新しい帽子
それからのミナは、雨の中でも決して仕事を休まなかった。
けれど、いくらお金を貯めても、孤児院に戻ったガイルの顔から暗い影が消えることはなかった。
石運びから帰ってきたおじさんは、泥だらけのまま、食堂の隅で幽霊のように座り込んでいる。
「おじさん、これ、今日の分!」とミナが稼いだ銀貨を見せても、ガイルは力なく「……そうか、頑張ったな」と呟くだけで、決して笑ってはくれなかった。以前のように頭を撫でてくれることもない。
ガイルの瞳は、まるで底のない暗い井戸のように、ただ静かに絶望しているように見えた。
(どうして? お金は少しずつ貯まってるのに、どうしておじさんは笑ってくれないの?)
ミナは食堂の柱の陰から、じっとガイルを見つめていた。
ガイルは、いつも深く帽子を被って、顔を隠している。
ふと、ミナはその帽子に目を留めた。
子供たちの憧れだった、あのおじさんのソフト帽。
よく見れば、それはもう雨に打たれて色褪せ、泥が染み付き、ひさしの端は擦り切れてボロボロになっていた。
ガイルが自分を閉じ込める、暗い檻のようにミナには感じられた。
ガイルはずっと、自分たちのために働き詰めで、自分のものなんて何一つ買ってこなかった。いつもお土産を持ってきてくれる。貰ってばかりなのは自分たちの方だった。
(おじさんに、新しい帽子をプレゼントしたら……)
以前二人で行った雑貨店に置いてあった、ガイルが被っている帽子によく似た、汚れ一つない綺麗な帽子。
それを渡したら、おじさんはびっくりして、また前みたいに「ありがとう」って笑ってくれるんじゃないだろうか。
おじさんの笑顔を取り戻すためなら、なんだってしたかった。
けれど次の瞬間、ミナの脳裏に、食堂に並ぶたくさんのバケツが浮かんだ。
ピチャン、ピチャンと響く、冷たい雨漏りの音。
(ダメだよ。このお金は、雨漏りする屋根を直すための、大事なお金なんだから)
ミナは懐の小さな巾着袋をぎゅっと握りしめた。
お父さんが言っていた。『お金は人の命と同じくらい大事なものだから、一袋の麦でも一枚の銅貨でも、適当に扱っちゃいけないんだ』
その大切な教えを、ミナは一瞬たりとも忘れたことはない。
孤児院の屋根を直すのは、凍えている子供たち全員のためだ。それを、おじさんへの個人的なプレゼントに遣うなんて、あまりにもわがままで、お父さんの教えにも反する悪いお金の使い方なんじゃないか。
冷たい風が吹く食堂で、ミナは自分の巾着袋を見つめたまま、立ち尽くした。
この銀貨一枚と、たくさんの銅貨は、自分が真っ黒な煤にまみれ、高い屋根の上で一生懸命頑張って稼いだ対価だ。
これで屋根の材料を買うべきだ。それがちゃんとした商人になるための、正しい選択なのだと、頭では分かっている。
(でも……おじさんがあんなに暗い顔をしてたら、屋根が直ったって、ちっとも温かくないよ)
ミナにとって、ガイルはただ優しいだけのおじさんではない。
暗闇から自分たちを救い出してくれた、たった一人の、大切な救い主なのだ。おじさんが笑ってくれるから、自分たちはこの古い孤児院で、安心して生きていける。
おじさんの笑顔を取り戻すことこそが、今のミナにとって、何よりも「命と同じくらい大事なこと」だった。
「……おじさんを、元気にしたい」
ミナは小さく、けれどはっきりと声に出した。
お父さん、お母さん、ごめんなさい。私、わがままを言います。
ミナは決意を胸に、雨の降る市場へと走り出した。
雑貨屋の店先に置かれた、汚れ一つない新しいソフト帽を目指して。
冷たい雨が降り続くベルク町の市場。ミナは震える肩を抱えながら、先日ガイルと一緒に訪れた雑貨屋の前に立っていた。
懐には、雨の中の煙突掃除で稼いだ硬貨を入れた、泥と煤まみれの小さな巾着袋がある。
