五、六、七
雲一つない秋晴れの午後、ガイルとミナはベルク町の市場へと繰り出していた。シスターから預かった買い物リストには、冬に備えた保存食や、子供たちの新しい靴下、そして雨漏りする屋根の応急処置に使うための安価な防水布などが記されている。
「おじさん、次はこのお店だよ」
ミナはシスターから預かった古びた巾着袋を大切そうに握りしめ、ガイルの先を歩く。十二歳の彼女は、孤児院の年少組をまとめる「お姉さん」らしく、買い物においても実に手際がいい。
雑貨屋の店先で、ミナは防水布の質を念入りに確かめ、店主とわずかな値引き交渉までしてみせた。
傍らで見守るガイルは、その達者な振る舞いに目を細める。子供の成長が胸を温かくしてくれる。ガイルは結婚もしていないし、子もいない。それでも、子を持つならミナのような子を持てたら幸せだろう、と感じていた。
「はい、お釣りだよ。いい買い物だったね、お嬢ちゃん」
店主から渡された数枚の硬貨を受け取ると、ミナはその場に立ち止まった。そして、手のひらの上で銀貨と銅貨を一枚ずつ、指先で弾くようにして数え始めた。
「……五、六、七。うん、ぴったり。おじさん、見て、合ってるよ」
満足そうに微笑むミナを見て、ガイルはふと自分の指先を見つめた。
これまで数えきれないほどに金庫を破ってきたのも、この指先だ。
重々しい金貨の袋を、汚い金だと蔑みながらも掴み、持ち上げる感触は、いつも掌に残っている。
一方で、ミナの小さな指先は、真っ当な労働の対価である銀貨の重みを、宝物のように慈しみながら数えている。
「どうした? 店主がごまかすとでも思ったか」
ガイルが茶化すように問いかけると、ミナは真剣な表情で首を振った。
「ううん。でも、お父さんが言ってたの。お金は人の命と同じくらい大事なものだから、一袋の麦でも一枚の銅貨でも、適当に扱っちゃいけないんだって。お父さんも、いつもこうしてお釣りをちゃんと数えてたよ」
財布の紐をきつく締めながら語るその仕草は、もはや子供の遊びではなく、失った家族から受け継いだ誇りそのものに見えた。
「……そうか。商人になるなら、そういう細かさは何より大事なことだぞ。いい教えだな」
ガイルが努めて明るくそう褒めると、ミナは照れたように笑い、再び歩き出した。
「えへへ、ありがとう。私ね、お父さんとお母さんみたいな、ちゃんとした商人になりたいの。だから、今のうちから練習しておかなきゃ」
その言葉を聞いた瞬間、ガイルの胸に小さな、けれど鋭い棘のような違和感が走った。
この子が商人を目指す理由。それは単なる憧れではなく、もっと深く、切実な記憶に根ざしているのではないか。
並んで歩くミナの瞳は、夕暮れに染まり始めたベルク町の通りを、希望に満ちた眼差しで見つめている。
ミナには両親の記憶がある。これは孤児院の子供たちの中では珍しいことだ。
ただ、ミナは滅多に両親の話はしない。孤児院には、親の顔も知らない子供たちが多い。その子たちの前で親の話をするのは良くないことだ、と子供ながらに考えた結果だった。
だから、ガイルもミナの両親のことは知らなかった。
聞いたことがなかったのだ。
何かが変わる、と思って発した言葉ではなかった。
この健気で温かな少女を育んだ両親は、どのような人だったのだろうか。
そんな好奇心から出た、何気ない質問。
「……ミナのお父さんとお母さんは、どんな人だったんだ?」
ふと口を突いて出た言葉だった。並んで歩く少女の横顔が、少しだけ驚いたようにこちらを見上げる。
ミナは一瞬だけ躊躇うような素振りを見せたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。孤児院の他の子供たちの前では決して出さない、自分だけの宝物を見せびらかすような表情だった。
「お父さんはね、すごく計算が得意だったの。さっきみたいに、お釣りを数えるのもお父さんが教えてくれたんだよ。お母さんは、いつも笑ってて、人と話すのが上手だった。二人がやってたのは小さな商会だったけど、私は二人みたいになりたいの」
彼女が語る両親の姿は、ひたすら温かく、真っ当に生きてきた人々の象徴のようだった。
ガイルはその話を聞きながら、自然と目を細めていた。
「そうか。……二人は、立派な商人だったんだな」
「うん。だからね、おじさん。私、自分はすごく恵まれているって思ってるんだよ」
ミナはそう言って、前を向いた。
