越えられない壁
食堂の隅、光の届かない影の中で、ガイルは泥だらけのまま座り込んでいた。
朝、ミナを拒絶した瞬間の、弾かれたように凍りついたあの子の顔が、傷ついた瞳が、今も網膜に焼き付いて離れない。
おはようの一言すらまともに返せず、ただ自分の勝手な怯えから、無防備な少女の心を理不尽に踏みにじってしまった。
その自覚と、どうしようもない嫌悪感で、胸が押し潰されそうだった。
そのとき、食堂の反対側で、子供たちの甲高い泣き声と、それを遮るようなミナの声が響いた。
「ダメだよ、レオ。それはテオが大事にしていたおもちゃでしょ。どうして勝手に持っていっちゃうの」
見れば、小さな男の子が俯いて涙をこらえており、その前でミナがしゃがみ込んで、彼の目を見つめていた。
「だって……僕も、それで遊びたかったんだもん」
「遊びたくても、お友達のものを勝手に取っちゃダメ。人のものを取るのは、悪いことなんだよ。取られた相手が、どれだけ悲しい気持ちになるか、レオにはわからない?」
ミナはレオの肩を優しく包み、諭すように語りかける。
「私もレオくらいの頃に教えてもらったことがあるの。自分がされて嫌なことは、人にも絶対にしちゃいけないんだよって。レオは、自分の宝物を誰かに勝手に盗られたら、どう思う?」
「……すごく、悲しい」
「でしょ? だから、お友達にそんな気持ちをさせちゃダメ。ちゃんと返して、ごめんねって言おう?」
レオは激しく首を振り、「ごめんなさい」と泣きじゃくりながら、おもちゃを返しに走っていった。
ミナは小さく息を吐き、子供たちの頭を優しく撫でる。
その一連の、あまりにも真っ当で、あまりにも正しい光景。
それが、ガイルにとっては、心臓を直接素手で握り潰されるような激痛だった。
(自分がされて嫌なことは、人にも絶対にしちゃいけない――)
子供でも知っている、当たり前のルール。
自分は「あくどい奴らから奪っているのだからいい」「その上いいことに金を使うのだから」と都合のいい言い訳を盾にして、その当たり前のルールを何十回、何百回と踏みにじってきたのだ。
それだけではない。
ガイルは、強く拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。
(俺は、今朝……まさにそのされて嫌なことを、あの子に、ミナに対してしたばかりじゃないか)
過去の罪に一人で怯え、その怯えを隠すために、自分を信じて手を伸ばしてくれたあの子の心を冷たく突き放した。
ミナがどれほど悲しい、寂しい気持ちになるかも分かっていながら、独りよがりに傷つけた。
(俺は……俺は、この子に何をしているんだ)
謝ることも、抱きしめることもできない。過去の罪だけでなく、現在進行形でミナを傷つけている己の醜悪さに、ガイルは息の仕方も忘れるほどの自己嫌悪に苛まれていた。
それが分かっていながら、ガイルの思考は目の前の少女よりも頭の中にあるかもしれない過去を探してしまう。
自分勝手な正義を掲げ、被害者たちがどれだけ悲しい気持ちになるかも無視して、他人の宝物を奪い続けてきた。
その中に、善良な人がいたのかどうか。どれだけ思い出そうとしても、思い出せない。
ミナの父母の商会はライラック商会だ、と彼女は言っていた。
やはりガイルの記憶にはない名前だった。
だから、自分の仕事ではない。他の泥棒だ……とは思えなかった。
なぜなら、自分が行ってきた無数の盗み。ライラック商会に限らず、どこから盗んだかなど、名前を思い出せる場所の方が圧倒的に少なかったのだ。
どこまでいっても、どれだけ考えても、優しく温かい少女の両親を無残な死に追いやったのは、自分「かもしれない」、というところまでしかわからなかった。
(……それでも、冬が来る前に屋根は直さなきゃならない。シスターを、子供たちを凍えさせるわけにはいかないんだ)
ガイルは、きつく目を閉じた。
今朝、ミナを傷つけてしまった。その事実が、今も彼の胸を裂き、容赦なく抉り続けている。
(あの子を傷つけるのは、俺の心だけでいい)
自分が汚れていればいい。自分が泥をすすり、どれほど罪悪感にのたうち回ろうとも、その地獄は自分の胸の中だけに閉じ込めておけばいい。
ミナに知られなければいい、という欺瞞ではない。
自分がそのすべての罰を、罪を、一人で背負って闇を這い回りさえすれば、子供たちは温かい太陽の下で笑っていられるはずだ。
その歪んだ、けれど彼の中に最後まで残されていた「自己犠牲の正義」が、ガイルを再び立ち上がらせた。
