ハンカチと鍵穴
ベルク町の夕暮れは、パンを焼く香ばしい匂いと、家路を急ぐ馬車の轍の音に満ちていた。
「仕事」を終えて隣町から戻ったガイルは、町外れの小高い丘に建つ古い孤児院を目指して歩いていた。その手には、町で見つけた土産が握られている。
「あ! 帽子のおじさんだ! おじさんが帰ってきたぞー!」
門をくぐるなり、庭を駆け回っていた子供たちが歓声を上げて集まってきた。ガイルのトレードマークである古びたソフト帽を目指して、小さな手たちが一斉に伸びる。
「おいおい、そんなに引っ張るな。帽子が台無しになるだろうが」
苦笑しながらも、ガイルの目元は優しく細められていた。彼は肩に担いでいた大きな包みを、庭の井戸の傍らにどさりと置く。
「シスター、ただいま戻りました。……これ、新しい井戸桶です。今までのより一回り大きいですが、今使っている物より驚くほど軽い。腰を痛めていたでしょう?」
建物の陰から顔を出した年老いたシスターが、驚きと感謝で胸を押さえた。
「まあ、ガイルさん。いつもいつも、申し訳ありません……。あなたは本当に、私たちの救い主だわ」
「よしてください。商売のついでですよ」
「おじさん、お仕事お疲れ様!」
背後から、少し落ち着いた、けれど弾んだ声がした。
振り向くと、そこには頭から足先まで、うっすらと煤にまみれた少女が立っていた。ミナだ。
「ミナか。……また煙突に入っていたのか?」
「うん! 今日は三軒分も掃除したんだよ。おかげで、シスターに今月分のご飯代を渡せたんだから」
ミナは誇らしげに胸を張るが、その鼻先には真っ黒な煤がついている。小柄な体を活かした煙突掃除は、この孤児院の貴重な収入源だった。
「また全部渡したのか?」
「うん」
「少しくらい自分のために取っておけばいいだろう」
「シスターにもそう言われるんだけどね。今はみんなのご飯の方が大事だもん」
「あまり無理をするな。落ちたらどうする」
ガイルは膝をつき、懐から取り出した清潔なハンカチで、ミナの頬を優しく拭った。煤が舞い、夕日に透けて金色の粒子のように輝く。
「大丈夫だよ、おじさん。私、高いところは得意なんだ。おじさんみたいに、あちこちの町へお仕事に行く人になりたいから、体力もつけなきゃ」
「……俺みたいに?」
頬だけではなく、首筋にも煤汚れがついていた。そこも強すぎない力加減で拭う。
そっと触れた肌からは、冷たい秋風を浴びてなお、じんわりとした少女の確かな体温が伝わってくる。
「煙突掃除は真っ黒になっちゃうけど、私、おじさんに拭いてもらうの好きだよ」
ミナは目を細め、くすぐったそうに、けれど本当に嬉しそうに鼻を鳴らした。
「おじさんが拭いてくれるとね、なんだか私、すごく嬉しい気持ちになるの。おじさんが笑って、頭を撫でてくれるのが、私のいちばんのご褒美なんだよ」
そう言って、ミナは煤の染み込んだ硬い小さな手で、ガイルの作業着の袖をそっと握った。その瞳には、彼への濁りのない、信頼と憧れが宿っている。
「だからおじさんも、あんまり無理しないでね。あちこちの町へ行くのは大変でしょ?」
「……ああ。だが、お前たちの顔を見れば、疲れなんてすぐに消えてしまうさ。ミナも絶対に無理したり、怪我したりするんじゃないぞ。俺も悲しいし、シスターや皆も悲しむんだからな」
「……私が怪我したら、おじさんも悲しい?」
「当たり前だろう」
ガイルは立ち上がり、笑って彼女の頭を撫でた。
煤だらけの細い髪、労働で硬くなった小さな手。そのすべてが愛おしく、守るべきものだと感じられた。
自分の仕事はこの子たちのためにある。そう信じられる。
「さあ、夕飯にしましょう。ガイルさん、あなたも食べていかれるでしょう?」
シスターの呼びかけに、ガイルは「喜んで」と答え、ミナと手を繋いで食堂へと向かった。
繋いだ手の温もりを疑うことなど、今の彼にはあり得なかった。
◇
ベルク町から馬車で半日。商業都市ルミナスを覆う夜霧は、湿った重みを持ってガイルの全身を包んでいた。
数時間前まで孤児院で子供たちの笑い声を聞いていた男の面影は、そこには微塵もない。
ガイルは音もなく、自身の身長を超える豪商の屋敷の壁を越えた。
ミナの頭を優しく撫でたその手は、今や冷たい石の感触を瞬時に読み取り、最適の足場を選び出す道具へと変貌している。
この屋敷の主は、あくどい商売で強引に儲けているという悪い評判の商会主だ。
(その報いが、俺だ)
感情を殺した思考が、冷淡に獲物を値踏みする。
二階の書斎。厳重な鉄製の鍵がかけられた窓の前に立ち、ガイルは懐から一本の細い針を取り出した。
