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翌朝、教室へ入ると何人かの生徒がこちらを見た。
昨日の中庭のことだろうか。王太子と少し話したくらいで噂になるなら、この学園では迂闊にくしゃみもできない。
私は空いている席を見つけ、教科書を机に置いた。後ろの方からひそひそと声が聞こえる。
「エルヴァン男爵家の……」
「平民だったって本当?」
「昨日、殿下と……」
聞こえてるよ。
振り返ろうとして、やめた。こちらを見ながら何を話すのかもう少し聞いておいてもいい。それに昨日アルフレッドと偶然ぶつかったことを自分から説明して回るのもおかしいしね。
私は教科書を開き、今日の授業の予定を確かめた。
「ここ、座ってもいいかしら」
顔を上げると、栗色の髪を肩の辺りで揃えた少女が立っていた。私は隣の椅子を示す。
「どうぞ」
「私はエマ・ファーレン。よろしくね」
「リリア・エルヴァンです。よろしくお願いします」
「知ってるわ。昨日からあなたの話を聞くもの」
早速それを言うのか。私は困ったように笑っておいた。
「悪い話でなければいいのですが」
「半分くらいは、みんな気になっているだけよ」
残り半分は?
聞いてみたかったが、ちょうど教師が教室へ入ってきた。エマも前を向き、授業が始まる。
内容のいくつかは男爵邸で習ったものと重なっていた。教師に当てられても答えられたので、苦労して詰め込んだ知識は無駄ではなかったらしい。ただ、初日から目立ちたくはないので分かる問題すべてに手を挙げるのはやめておいた。
休み時間になると、エマが再びこちらを向いた。
「昨日、殿下にお会いしたんでしょう?」
「道に迷って角でぶつかってしまったんです」
「殿下にはレティシア様がおられるから」
忠告のつもりらしい。エマは私を見ていたが、その目に敵意はなかった。
「ええ。昨日お会いしました。とても綺麗な方ですね」
「……綺麗なのは本当よ」
エマは小さく頷き、声を落とした。
「それに、よく見ていらっしゃるの。誰が何を言ったか、あとから忘れた頃に聞かれることもあるわ」
なるほど。随分親切に教えてくれるじゃない。私の返事をレティシアへ伝える役でも頼まれているのかと思ったけれど、今のところそういう感じでもなさそうだ。
「教えてくれてありがとう。気をつけます」
「……うん」
エマはそれ以上、昨日のことを聞かなかった。
授業が終わると、今度は二人で次の教室を探した。途中で同じ方向へ向かう新入生についていったところ、その子も道を間違えていて、三人揃って引き返す羽目になる。
「誰も分かっていなかったのね」
エマが笑う。私も笑った。
今日は、道に迷うふりをする必要がなさそうだ。
午後の授業を終えてから、私は一人で学園の敷地を歩いた。東棟と西棟、図書館、講堂、それから馬場。人が多い時間と少ない時間も、歩いてみると何となく分かる。
案内図の前で足を止め、旧校舎の位置を確かめた。
三日後、アルフレッドがその裏手で怪我をした一年生を助ける。原作ではその場に居合わせたヒロインが手当てを手伝い、二人で少年を医務室へ運ぶはずだった。
問題は、何時に起きるのか分からないことだ。
ゲームでは「旧校舎の裏」としか出てこなかった。時間まで表示されていれば、余計に待たずに済んだのに。昨日だって王太子が中庭へ来るのかどうか途中で少し不安になった。
私は案内図の上で旧校舎へ続く道を目で追った。先に下見をしておくべきだろう。今度も道に迷って偶然通りかかったことにするのはさすがに不自然だ。
「ごきげんよう、リリア様」
背後から声がして振り返る。
レティシアが立っていた。昨日と同じように紫色の髪をきっちりとまとめ、今日は二人の令嬢を伴っている。
私は案内図から離れ、すぐに頭を下げた。
「ごきげんよう、レティシア様」
相手は公爵令嬢で、私は男爵令嬢だ。挨拶されるのを待っている場合ではない。
レティシアは私を見て穏やかに微笑んだ。
「学園の中をご覧になっていたの?」
「はい。今朝は次の教室を探すのに少し迷いましたので、場所を覚えておこうと思って」