金が要る。手段は選べない。自分一人が泥にまみれれば、それでいいはずだ。
◇
その日の深夜。ガイルは再び、冷たい風が吹く夜の街にいた。
狙うのは、あくどい高利貸しの邸宅。
(俺は義賊だ。あくどい奴から奪い、持たざる者に分ける。何も間違っていない――)
呪文のように自分に言い聞かせ、塀を乗り越えようとした。
登れなかった。
昨夜のような突然の動悸ではない。
ミナの話を聞いた直後だったからでもない。
それでも、身体は全くガイルの言うことを聞かず、動かなかった。
分かってしまった。
――もう、自分はこの壁を越えられない。
自分が「正義」だと信じて疑わなかった頃は、どれほど厳重な警備も、高い壁も、ただの障害物に過ぎなかった。
しかし、自分自身が「悪」であるかもしれないという、ほんのわずかな、けれど決定的な疑念。
それが混入した瞬間、ガイルの肉体は、泥棒としての機能を完全に喪失してしまった。
鍵を破るどころか、壁を越えることすらできない。
ガイルは膝をつき、己の泥棒としての死を悟った。
もう、奪うことはできない。
たとえどれほど金が必要でも、彼の手は、二度と闇の金貨を掴むことを許されなかった。
◇
どんよりとした灰色の雲がベルク町を覆い、冷たい秋の雨が降り始めたのは、ガイルが仕事に失敗して戻った翌日のことだった。
ピチャン。ピチャン。
古びた孤児院の食堂に、単調で、それでいて神経を逆なでするような音が響き渡る。天井の染みから滴る雨水を受け止めるため、床には大小さまざまなバケツや手桶が並べられていた。
シスターが懸念していた通り、屋根の傷みはいよいよ限界を迎えていたのだ。
「……ごめんね、みんな。少し窮屈だけど、濡れないところに集まって」
ミナがテキパキと指示を出し、幼い子供たちを雨漏りのしない壁際に集めている。
湿った空気の中、子供たちは身を寄せ合い、寒さに肩を震わせていた。
ガイルは食堂の隅、影の落ちる場所に立ち、その光景をただ黙って見つめていた。
かつての彼なら、ここで「心配するな、すぐに直してやる」と笑い、その夜には鮮やかに資金を調達してきただろう。
シスターに救い主と感謝され、その信頼に誇りを感じていたはずだ。
だが、今の彼にその力はない。
金庫を前に手が震え、壁すら乗り越えられず逃げ帰った無様な男には、子供たちを温める屋根一つ用意することができなかった。
「ガイルさん……」
シスターが、申し訳なさそうにガイルへ視線を向けた。
「先日のお話、無理をさせてしまったでしょうか。もし、職人さんを呼ぶのが難しければ、私たちが何とかしますので……」
責める意図のないその言葉が、今のガイルにはどんな罵倒よりも鋭く突き刺さる。
「……いや。職人は、必ず連れてくる」
絞り出すように答えたが、その声に以前のような自信はなかった。
視界の端で、ミナが雑巾を持って床を拭いているのが見える。彼女が動くたびに、服の袖から昨日までの労働でこびりついた煤が、水に溶けて黒く広がっていく。
(俺が、あの時……)
ミナの両親からすべてを奪ったのが自分かもしれないという疑念が、滴り落ちる雨音に同期して、ドクドクと心臓を打ち据える。
あの子の家から屋根を奪ったのが俺だとしたら、今、この孤児院の屋根すら直せないのは、当然の報いではないのか。
「おじさん、大丈夫? そんなに暗い顔して……」
ミナが心配そうに近づいてこようとする。
ガイルは反射的に、深く被った帽子のひさしをさらに下げ、彼女から視線を逸らした。
「……仕事に行ってくる」
雨音から逃げるように、ガイルは部屋を飛び出した。
背後に残るミナの不安げな気配から、そして、自分自身の犯してきた数えきれない罪の記憶から逃れるように。
向かう先は、闇の中の屋敷ではない。
ただの人間として働いて得る真っ当な報酬を求めて、ガイルは冷たい雨の中へと、その身を投じた。
◇
帽子のおじさんの様子がおかしくなってから、ミナの胸からは一瞬たりとも不安が消えなかった。
おじさんは、朝起きてもおはようすらまともに言ってくれない。いつも深く帽子を被って、ミナから目を逸らす。
(私、煙突の煤で汚れてたから、おじさんに嫌われちゃったのかな……)
自分の小さな手を見つめるたび、泣き出しそうな寂しさがこみ上げてきた。
そんなある日の午後、煙突掃除の仕事に向かう途中、ミナは町の外れの建築現場の脇を通りかかった。
冷たい雨が降る中、男たちが泥にまみれて大きな石を運んでいる。その中に、見覚えのある背中を見つけて、ミナは息を呑んだ。
(おじさん……?)
