしっかりしてるから、俺がいなくとも楽しく暮らすだろう。
装置に入る日、ヒカリは病院の廊下でずっとアキラの袖を掴んでいた。
「待ってるから」
「いい、いい。そんな気負うな。それより早く結婚して沢山子供作って、起きたときの俺の面倒見てくれるように言い伝えてくれ。お兄ちゃんはお前が結婚できるかどうかだけが心配だよ」
「早く寝ろバカ兄貴!」
蓋が閉まる直前に見えたのは、笑おうとして失敗した妹の顔だった。
◇
ーーーー痛みで目が覚めた。
体の内側を細い針で全部縫われている。指先から肩、背中、後頭部と順番に痛みが走って消えて、また走る。
息を吸おうとしたら、喉が鳴っただけだった。
目を開ける。
暗い。天井が高くて金属の梁が奥まで並び、隙間に赤い光がぽつぽつ灯っている。病院ではない。倉庫だ。何十年も掃除していない場所特有の埃くさい匂いがした。
体が動かない。指だけがかろうじて震えた。
どこだここ? 俺は何年寝ていた? 妹は生きている?
思考だけがぐるぐると回りだす。
視界の右端で何かが動き近づいてくる。
覗き込まれている。銀色の髪が肩から垂れて、頬に触れそうになっていた。
整った顔だ。整いすぎているという方が近い。左右がぴったり同じで、輪郭に一本の揺らぎもない。
目は薄い紫で、光の角度によっては薄紅にも見える。よく見ると瞳の奥に細かい光の粒が沈んでいて、それがときどき、ゆっくりと動いていた。
正直に言うとめちゃくちゃ好みだ。
そのドタイプの顔がまばたきをした。
一秒後にもう一度。次も一秒後。その次も。あまりに正確に、一秒ごとに。
「おはようございます」
抑揚のない、澄んだ綺麗な声だった。
顔が綺麗な人は声も綺麗のようだ。
「突然で申し訳ありませんが、貴方には私に乗ってこの星域から脱出してもらいます」
「……へぁ?」
まるっきり寝起きの、なんとも情けない声が出た。




