ヒロインは私である
5
春が来た。
前世の記憶は乙女ゲームに関すること以外、色褪せてとうに思い出せなくなっていた。自分が前世どこで生まれどんな家で暮らしていたのかも今ではひどく曖昧なのに、ゲームの内容だけは昨日のことのようにはっきり覚えている。不思議なものだ。王立学園へ向かう馬車の窓から巨大な校門が見えた時、胸の奥が微かに浮き立った。何度も画面の向こうで見た景色だった。
ここから物語が始まる。
本来なら平民として育った男爵令嬢リリアが王太子と出会い、攻略対象たちと親しくなり、その婚約者である悪役令嬢に睨まれながらも困難を乗り越え、最後には愛する男と結ばれる。
けれど、本物のリリアはもういない。
あの女は原作が始まるより前に私に首を刺され、誰にも真実を知られないままこの世界から退場した。今、この馬車に乗っているのは彼女の名前と家と未来を奪った私だ。
馬車が止まり外から扉が開けられる。私は差し出された従者の手を取って地面へ降りると、もう一度高い校門を見上げた。
さて。
どんな顔をして会いに行こうか、王太子様。
正門をくぐった先には、何度も何度も画面の向こうで見た光景がそのまま広がっていた。左右には白い校舎がそびえ、中央の噴水が陽の光を弾きながら澄んだ水を噴き上げている。リリアの最後の血飛沫もこんな感じで噴き出していたなーなんて、そんなことを考えながら周囲を見渡す。奥へ続く並木道は桜の花びらで埋め尽くされ、等間隔に置かれたベンチでは生徒たちが楽しそうに談笑している。
なんというか、ゲームの開始画面そのままだ。前世では指先一つで攻略対象を選んでいた場所に、今は自分の足で立っている。なーんか変な感じだなぁ。
新入生、在校生、使用人、それから次々に到着する馬車。新学期を迎えた学園はひどく賑わっていて、貴族の子供たちはどいつもこいつも小綺麗だった。
そして当然のことながら彼もそこにいた。
人混みの向こうに、ひときわ目を引く一団がある。数人の生徒と談笑しながら校舎へ向かう少年は周りと同じ制服を着ているはずなのに、なぜか一人だけ違って見えた。柔らかな亜麻色の髪に翠の瞳。背が高く、誰かに話しかけられるたび穏やかに笑っている。
王太子、アルフレッド。ゲームのメイン攻略対象その人である。
画面で見た時も整った顔だと思っていたが、実物はそれ以上だった。立ち絵では分からなかった身のこなしや周囲へ向ける視線まで含めると、いかにも人から好かれそうな男だ。へえー、少し得した気分。
ただ、そのまま見つめているわけにはいかない。周りの生徒たちも彼を見てはいるがすぐに目を逸らして道を空けている。私もそれに倣って視線をずらした。
すると彼の隣を歩く少女が目に入った。
淡い紫色の髪をきっちりとまとめ、背筋を伸ばして歩いている。アルフレッドと話す時には微笑むが、だからといって彼の後ろへ下がることはない。並んで歩くのが当然だという顔をしていた。
公爵令嬢、レティシア・ローゼンベルク。アルフレッドの婚約者であり、原作における悪役令嬢。
綺麗。
それが最初の感想だった。ゲームの立ち絵でも美人だったけれど、実物はもっと圧がある。顔立ちだけではない。生まれた時から大事に育てられ、自分の立つ場所を疑ったことがない人間の空気だ。彼女が何か言う前に周りの生徒が道を空け、話しかける者は姿勢を正す。
ああ、強い女だな。あれは。
一目で分かった。今まで私が相手にしてきた女たちとは違う。私が路地裏で何かを命じていた時、従う子たちは私の機嫌とジェイの顔色を見ていた。レティシアの周りにいる者たちはそんなものを確かめる必要すらないらしい。彼女が上にいることが、最初から決まっている。
なるほど。原作のリリアはあれと真正面からやり合ったわけね。結構やるじゃん。最終的には彼女を処刑台送りにして王太子まで手に入れるのだから、完全勝利と言っていいだろう。尊敬に値する。
私は何食わぬ顔で二人から目を離した。
まだ近づかない。
ジェイに言われた。最初は黙って見ろ、と。誰が誰に頭を下げるのか。誰と誰が親しいのか。誰の言葉に力があるのか。まずはそれを知らないと、踏んでいい場所と悪い場所の区別もつかない。
レティシアにはこの学園で育ててきた人間関係がある。公爵家の名も、婚約者という立場も、私とは比べものにならない教養もある。今ここで彼女へ喧嘩を売ったところで、こちらが潰されて終わりだ。
けれど、私にも彼女が持っていない札がある。
三日後、アルフレッドが旧校舎の裏で怪我をした一年生を助けること。一ヶ月後、王家主催の茶会で第二王子と揉めること。
そして今日、入学式のあとに一人で東棟の中庭を通ること。
そこでヒロインと王太子の最初のイベントが起きる。道に迷ったリリアが彼とぶつかり、抱えていた入学書類を落とす。王太子は一緒に紙を拾い「見ない顔だね」と笑いかける。