(いつもなら、シスターに渡していた大事なお金。特に今は、屋根を直すために必要なお金だけど……)
食堂のバケツに落ちる雨音を思い出すたび、胸が痛む。けれど、それ以上にミナの心を締め付けていたのは、泥だらけで帰ってきては自分を避ける、ガイルの沈んだ背中だった。
おじさんのあの古びた帽子は、もうボロボロで、今の彼を閉じ込める影のように見えていた。
「いらっしゃい。おや、こないだのお嬢ちゃんじゃないか。今日は一人かい?」
店主の声に、ミナは弾かれたように顔を上げた。
「おじさん、あの……。この前の、あの帽子、まだあるかな?」
ミナが指差したのは、棚の奥に置かれた、落ち着いた色合いの新しいソフト帽だった。ガイルがいつも被っているものによく似た、けれど汚れ一つない清潔な帽子だ。
「あるよ。……でも、お嬢ちゃん。これ、結構いい値段するぜ? 屋根を直す材料を買うって言ってなかったかい?」
「……うん。でも、おじさんに元気になってもらいたいんだ」
ミナはそう言って、カウンターの上に巾着の中身を広げた。
銀貨が一枚、あとはぱっと見ただけでは数えきれないほどの銅貨。彼女が真っ黒な煤にまみれ、高い屋根の上で、おじさんみたいになりたいと願いながら、命がけで積み上げてきた対価だ。
「五、六、七……」
ミナは、今はもういない父に教わった通り、一枚ずつ丁寧に硬貨を数えていく。
冷たさで感覚を失った彼女の指先は、硬貨の感触を慈しむように確かめていた。
その姿は、かつてガイルが「商人になるなら大事なことだ」と目を細めて褒めてくれた、あの輝かしい午後そのものだった。
「……足りる、よね?」
不安げに覗き込むミナに、店主は少しだけ言葉を呑み込み、やがて優しく笑って頷いた。
「ああ、大丈夫だ。ガイルさんへのプレゼントだろう? きっと喜んでくれるさ」
丁寧に包まれた新しい帽子を胸に抱き、ミナは店を出た。
雨はまだ止まない。けれど、彼女の心には確かな希望が灯っていた。
(これを渡せば、おじさんはまた前みたいに笑ってくれる。また、私の頭を撫でてくれるはず。……そうしたら、また二人でお仕事を頑張って、屋根も絶対に直せるんだから)
ミナは雨の雫を弾きながら、大好きな「帽子のおじさん」が待つ孤児院へと、真っ直ぐに駆け出していった。
◇
雨は上がった。
だが、孤児院の食堂にはいまだに湿った冷気が停滞し、天井からは時折、バケツの底を叩く鈍い音が響いている。
ガイルは泥にまみれた作業着のまま、隅の椅子に深く腰掛けていた。一日かけて行った石運びの仕事は、かつて数秒で金庫を開けていた彼の指先から、一切の感覚を奪い去っていた。
(これだけか……)
掌にあるのは、わずか五枚の銅貨。
以前の自分であれば鼻で笑ったであろう金額だ。そんな金を手に載せた自分を笑おうとして、しかし失敗した。
その重さが、軽くは感じられない。
「おじさん、やっと見つけた!」
弾んだ声と共に、ミナが食堂に飛び込んできた。彼女の服もまた、雨の中の煙突掃除で煤と泥に汚れきっている。
ガイルは反射的に帽子を深く被り、顔を伏せた。今の自分には、彼女の純粋な輝きを見る資格など欠片もない。
「……どうした、ミナ。そんなに濡れて」
「これ、おじさんに渡したくて。……はい、プレゼント!」
ミナが差し出したのは、丁寧に包まれた一つの包みだった。
ガイルが震える手でそれを受け取り、ためらいながら開くと、中には彼がいつも被っているものによく似た、けれど新品の、汚れ一つないソフト帽が入っていた。
「おじさんの帽子、もうボロボロだったでしょ? それに、最近のおじさん、すごく元気がなかったから……。私が一生懸命働いて貯めたお金で買ったんだよ。屋根のお金は、またこれから一緒に頑張ればいいもんね」