それは、間違いなくガイルだった。
スマートにあちこちの町を歩き回り、綺麗なハンカチで汚れを拭ってくれた、あの憧れのおじさん。
そのおじさんが、今はびしょ濡れになり、泥だらけの作業着を着て、自分の体ほどもある重い石を背負って泥の中を這うように歩いている。
一歩踏み出すたびに、ガイルの肩が激しく震えていた。顔は泥と汗で汚れ、荒い呼吸で胸がはち切れそうに上下している。
(どうして……? おじさん、商人の仕事はどうしちゃったの?)
ミナは物陰に隠れ、その姿をただ呆然と見つめていた。
ガイルは、泥だらけになりながら、たった一枚の硬貨を稼ぐのがどれほど大変かを、身をもって体験しようとしているかのようだった。
(違う。おじさんは、私を嫌いになったんじゃない)
ハッとして、ミナは胸元をぎゅっと握りしめた。
孤児院の雨漏りを直すために、おじさんはあんなにボロボロになりながら、必死で働いてくれているんだ。
自分を避けていたのは、嫌いになったからではなく、夜も眠れずに過酷な労働に耐えていて、余裕がなかっただけなのだ。
(おじさんも、あんなに頑張ってる。……私も、泣いてる場合じゃない。もっと頑張らなきゃ!)
ミナは涙を拭い、抱えていたブラシを強く握りしめた。
ミナが仕事現場に着くころには、雨はほとんど降り止んでいた。
しかし、それまで降り続いていた雨の湿気がじっとりと肌にまとわりつく。
「やあ、いらっしゃい。今日はよろしく頼むよ」
依頼主である年配の家主が、少し心配そうに告げた。
「雨が止んだ後だから、屋根の上は滑りやすくなっているかもしれない。くれぐれも怪我をしないように気を付けるんだよ」
家主の親切な言葉に胸を温める。ミナは笑顔で返事をした。
「大丈夫です! 高いところは得意ですし、雨が降った後の煙突のほうが、周りに煤が飛び散らなくて、ご近所の迷惑にならないんですよ」
「そうかい? 確かにそうかもしれないな」
ミナはただ、優しく笑って頷いた。
「でも、落ちたりしないように気を付けます。それじゃ、お仕事始めますね!」
湿り気と煤汚れが残る頬のままで、ミナは笑った。
その瞳に宿るあまりにも真っ直ぐで力強い光に、家主も少しだけ困ったように頷いた。
「ああ、ありがとう。本当に無理はするんじゃないぞ」
「はい!」
と元気よく返事をして、ミナは雨で滑りやすくなった煉瓦に足をかけた。
屋根の上に登ると、吹き付ける風は思ったより強い。体温を奪っていく。
だが、ミナは一切手を抜かなかった。
煙突の中にブラシを通す手つきは、幼いながらも驚くほど丁寧だ。
お父さんに『どんな仕事でも、相手が喜んでくれるように心を込めなさい』と教わった通りに。
粘り気を帯びて内壁にこびりつく濡れた煤を、ミナは感覚を失いかけた指先で、何度も何度も、こするようにして掻き出していく。煤混じりの雨水が目に入って痛んだが、袖で拭う時間すら惜しかった。
作業をしていると、止んでいた雨がまたぽつぽつと落ちてきた。
それはあっという間に本降りへと変わる。
「おーい、お嬢ちゃん! もうその辺でいい、十分綺麗だ! 雨もまた降ってきているし、危ないから降りてきなさい!」
下から家主が叫ぶが、ミナは煙突の奥深くへ手を伸ばしたまま、首を振った。
「ううん、まだダメです! 奥の方に、固くなった煤の塊が残ってるんです!」
煤が冷えて固まった黒い塊は、一見すると煙突の内壁のようにも見える。だが、ミナが指先で探ると、確かに粘り気のある嫌な感触が残っていた。
「これを残しておくと、冬に暖炉を使ったときに煙が部屋に戻っちゃうんです。煙突の中で火がついて、火事になっちゃうかもしれないから……。絶対に、全部落とさなきゃダメなんです!」
凍えて感覚のない指先でブラシを握り直し、ミナは何度も何度も、煙突の内壁を擦った。
ガリ、ガリ、と固い煤が削れる音が続き、やがてブラシの先から滑らかな石の感触が伝わってきた。
よし、とミナは息を吐いた。
這い出てきた真っ黒なミナを見て、家主は心底驚いた表情を浮かべていた。
「……いやはや、そこまでしてくれるのか。ただ煤を払うだけだと思っていたが、うちが火事にならないようにと、奥の塊まで削ってくれたんだな」
「はい! これで、今年の冬は安心して暖炉を使って大丈夫です!」
寒さに歯の根を鳴らしながらも、ミナは誇らしげに胸を張った。
「……大したお嬢ちゃんだ。君のおかげで、安心して冬を越せるよ」
