行ってくるね
翌日の昼過ぎ、ジェイが一人の女を連れてきた。
年は三十代後半くらいだろうか。赤みのある茶髪を緩くまとめ、派手ではないが質のいい深緑のワンピースを着ている。顔立ちは美人というより整っているという言葉が似合った。化粧は薄いが目元だけは妙に印象が強く、一度目が合うとこちらの奥まで覗き込まれているような気分になる。
「この子?」
部屋に入るなり女は私を見た。
「ああ」
ジェイはそれだけ答えると、勝手知ったる様子で壁際に腰を下ろした。紹介くらいしろよ。仕方なく自分で口を開く。
「ヘイリー」
「知ってるわ」
女は私の前まで来ると、遠慮なく頭のてっぺんから足の先まで眺めた。嫌な感じはしない。値踏みされることには慣れているし、それにこの女の目には欲も侮りもなかった。ただ観察している。
「私はミラ。ジェイから大体の話は聞いたわ」
大体ってどこまでだろう。
ちらりとジェイを見ると、煙草を咥えながらこちらを見ていた。目が合うと顎を少し上げる。余計なことは話していない、ということだろう。多分。
「五日でそれらしくしてくれって」
ミラが言った。言いながらジェイの元へ歩み寄り、火をつけたばかりの煙草を取り上げて近くの空き瓶に押し込んだ。
ジェイは眉を上げただけで特に文句は言わなかった。……随分気安い。
「それらしく?」
「少なくとも、一目見て裏路地育ちだと思われない程度には」
失礼な。いや事実だけど。
「まず立ってみて」
言われるままベッドから降りる。いつもの調子で立ったところ、ミラはすぐに眉を上げた。
「それ」
「何?」
「片足に体重かける癖。あと腕」
見ると無意識に腕を組んでいた。
「楽なのよ」
「でしょうね。でも少し乱暴に見えるわ」
そう言って肩を軽く押されて身体を正面に向けられる。肩の力を抜け、顎を少し引け、足を閉じろ。いちいち細かい。
「こんな感じ?」
「そう。そのまま歩いて」
部屋の端まで歩く。
「もう一回」
「何がダメだった?」
「周り見すぎ」
足を止めた。
「見てないけど」
「見てるわよ。扉、窓、ジェイ、私。入ってきた時も最初に部屋の中を一周見たでしょう」
ああ。それは癖だ。スラムでぼんやり歩いている奴はろくな目に遭わない。誰がいるか、誰がこっちを見ているか、変な奴が近くにいないか。そのくらいは確認して当然だと思っていた。
「それもダメ?」
「ダメではないけど、もう少し隠しなさい。裕福じゃない地区で育った娘なら用心深くてもおかしくない。でもあなたの場合、ちょっと露骨」
なるほど。全て直せではなく見えないようにしろということらしい。
「あと人を見る時ね」
ミラが私の前に立つ。
「あなた、顔を見たあと相手の服と手を見るでしょう」
「見るね」
「どうして?」
「服見たら金あるかわかるし、手見たらどういう仕事してるか大体わかるじゃん」
ミラが黙った。少し離れたところでジェイが吹き出した。爆笑だ。
「何よ」
「いやたしかに、普通の平民の娘は初対面でそこまで値踏みしねぇだろうなって」
「みんな多少は見るでしょ」
「多少はね」
ミラが笑う。
「でもあなた、癖になってる。目が忙しいのよ」
思った以上に指摘される。立ち方。歩き方。座り方。人の話を聞く時の顔。知らないことを聞かれた時の返し方。少しずつ直された。
「座って」
椅子を指される。普通に腰掛けたらすぐに膝を軽く叩かれた。
「足開かない」
「こんくらい普通じゃない?」
「あなたの普通は一回捨てなさい」
手厳しい女だった。言われた通り膝を揃える。なんとなく窮屈だ。内腿の普段使わない筋肉も使う。
「手は?」
「膝の上」
「はぁ……」