「恵まれている?」
「だって、私はお父さんとお母さんのことを知ってるから。顔も知らない子がいっぱいいる中で、私は二人がどれだけ一生懸命働いて、どれだけ私を可愛がってくれたか、全部覚えてる。思い出がある。それだけで、私は他の子よりずっと幸せなの」
十二歳の少女が口にするには、あまりにも切実で、それでいてあまりにも清らかな言葉だった。
思い出だけが彼女の杖なのだ。その健気さにガイルの胸は疼き、同時に一つの疑問が浮かぶ。
そんなに愛されていた子供が、なぜ、たった一人で煙突掃除の煤にまみれて生きているのか。
「……ミナ。二人は、どうして亡くなったんだ?」
静かな問いかけに、市場の喧騒が遠のいた気がした。
ミナは歩みを止め、夕暮れの影が伸びる地面をじっと見つめた。
「おじさんだから、話すね」
その信頼に満ちた前置きが、ガイルの喉を締め付ける。
「二人のね、お店……ライラック商会っていうんだけど、悪い噂を流されちゃって、あんまりお客さんが来なくなっちゃったの。それでもお父さん、最後に大きな仕入れをして、もう一度やり直そうとしてた。そのために、ずっと貯めてたお金を全部、用意してたんだけど……」
ミナの言葉が、震えた。
「そのお金を、泥棒に盗られちゃったの。全部」
ガイルの心臓が、跳ねた。
背負っていた荷物の紐を握る手が、不自然に強ばる。
「それでお店を続けられなくなって。お父さんもお母さんも、すごく悲しそうな顔をしてて……。ある朝、起きたら、二人ともいなくなってた」
ミナは「でもね」と続ける。
「お父さんの指はね、いつもインクで少し黒くなってて、その手で私の頭を撫でてくれるときが一番好きだった。お母さんは、お店にやってくる近所の人たちに、いつも余分にクッキーを配っちゃうような人でね、私にいっつも笑いかけてくれた」
ミナが語る記憶の景色には、夕暮れの市場の喧騒よりもずっと温かい、確かな幸福の匂いが満ちていた。その真っ当な営みを、たった一晩の、たった数秒の指先のきまぐれで、粉々にしてきた誰かがいる。ガイルは、自分の喉の奥が急激に干からびていくのを感じた。
「だからね、私、大きくなって商人になったら、お父さんたちのお店みたいな、ちゃんとしたお店をやりたいの」
ガイルは何も言えなかった。
これまで自分が「あくどい連中」から盗んできた数えきれないほどの金。その中に、悪い噂で弱っていた小さな商会……あっただろうか、なかっただろうか。全く思い出せなかった。
目の前の少女の人生を粉々に砕いたのは、自分なのか。
それとも、自分のような「名もなき泥棒」の誰かなのか。
真相は闇の中だ。一生かかっても思い出せないかもしれない。
だが、ガイルがこれまで「正義」だと信じてきた行為の果てに、このミナの絶望があったかもしれないという可能性が、冷たい毒のように全身に回っていく。
「……そうか、辛かったな」
ガイルは震える声でそれだけ言い、逃げるように帽子を深く被った。
視界が狭まる。
ミナの純粋な憧れも、お釣りを数える丁寧な指先も、今のガイルにとっては、自分を死に至らしめる鋭い刃にしか見えなかった。
◇
数日後の深夜。ガイルは再び、隣町の商館の屋根の上にいた。
目的は、シスターが懸念していた孤児院の屋根修理のための資金だ。
職人を呼び、材料を手配するには、手持ちの金では到底足りない。
(あの子たちが冬に凍えないように。俺が闇にまみれればいい。……それだけのことだ)
自分に言い聞かせ、ガイルは慣れた手つきで二階の窓へと取り付いた。
懐から取り出した細い針を鍵穴に差し込む。
これまでも数秒で防犯の要を無価値な鉄屑に変えてきた、一度として裏切られたことのない指先だ。
窓を開け、室内へ忍び込む。やがて目当ての金庫へたどり着いた。
だが、その瞬間だった。
脳裏に、昼間の市場で見たミナの指先が鮮烈に蘇った。
数枚の銅貨を、人の命と同じくらい大事なものとして慈しみ、数えていた、あの小さな指先。
『……それを、泥棒に盗られちゃったの。全部』
耳の奥で、ミナの震える声が聞こえた気がした。
途端に、冷たい汗が背筋を駆け抜けた。
鍵穴を探る針が、嫌な音を立てて震える。これまで一度も感じたことのない、生理的な拒絶反応がガイルを襲った。
(待て。この家の主は、本当に悪い奴なのか? 俺が今夜奪おうとしているこの金は、また別の誰かの……ミナの両親のような人間の、最後の希望ではないのか?)