たったそれだけの出来事だ。
けれど前世で見た攻略画面では、確かにあそこで好感度が上がった。何度やり直しても必ず起こる、最初の出会い。
本物のリリアがいなくなった今も同じことが起きるのかは分からない。顔が違えば話しかけられもしないかもしれない。ただ、それを確かめる価値はある。
私は小さく笑った。
事故みたいな顔をしてぶつかればいいのね。簡単じゃん。
スラムで小さい子が最初に覚える仕事は、よそ見をしたふりでカモにぶつかることだった。相手が足を止めて怒鳴っている間に別の子が懐へ手を入れる。私も昔は何度もやった。
今回は財布を抜くわけじゃない。少し注意を向けてもらえれば、それで十分だ。
*
入学式が終わると、新入生たちは案内役の生徒について教室へ向かい始めた。私はその流れに混じってしばらく歩き、途中の分かれ道でそっと列を外れた。
王太子と会うために待ち構えていたと思われるのは困る。目的地を知らない娘らしく一度立ち止まって校舎を見上げ、迷ったような顔をしてから東棟へ向かった。
もっとも、道順は式の前に調べてある。足取りまで迷っていては間に合わない。
石造りの回廊を抜けると、小さな庭に出た。低い花壇を囲むように通路が曲がり奥の建物へ続いている。ここだ。画面の背景に映っていた噴水は見当たらないが、壁の形と窓の位置には見覚えがあった。
しかし誰もいない。王太子どころか、人っ子一人通らなかった。
本当に来るのか?
ゲームでは時刻なんて表示されなかった。式のあとと言ってもすぐなのか、教室へ顔を出してからなのかは分からない。私が来るのが遅すぎた可能性もある。
こういうところが困るよね、ほんとに。原作知識は便利だけれど、現実になった途端に穴だらけだ。ゲームなら選択肢を選べば次の場面へ進む。ここでは自分で待たなければならない。
私は花壇に咲いた花を眺めるふりをした。背を向けた回廊から人が来れば、足音で分かる。手には入学書類を数枚持っていた。万一ぶつかる角度を間違えてもこれだけあれば派手に散らばるだろう。
しばらくして、足音が聞こえた。
一人分。速すぎず遅すぎない、規則正しい足音が近づいてくる。花壇へ目を向けたまま耳を澄ませると、その足音は回廊の角を曲がろうとしていた。
今だ。
私は紙束を握る手を少し緩め、ちょうど相手の前を横切るように歩き出した。
どん、と肩が当たった。
「あっ」
書類が手から離れ、白い紙が床へ散らばる。よし、派手に落ちた。我ながら上手い。
「すまない。大丈夫?」
声は予想していたより近かった。顔を上げるより先に、少年が紙を拾おうとしゃがむ。視界に亜麻色の髪が入った。
「い、いえ!こちらこそ、前を見ていなくて……!」
私も慌てて膝を折る。
確か原作では、ここで同じ紙へ手を伸ばし指先が触れるはずだった。右側に落ちた紙へ手を伸ばす。王太子の手も近づいてきて――そのまま別の一枚を拾った。
あれ?
もう一枚。今度は向かい側の紙へ手を伸ばしたが、彼は先に手元の書類を揃えていた。
原作だとここで触れた気がするんだけど。細部を覚え違えた?それとも、やっぱり偽物だから駄目なのかな。
「これで全部かな」
考えている間に王太子は拾った紙を差し出してきた。私は慌てて受け取る。
「あ……はい。ありがとうございます」
顔を上げると、澄んだ翠色の瞳と目が合った。
画面越しに何度も見た色だった。けれど、こちらを見返す視線にはちゃんと重さがある。当たり前だが、ただ絵が動いているわけではない。私が今話しているのはここで生きている人間だ。
彼は少し目を細めた。
「見ない顔だね」
来た。内心ちょっと感動した。本当に言った!指は触れなかったけれど、台詞は同じ。ひとまずイベント発生と思っていいだろう。
「今年入学しました。リリア・エルヴァンと申します」
「エルヴァン男爵の?」
「はい」
王太子の表情が少し変わった。驚きというほどではない。知っている名前を確かめるような顔だった。
「確か、最近男爵家に迎えられた娘がいると聞いたけど」
情報が早い。まあ王太子なんだから貴族の動きくらい把握しているか。
「はい。去年までは母と平民として暮らしていたので……まだ慣れないことばかりで」
少し視線を伏せ、困ったように笑う。
可哀想すぎず、媚びすぎない。助けてほしそうに見せながら、助けてとは言わない。相手が自分から優しくしたくなるくらいがちょうどいい。
カモは大体これで騙せる。
「そうだったのか」
声が柔らかくなった。よし。
「僕はアルフレッド。この国の王太子だ」
知ってるよ。それこそ前世から。
「…………えっ」