少し離れたところで、ジェイがまた笑った。こいつ絶対楽しんでる。昼を過ぎる頃には随分疲れた。体力を使うわけではないのに、普段意識しないことばかり意識させられるので妙に頭が疲れる。ミラが水を飲んでいる横で、私はベッドへ倒れ込んだ。
「まだ半日よ」
「嘘でしょ」
「五日しかないんだから仕方ないわね」
「別に今日だけで全部やんなくてもいいじゃん」
「あなた、覚えは早いから今日中に癖だけ洗い出すわ」
ジェイがどこからか持ってきたパンをかじりながら頷いている。
「そうしてくれ」
「勝手に話進めないでよ」
返事の代わりにパンの端を投げて寄越された。受け取ってそのまま食べる。ミラが私を見た。
「今のパンの食べ方は問題ないわよ」
「そう?」
もしゃもしゃかじる。
「まあ平民でも育ちが悪い子はそんな感じよね」
遠回しな嫌味を言うんじゃない。
そのあともミラのお行儀教育は続いた。人を見る時に服から靴まで値踏みしない。座った時に膝を開かない。という基本を復習させられて叩き込まれた。他にもいろいろ指摘があった。気に入らないことを言われても舌打ちしない。言葉に詰まった時に「はぁ?」で返さない。
最後のはさすがに私だって男爵相手にはやらない。
「もっと酷いかと思ってたわ」
夕方、ミラが意外そうに言った。
「どういう意味?」
「ジェイから聞いた感じだと、もっと手の施しようがないのかと」
ゆっくりジェイを見ると知らん顔をしている。とぼけやがって。
「何て言ったの?」
「ガラが悪くて口が悪くて人の言うこと聞かねぇって」
「だいたい合ってるじゃない」
ミラがさらっと言った。そこまで話したところで、彼女は不意に私の髪を一房持ち上げた。
「これも少し整えましょう。長さは変えなくていいわ。毛先だけ」
「ジェイも同じこと言ってた」
「珍しく正しいこと言うのね」
「いつも正しいよ」
思わず口から出た。ミラが少し目を丸くし、それから笑った。ジェイは何も言わなかった。なんとなく居心地が悪くなって私は髪をミラの手から取り返した。
*
それからの五日間はあっという間だった。
午前はミラの授業をうけて午後はリリアについて頭に叩き込む。リリアについて書かれた紙束は、最初に見た時よりさらに増えた。
好きな食べ物は蜂蜜を塗った黒パン。玉葱が嫌い。雨の日が好き。子供の頃に一度川で溺れて、それ以来深い水が苦手。母親のアンナは裁縫が得意で病気になる前は近所の服を直して小銭を稼いでいた。
パン屋の主人の名前、その妻。よく話していた客。
母親が死ぬまで住んでいた部屋。薬を買っていた店。
全部覚えた。
覚えているうちに、不思議な気分になった。私が知っているリリアは、あの路地裏で私の下でもがいていた女だった。必死に腕を振って、最後には血を噴き出して死んだ。
その前にも15年あったのだ。当たり前のことだけれど。母親がいて好きな食べ物があって嫌いなものがあって、いつか自分の小さな店を持ちたいと思っていたらしい。死んだやつのことをここまで深く知ったのは初めてだった。
「何考えてんの?」
そんなふうに物思いに耽っていたら、ついに向かいで煙草を吸っていたジェイが聞いてきた。
「リリアのこと」
「それは見りゃ分かる」
紙を一枚めくる。
「この子、店持ちたかったんだって」
「へぇ」
興味なさそう。ジェイとの会話はそれで終わった。罪悪感があるわけではないし今さら殺したことを後悔しているわけでもない。ただ。
「……ちゃんと覚えとこうかな」
「何を?」
「この子のこと」
ジェイがこちらを見る。
「なんで」
「私が使うんだから」
名前も、生まれも、母親も。これから歩くはずだった人生も。全部。
それくらいしてもいいだろう。