家主はそう言うと、奥から温かいハーブティーの入った木コップを差し出してくれた。
「ほら、まずはこれを飲みなさい。体が冷え切っている」
「わあ……ありがとうございます!」
ミナが煤だらけなのにもかかわらず、家主は「家の中で飲みなさい」と言ってくれた。ミナはそれを断って、軒先で木コップを両手で包み、ゆっくりと飲み干した。
喉の奥にこびりついていた煤が洗い流され、お腹の底からじわりと温かさが広がっていく。
「これは、今日の約束の分だ。それから……」
家主は、約束されていた硬貨に加えて、小さな銅貨をもう一枚、ミナの手のひらにそっと載せた。
「その丁寧な仕事ぶりへのお礼だ。これで、何か温かいものでも食べて帰りなさい」
ミナは目を見開き、そして深く頭を下げた。
「ありがとうございます! 嬉しい……!」
仕事からの帰り道、ミナは雨に打たれながらも貰った硬貨を丁寧に数え始めた。
銀貨が一枚、銅貨が数枚。
それは、ガイルが仕事で手にしていた大金とは比較にならないほど、あまりにもささやかな額だった。
けれど、ミナはその硬貨を、泥のついた手のひらでぎゅっと握りしめた。
「……五、六、七。……うん。これで、また少し、屋根を直すお金に届く」
ミナは鼻先に溜まった黒い雫を袖で拭い、再び雨の中を走り出した。
ベルク町の端にある建築現場で、ガイルは泥にまみれて石を運んでいた。
かつて数秒で複雑な鍵を開け、音もなく壁を越えていたその指先は、今はただ荒い石の肌に削られ、感覚を失いつつある。
一歩、足を踏み出すたびに、背負った石が背骨を軋ませる。
昼過ぎにはもう、腕は鉛のように重くなり、肩より上へはびくとも上がらなくなった。呼吸は浅く、肺の奥が焼けるように熱い。
(……真っ当な労働か)
煤にまみれて煙突を掃除し、シスターに食費を渡していたミナの姿を思い出す。
彼女がどれほどの苦労をして、あの一枚の銀貨を命と同じくらい大事なものとして扱っていたのか。その一端を、今になってようやくガイルは肌で感じていた。
日が沈み、監督官から手渡されたのは、わずか五枚の銅貨だった。
「……これだけか」
掌に載った端金を見つめ、ガイルの唇から乾いた呟きが漏れた。
それは、屋根を直すにはあまりに無力だった。
ガイルの胸を、言いようのない焦燥感が支配する。こんな端金で、一体いつになれば孤児院の屋根が直せるというのか。一晩の「仕事」であれば、この何万倍もの金が一瞬で手に入ったというのに。
だがその瞬間、ガイルの脳裏に、いつも煤にまみれて帰ってくるミナの、あの手のひらが蘇った。
『五、六、七。……うん』
彼女は、あの一枚、二枚のささやかな硬貨を、まるで宝物のように慈しみ、数えていた。
それは無力さへの絶望ではなく、「自分の仕事が、誰かを喜ばせた」という確かな誇りと、未来への希望が詰まった、あまりにも重い数字だったのだ。
(俺は……なんて傲慢だったんだ)
ガイルは自分の汚れた指先を、握りつぶすように強く握りしめた。
自分はこれまで、一瞬で大金を手にする魔法に溺れ、それを正義と呼んで悦に入っていた。
だが、その大金の背後には、ミナのような「誰かを安心させ、喜ばせるために、命を削って積み上げた真っ当な時間」が、無数に、途方もない質量で存在していたのだ。
それを自分は、たった数秒の指先で奪い、破壊し続けてきた。
ミナが数える「五、六、七」は、他者を幸せにした証の積み上げ。
自分が手にしてきた金貨の袋は、誰かの人生を削り取り、絶望させた証。
同じ「少ないお金」を見つめながら、ミナは希望を見出し、ガイルは己の罪の深さに絶望する。
(俺は、今まで何人の人生を壊したんだ……?)
考え始めると、意識が遠のくような眩暈に襲われた。
特定の誰かに対して謝ることすら、今のガイルには許されない。
あまりにも多くの仕事を機械的にこなしすぎて、自分が誰から、どれほどを奪ったのかすら、正確には思い出せないからだ。
反省することも、謝罪することもできない。
ただ、暗闇の中から自分を見つめる無数の影に怯え続けることしかできない。
そして何より、その影の中に、あのミナの両親が混じっているのではないかという巨大な疑念が、重い石のようにガイルの心臓を押し潰していた。
ガイルは泥のついた手で、古びた帽子をさらに深く被り直した。
五枚の銅貨。
ガイルはそれを一枚もこぼさぬよう、握りしめた。