一拍置いて息を呑み、目を見開く。それから書類を胸に抱えたまま一歩下がり、慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ありません! 殿下と知らず、失礼な態度を……」
「いいよ。そんなに畏まらなくても」
顔を上げると、アルフレッドは笑っていた。原作でもそうだった。自分を王太子と知らずに普通に接するヒロインが新鮮で、彼は興味を持つ。
とはいえ、アルフレッドのことを知らないまま貴族の学園へ来る娘が本当にいるかは疑問だ。私が今やっているのも、よく考えれば無理のある芝居かもしれない。
でも、男爵家に来たばかりの元平民という事情がある。知らなかったことにしても、多少は許されるはずだ。
「ですが……」
「学園では同じ生徒だ。少しくらい気楽にしてくれた方が僕も嬉しい」
「……分かりました」
私は少し逡巡するふりをして、控えめに笑った。
「では……アルフレッド様」
「えっ」
「あ、すみません。馴れ馴れしすぎましたか?私、貴族の方との距離感がまだよく分からなくて……」
謝りながら彼の顔を窺う。アルフレッドは虚を突かれたように目を見開いたあと、なぜか嬉しそうに笑った。
「いや、それでいいよ。むしろその方がいい」
うん。悪くないね。
王太子が誰にでもこのくらい優しい可能性はあるけれど、少なくとも私と話すのを嫌がってはいない。初回としては十分だろう。
そう思ったところで、回廊の向こうから女の声がした。
「殿下?」
アルフレッドが振り返る。声の主を見て、私は内心で眉を寄せた。
先ほど彼の隣を歩いていた紫髪の少女。レティシアだった。おかしい。原作のこの場面に彼女はいなかったはずだ。
いや、ゲームと現実は違う。画面に映らなかった時間もこの人たちは生きている。王太子が一人になったあと、婚約者が彼を捜しに来たって何もおかしくない。
レティシアは足を止めずにこちらへ歩いてきた。急ぐ様子はない。私たちの前へ着く頃にはもう、いつもの穏やかな笑顔を浮かべていた。
「こちらにいらしたのですね」
まずアルフレッドへ微笑み、それから私を見る。
一瞬だった。本当に一瞬で、服、髪、靴、顔まで見られた気がした。私がスラムで初対面の相手を値踏みする時とよく似ている。ミラに何度も直された私より、ずっと上手だった。
「そちらは?」
「リリア・エルヴァン嬢。今年の新入生だそうだ。道に迷ったところで会ってね」
「まあ」
レティシアは私へ向き直った。完璧な笑顔だった。
「初めまして。レティシア・ローゼンベルクです」
「お初にお目にかかります。リリア・エルヴァンと申します」
習った通りに頭を下げる。顔を上げると、綺麗な紫色の瞳と目が合った。
口元は笑っている。けれど、目の奥には警戒があった。今まで散々見てきた目だ。闇商人も値段の折り合いがつくまでは、こんなふうにニコニコしていた。
まあ、そりゃそうよね。婚約者が入学初日から知らない女と二人で話しているんだもの。しかも王太子が一人でいるところへ偶然出くわしたという、妙に都合のいい女だ。立場が逆なら私だって警戒する。
私とレティシアが目を合わせていたのは、おそらくほんの数秒だった。アルフレッドは気づいていないらしい。散らばった書類は無事に揃ったか、と呑気に私へ尋ねてきた。
「はい。おかげさまで」
そう答えて紙束を見せると、彼はまた笑った。その横でレティシアの笑みが変わらないのが少し面白かった。
「では殿下、そろそろ参りましょう」
「ああ」
レティシアに促され、アルフレッドは頷いた。それからこちらを振り返る。
「またね、リリア嬢」
「はい。またお会いできましたら」
笑顔で二人を見送った。
レティシアは去り際に一度だけ私を見た。鋭い視線だったが、すぐに何事もなかったように前を向く。二人の姿が回廊の向こうへ消えてから、私はようやく息を吐いた。
「……ふう」
初日としては悪くない。
王太子には名前を覚えてもらえた。原作通りの台詞も聞けたし、少なくとも次に会っても初対面からやり直す必要はなさそうだ。レティシアと遭遇したのは予定外だったが、これから王太子へ近づく以上いずれは顔を合わせる相手である。少し早まっただけだ。
それに、分かったこともある。
彼女は笑いながら人を見る。私が危険な相手かどうか、もう考え始めているだろう。私も同じだ。彼女がどこまで見て、どんな手を使うのか、これから確かめればいい。
本物のヒロインではなくても、この出会いは起こせた。ゲームの筋書きをそのままではなくても使える可能性がある。
私は書類を抱え直し、誰もいなくなった回廊へ足を踏み出した。
レティシアと私では、持っている札がまるで違う。今は向こうの方がずっと強い。それは認める。
でも、札の強さだけで勝負が決まるならスラムで私たちがのし上がれるはずもなかった。
さて。どちらが上手く使えるか、勝負してみようじゃない。