ジェイはしばらく私を見ていたが、やがて煙草を咥え直した。
「好きにすれば」
うん。
五日目の朝。
鏡の前に立った私は自分の姿をしげしげと眺めた。大して変わっていない。金色の髪はきちんと洗い、傷んだ毛先を揃えた。顔もいつもより丁寧に洗った。爪も綺麗に切った。
着ているのは淡い青色のワンピース。今まで着た中で1番上等な服だった。これもジェイがどこからか手に入れてきたものである。
「どう?」
くるりと振り返る。ジェイは私を上から下まで眺めた。
「まあ、いいんじゃね」
「それだけ?」
「他に何があんだよ」
「もうちょっと何かあるでしょ」
「見れるようにはなった」
なんてデリカシーがない男なんだろう。
私が嘆いていると、ジェイの横にいたミラが笑った。
「十分でしょう」
五日間ほとんど毎日顔を合わせていたせいか、二人はますます普通に話すようになっていた。
いつの間にかジェイの煙草を勝手に取るのも一度や二度ではなくなっている。
……随分馴染んだものである。
「じゃ、私はこれで。報酬は…」
「後で渡しにいく」
ミラが荷物をまとめるのをみて私は短く礼を述べた。
「ありがと」
「どういたしまして。事情は知らないけど応援してるわ。上手くやりなさいよ」
「もちろん」
ジェイと何か二言三言交わした後、ミラは部屋を出ていった。閉まった扉をしばらく眺める。
「何」
「別に」
あとでミラと会うんだ。…まあどうでもいいけど。言葉通り報酬を渡すだけだろう。今までだったら気になったらついてってたけどもうそれもできない。私がいなくなった後もこっちの世界は続いていく。なんとなくそれが身に沁みた。
荷物に目を戻した。男爵からの手紙と家紋入りのペンダントと最低限の着替えと少しの金。これだけ。
「商人の使いは?」
最後に思い出して尋ねる。大事なことだ。私が偽物だと証言する可能性のあるリスク因子。
「片づいた」
ジェイは短く答えた。
「顔見てた?」
「見てたよ」
手が止まる。
「じゃあ――」
「もう問題ねぇ」
どう片づけたのか一瞬気になったが、やめた。ジェイがそう言うなら終わった話だ。
「そっか」
袋の口を縛った。いよいよである。
「最初は大人しくしとけよ」
「わかってるって。それずっと言ってるじゃん」
「わかっててもお前はやるだろ」
重ね重ね失礼なやつだ。私をなんだと思っているのか。一通り準備を終えて立ち上がる。さっきまで何とも思っていなかったのに、いざ出るとなると妙な感じがした。
ここを出たら。もう、2度と。
「じゃあ」
荷物を肩にかけた。
「行ってくる」
ジェイは返事をしなかった。ドアに手をかけてからなんとなく振り返った。
「何?」
ジェイが眉を上げる。
「いや」
何を言うつもりだったのか自分でも分からない。頑張ってくる、とでも?残念ながらそんな殊勝な柄じゃない。
「行ってくるね」
結局もう一度同じことを言う。今度はジェイが笑った。見慣れた笑顔だった。昔からずっと隣にあった笑顔。
「行ってこい」
それだけ。いつも通りだった。それでいい。
扉を開けると外の光が目に刺さった。ここから先は当分一人で歩いてく。
ジェイとは会わないし仲間とも会わない。連絡も、当分は取らない。初めて足を踏み入れる貴族の世界で誰が敵で誰が味方かも分からないまま自分で居場所を作る。
……不思議と怖くはない。いや少しは怖いけど、でもそれ以上に先が見たかった。私はペンダントを服の上から握った。冷たい銀の感触が薄い布を通して手のひらに伝わってくる。
今日から私はヘイリーではない。いや違うか。ヘイリーのままリリアになる。その方がずっと正しい。
私は薄暗い路地を抜け、王都の中心へ向かって歩き出した。