ミナは誇らしげに、そして最高に幸せそうに笑った。
ガイルはその帽子の重みに、思わず息を呑んだ。自分が触れていいものとは、とても思えなかった。
それは、労働で背負ったどの石よりも重かった。煤にまみれ、冷たい雨に打たれ、高い屋根の上で命を削って彼女が稼いだ清らかな金の重みだ。
「おじさん、被ってみて!」
ミナの無邪気な催促に押されるようにして、ガイルはのろのろとそれを頭へと載せた。
驚くほどぴったりだった。しかし、あまりにも重すぎた。
「……やっぱり、すごく似合うよ!」
泥だらけの手を、ミナの温かい両手が包み込む。
心のこもった贈り物だった。
愛おしくてたまらない。本当の家族のように思っていた少女だ。その気持ちが嬉しい、誇らしい。
それなのに、その献身に報いるための笑顔が作れない。
(言わなければならない。俺が、お前の両親からすべてを奪った泥棒かもしれないと。お前のその清らかな金を、俺のような汚れた人間に使うなと――)
告白の言葉が、喉元までせり上がる。
だが、ガイルはそれを飲み込んだ。
ここで真実を話せば、ガイル自身の心は軽くなるかもしれない。
けれどそれは、ミナの大切な両親の思い出を汚してしまうのではないか。
ミナが、両親がいなくなった理由を教えてくれたとき、泥棒への恨み言はひとつも漏らさなかった。
でも、恨んでいるのかもしれない。いや、恨んでいて欲しい。そして自分に恨みをぶつけて欲しい。
それを、ミナにやらせるのか?
あの、父と母の教えを大切に守り、ひとつひとつの硬貨を丁寧に数え、将来は商人になりたいと言っていた、あのミナに?
できるはずがなかった。やっていいはずがなかった。
ならば、自分にできることはひとつしか残っていない。
ガイルは、一生かけてこの偽りの救い主を演じ続けるという刑罰を自らに課した。
そうすることが正しいことなのか。正義なのか。ガイルにはもうわからない。
それでも、ガイルはそう決めた。
「……ありがとう、ミナ。……大切にするよ」
絞り出すような声でそう言い、ガイルは新しい帽子を整え、ぎこちない笑顔を向ける。
ミナは「本当によく似合うよ! おじさんにぴったり!」と表情を輝かせる。
作ったばかりの不格好な笑顔が、もろくも崩れ去る。
けれど、泣けない。泣いてしまえばミナが心配してしまう。
そう思うのだが、どうしても視線は下がり、目を閉じて涙が流れないようにするのが精いっぱいだった。
力を込めた肩が震え始め、その震えが身体に伝わっていく。
「おじさん……泣いてるの?」
真新しい、汚れ一つない帽子の生地越しに、ミナの手のひらが優しく載せられた。
すれすれに近づいたあの子の体から、雨に濡れた煤の、少し焦げたような苦い匂いがかすかに漂う。
煙突掃除の過酷な労働で平らになり、硬くなった小さな掌。痛いほどに優しいその手が、ガイルの頭を包み込むように、ゆっくりと撫でていく。
(この匂いだ……)
かつて、自分が清潔なハンカチで拭ってやったはずの、あの煤の匂い。
あの子が冷たい雨の中でも、一日も休まず煙突に潜って手に入れた、清らかな労働の証。
その煤の匂いと、硬くなった手の温もりが、あまりにも愛おしく、あまりにも痛い。
ミナの手のひらが、真新しい帽子にそってガイルの頭を優しく撫でる。
天井からは相変わらず、雨漏りの音がピチャンと響いている。
規則正しいその音は、まるでミナが丁寧に、一枚一枚硬貨を数えているみたいだ、とガイルは思った。
明日からも石を運ぼう。明後日も、運ぶ。
以前のように一晩の仕事でどうにかなることは、もうない。何日かかるのかだってわからない。
それでも、一枚、一枚数えていこう。
頭を撫でてくれている小さな手に誓って。