「最初のうちは広く感じるわよね」
声も笑顔も昨日と変わらない。横にいる令嬢たちもにこやかだ。ただ、三人分の視線を受けていると、こちらの服や髪まで確かめられている気がした。
「昨日は殿下とお話しされていたわね」
来た。私は何でもないことのように答えた。
「はい。回廊の角でぶつかって書類を落としてしまったんです。殿下が拾うのを手伝ってくださいました」
「そうだったの。お怪我はなかった?」
「ええ。少し驚いただけで済みました」
レティシアが私の顔を見つめる。何を考えているのか、笑顔からは分からない。
「殿下はお優しい方でしょう」
「はい。ご親切にしていただきました」
昨日の会話をことさら特別なものにはしなかった。アルフレッドに名前を覚えてもらえたのは嬉しいが、ここでそれを誇るほど馬鹿ではない。
レティシアは小さく頷いた。
「まだ慣れないことも多いと思うわ。困った時は教師や近くの生徒を頼ってね」
「ありがとうございます。そうします」
実に親切な言葉だった。
王太子を頼るな、とも聞こえるけれど。
まあこちらは彼女の婚約者と入学初日から二人で話していたのだ。レティシアが気にならない方がおかしい。私はもう一度礼をして、レティシアたちと別れた。去り際まで笑顔を崩さなかったところが少し面白い。
あの女は私が何をするつもりかまだ知らない。ただ平民上がりの男爵令嬢が婚約者と話していたから様子を見に来たのだろう。
私も彼女のことはまだ知らない。ゲームの悪役令嬢という役割だけで中身を決めつけたら、足を掬われそうだ。
最初は黙って見ろ。ジェイの言葉を思い出しながら私はもう一度案内図へ目を戻した。
*
三日後、昼の授業を終えた私は旧校舎へ向かった。
授業に使われていない建物だけあって、人通りが少ない。庭には古い彫像と手入れの行き届かない生垣があり、風が吹くたびに枝が擦れ合って音を立てていた。
裏手へ回り、周囲を見渡す。壁に沿って細い道が延び、その先には物置らしい小屋があった。
ここで怪我をするのか。
ゲームには「旧校舎の裏」としか出てこなかった。石段で足を滑らせるのか、物置で何かを倒すのか。少年の顔も、怪我の詳しい経緯も覚えていない。
先に見つけて声をかけてしまえば、事故が起きなくなるかもしれない。私は小屋から少し離れ、回廊と裏手の両方が見える場所を選んだ。怪我をした少年と、それを助けに来た王太子。必要なのは、二人が揃ったところへ居合わせることだ。
小屋の方で鈍い音がした。何かが倒れ、続いて短い悲鳴が上がる。私は一拍置いてから、音のした方へ走った。
小屋の脇で制服姿の少年が座り込んでいる。そばには木箱が転がり、少年は片脚を抱えたまま顔をしかめていた。
「大丈夫ですか!?」
しゃがんで尋ねると、少年は唇を噛みながら頷いた。
「足を捻っただけ、です」
「立てます?」
「たぶん……」
立ち上がろうとした途端に顔色が変わる。
たぶん駄目だね、これは。見える範囲に血はない。頭を打った様子もなさそうだ。私は少年がまた木箱へぶつからないよう、それを足で脇へ寄せた。
「無理しないで。人を呼んでくるから」
その時、背後から足音がした。
「何があった?」
振り返ると、アルフレッドが立っていた。本当に来た。
「木箱のそばで転んだようです。足を痛めていて立てません」
「そうか」
彼は少年の前にしゃがむ。少年は王太子だと気づいたのか、慌てて頭を下げようとした。
「そのままでいい。痛むのは足首?」
「は、はい」
アルフレッドが差し伸べかけた手を止めた。どうやら無理に立たせない方がいいと判断したらしい。
「先生を呼ぼう」
「私が医務室へ行ってきます。殿下はこの子といていただけますか」
「分かった。頼むよ」
私は頷いて走り出した。
角を曲がったところで、あれ、と思う。
原作では二人で少年を医務室へ運んだはずだ。私が先生を呼びに行ったら、アルフレッドと話す時間がほとんどなくなる。せっかくこのために来たのに、自分から離れてどうするのよ。
足が少し緩んだ。
戻って一緒に待つ?でも、もう呼びに行くと言ってしまった。少年の足も痛そうだ。王太子と話したいから先生を呼ばないというのはさすがにもうむりだ。