一度芽生えた疑念は、猛毒のようにガイルの精神を侵食していった。
ターゲットは評判の悪い商会のはずだった。
だが、その評判を流しているのが、かつてミナの両親を陥れたような卑劣な商売敵ではないと、誰が断言できるだろうか。
ガイルはこれまで一度も、その評判が正しいのかどうか、確かめたことすらない。
カチリ、と小さな金属音が静寂の中に響く。
手が震え、針が鍵穴の奥で滑ったのだ。
「……っ、はあ、はあ……」
突然、息が上がった。肺が酸素を拒絶し、視界がちかちかと明滅する。
目の前の金庫に手をかけようとしたその時、ガイルは最悪の想像に捉えられた。
(もし、今ここで俺が捕まったら……どうなる?)
新聞には『義賊の正体は孤児院の支援者』と書き立てられるだろう。
ベルク町の人々は、自分を裏切り者と呼び、石を投げるに違いない。
それだけならまだいい。自分が死ぬだけのことだ。
だがあの孤児院は「泥棒の汚れた金で運営されていた犯罪者の巣窟」として、世間から抹殺される。泥棒の金で育った子供という消えない烙印を、自分の手であの子たちの額に刻むことになるのだ。
恐怖。
それは、これまで正義を盾に闇を駆けてきたガイルが、初めて味わう本物の恐怖だった。
「クソッ……あ」
金庫へ伸ばそうとした手が大きく震え、傍らにあった高級な飾り壺を床に突き落とした。
ガシャリ、と、夜の静寂を切り裂く絶望的な破壊音が響き渡る。
「誰だ! そこにいるのは!」
階下から番人の叫び声と、騒がしい足音が聞こえてくる。
ガイルは金に手を触れることもできず、転がるようにして窓から飛び出した。
夜霧の中を、がむしゃらに走る。
かつての鮮やかな引き際など、どこにもなかった。
背後から迫る追手の声に怯え、泥にまみれ、ただ一匹の卑屈な野鼠のように、ガイルは夜の闇へと逃げ込んだ。
屋根を直す金も、義賊としての誇りも、すべてを夜の底に置き去りにして。
震えが止まらないその手は、もはやミナの頭を優しく撫でることすら、許されないような気がしていた。
◇
夜霧が晴れ、無慈悲なほどの朝日がベルク町を照らし始めた頃、ガイルはようやく孤児院の裏門へと辿り着いた。
服は泥にまみれ、逃走の際に擦りむいた掌からは血が滲んでいる。
だが、そんな痛みなど、胸の奥で渦巻く生理的な拒絶に比べれば無に等しかった。
(もし、あの場で捕まっていたら……)
脳裏をよぎるのは、鉄格子の中に繋がれた自分ではない。自分の汚れた金で食い繋いできた子供たちが、世間から犯罪者の予備軍として石を投げられる光景だ。守るための手段だったはずの盗みが、今や守るべき場所を根こそぎ蝕む毒薬に変わっていた。
孤児院に泊まる際に使わせてもらっている部屋のベッドに倒れ込んでも、一睡もできなかった。
瞼を閉じれば、お釣りを数えるミナの丁寧な指先と、彼女の人生を壊した名もなき泥棒の影が交互に現れる。
「おじさん! 起きてる?」
聞き慣れたはずの声が、扉の向こうから響いた。
一点の曇りもない、弾んだミナの声だ。いつもなら仕事の疲れを吹き飛ばしてくれたその響きが、今のガイルには、自分の罪を容赦なく責め立てる声に聞こえた。
ガイルは這いずるようにして立ち上がり、重い足取りで食堂へと向かった。
「おじさん、おはよう! ……わあ、どうしたの、その泥! またお仕事で大変だったの?」
駆け寄ってくるミナの気配がする。彼女の小さな手が、泥のついたガイルの袖に触れようとした。
その瞬間、ガイルは反射的に身を引いた。
「……触るな」
地を這うような低い声に、ミナの動きが止まる。
ガイルは彼女を見ることができなかった。ミナの澄んだ瞳の中に、自分がかつて踏みにじったかもしれない「誰か」の絶望を見てしまうのが恐ろしかった。
「おじさん……?」
不安げに揺れるミナの声を背に、ガイルは震える手で、古びたソフト帽を深く、深く被り直した。
かつて子供たちが憧れて手を伸ばしたその帽子は、今や、彼の醜い疑念と罪を隠すための冷たい壁へと変質していた。
「……おはよう」
絞り出すようにそう告げたが、その顔は影に沈んで全く見えない。
ミナは立ち尽くしたまま、大好きだったはずの帽子のおじさんの背中が、見たこともないほど遠く、暗い場所に消えていくのを、ただ黙って見守ることしかできなかった。