私は舌打ちしながら医務室へ急いだ。
教師を連れて戻ると、アルフレッドは少年の隣に座って話をしていた。私が離れた時には泣き出しそうだった少年が、今は彼の質問に答えている。こちらに気づいたアルフレッドは立ち上がり、教師を少年のところへ案内した。
教師が足を診ている間も、アルフレッドは少年に話しかけていた。何をしようとして木箱を動かしたのか、友人と待ち合わせていたのか。少年は一つずつ答えるうちに、痛みばかりを気にしなくなったらしい。
アルフレッドが話しかけるうちに、さっきまで震えていた少年の声が少しずつ落ち着いていく。相手を安心させるのが上手い。ゲームの中でも優しい王太子だったけれど、画面越しに見るのとこうして目の前で見るのとでは少し違った。少年はいつの間にか泣きそうな顔をやめ、聞かれたことに一つずつ答えている。
実に丁寧な対応である。王太子ならもっと偉そうでもおかしくないのに。
ふと、ジェイだったら、と思った。
少年が泣いているかどうかなんて気にしないだろう。辺りを見て危険がないと分かれば、さっさと担いで医務室へ向かう。「男なら泣いてんじゃねぇよ」とでも言って、少年が暴れても下ろしはしない。そして医者に引き渡したらそれで終わりだ。
あいつは昔からそうだった。他人に対して、興味も共感も薄い。怪我をした仲間をゲラゲラ笑いながら引きずって、闇医者のところへ連れていく姿を何度も見た。途中で痛いと騒がれれば余計に笑っていた気がする。
まあ、あの世界ではジェイみたいな奴は珍しくもない。怪我人を見捨てる奴も、弱ったのをいいことに痛めつける奴もいる。それを考えれば、ちゃんと闇医者まで運ぶジェイはむしろいい方である。
教師に支えられ、少年が医務室へ向かう。私たちも途中までついていった。別れ際、少年は私へも「ありがとうございました」と頭を下げた。
「早く治るといいですね」
私がそう言うと、彼は照れたように笑って去っていった。
アルフレッドと二人きりになったのはそれからだった。
「君が先に見つけたんだね」
「はい。物音が聞こえて」
「先生を呼びに行ってくれてありがとう。君が戻るまで、彼はずっと気にしていたよ」
「そうですか?」
「自分のせいで君を走らせてしまった、ってね」
怪我をしたのに、妙なところを気にする少年だ。
「そんなの、気にしなくていいのに」
つい普通の調子で答えてしまった。王太子相手には少し気安かったかもしれない。けれどアルフレッドは咎めず、同じことを言ったのだと笑った。
「殿下がそばにいてくださったのであの子も安心したと思います」
「そうだったならよかった」
彼は嬉しそうにするより先に、ほっとした顔をした。
原作のアルフレッドなら、こう言えば喜ぶだろうとは思っていた。でも今の言葉は彼の顔色を見て選んだわけではない。少年が少しずつ落ち着いていくのを私も見ていたからだ。
「そういえばこの前も今日も偶然会ったね」
「そうですね」
その言い方が少し引っかかった。疑われているのだろうか。それともただ面白がっているだけ?
私は一度だけ目を伏せ、すぐに顔を上げた。
「今日は道に迷っていませんよ」
「そうなの?」
アルフレッドが声を上げて笑った。
「旧校舎を見てみたくて来たんです。でも、一人で来るには少し静かすぎました」
「確かに、普段はほとんど人が来ないからね」
少なくとも、今のところ追及する気はなさそうだ。
アルフレッドは旧校舎の方へ視線を向ける。
「建物を見に来たのなら、正面の回廊に古い壁画があるよ。案内しようか」
「よろしいのですか?」
「教師のところへ戻るまで、少し時間があるから」
私は一瞬迷った。
この先にゲームのイベントはない。二人で歩いているところを誰かに見られればレティシアの耳にも入るだろう。
けれど、ここで断る理由もなかった。
「では、お願いします」
アルフレッドが歩き出し、私はその隣についた。
レティシアは、私たちが昨日ぶつかったことを知っている。そして今日は旧校舎の裏でまた偶然会った。
もし私が彼女なら二度目は偶然だと思わない。
さて、次に会う時にどんな顔をされるだろう。