ミナの煤を拭ったあのハンカチは、今はこの指先を汚さぬための緩衝材として使われている。
――チッ、という微かな金属音。
ものの数秒で防犯の要が、ガイルの指先によって無価値な鉄屑へと成り下がった。
部屋へと滑り込み、足音一つ立てずに金庫の前へ膝をつく。
金庫の中には、重々しい金貨の袋が詰め込まれていた。
ガイルはそれを手に取る。
それは、ミナが煙突の煤にまみれて稼いだ数枚の硬貨とは似ても似つかない、どろりと重く、欲望の脂が染み付いたような感触だった。
「……汚ねえ金だ」
(俺は奪っているんじゃない。本来あるべき場所へ、戻しているだけだ)
あくどい商売で私腹を肥やし、持たざる者を踏みつけにして蓄えられた富。この重みの一片が消え去ったところで、この屋敷の主が飢えることも、明日の暖炉の薪に困ることもない。
だが、これだけの金があれば、あの古びた孤児院の子供たちが、温かいスープを喉に流し込み、お腹を膨らませて眠ることができる。
ならば、どちらが正しいかなど、考えるまでもない。
闇の中で、ガイルの唇が微かに歪んだ。
この金を、明日の朝にはベルク町の路地裏へ、あるいはシスターの机の上へ放り込む。
略奪者から奪い、持たざる者に分ける。それは彼にとって、この理不尽な世界に対する唯一の正しい回答だった。
自分が夜の闇を駆けるのは、あの清らかな子供たちが、明日も笑って過ごせるようにするためだ。
そのための泥なら、喜んで被る。
その歪んだ矜持に、一点の曇りもない。
ガイルは手際よく金貨を袋へ詰め直すと、影に溶け込むようにして部屋を後にした。
ガイルは再び、ベルク町の「優しいおじさん」に戻るための、長い夜の道を歩き始めた。
◇
翌朝のベルク町は、抜けるような青空に恵まれた。
ガイルが通りを歩けば、あちこちから声がかかる。
帽子のおじさんは、この町になくてはならない風景の一部になっていた。
「おはよう、ガイルさん! 今日も精が出るね」
威勢のいい声に足を止めると、パン屋の親父が焼き立てのパンを入れた籠を抱えて笑っていた。
「ああ。孤児院の連中が、あんたのところのライ麦パンを楽しみにしていてね。昨日、隣町から戻ったばかりで腹を空かせているんだ」
「ははあ、また隣町へ仕事に行ってたのかい。あんたも働き詰めだねえ。ほら、これはおまけだ。子供たちに持っていってやりな」
親父は大きな円パンを一つ、包みに放り込んだ。
「……悪いな。いつも助かる」
「気にするなって。あんたみたいな気前のいい商人が町にいてくれるだけで、こっちは助かってるんだからよ」
ガイルは会釈して歩き出す。町の人々にとって、ガイルは「他所で稼いで、この町で使う」理想的な善人だ。
その稼ぎが、昨夜隣町の金庫から抜き取った金であるとは、誰も疑っていない。
孤児院の門をくぐると、再び喧騒が彼を包んだ。
「おじさん、おかえり! 今度は何を持ってきてくれたの?」
「ガイルさん、見て! この前の本、全部読んだよ!」
幼い子供たちがガイルの裾を引っ張り、昨日の報告を競い合うように叫ぶ。
「こら、みんな! ガイルおじさんは仕事帰りで疲れてるんだから、そんなに飛びついちゃダメでしょ!」
凛とした声が響き、子供たちが一斉に縮み上がった。
腰に手を当てて立っているのはミナだ。彼女は年少の子の手を引き、テキパキと列を整えさせる。十二歳の彼女は、この孤児院において既に立派なお姉さんであり、シスターの頼れる助手でもあった。
「いいんだよ、ミナ。これくらい、なんてことはない」
「ダメ。おじさんは優しすぎるんだから」
ミナは小さく溜息をつきながらも、ガイルの荷物からパンの袋を受け取るのを手伝った。
昼下がり、ガイルは中庭の片隅で、脚の折れた椅子を直していた。
「おじさん、すごい! 何でもできるんだね!」
傍らで作業を眺めていた少年が、目を輝かせて声を上げる。
「何でもじゃないさ。椅子くらい、コツを掴めば誰でも直せる」
ガイルは手慣れた手つきで釘を打ち込み、強度を確かめる。椅子を直す、鍵を直す、あるいは鍵を外す――彼にとって、指先を使う作業はすべて延長線上にあるものだった。
そこへ、シスターが心配そうな顔で近づいてきた。
「ガイルさん、申し訳ありません……。椅子の修理までしていただいて。それから、その……」
シスターは言い淀んだ後、建物の古い屋根を見上げた。
「冬が来る前に、あの屋根を直さなくてはと思っているのですが。最近の雨漏りがひどくて……」
「なら、次に町へ行ったとき、腕のいい屋根職人を探してきますよ。材料も俺の方で手配しましょう」
「まあ、そんな! あなたに頼ってばかりでは……。寄付だけでも十分すぎるほどいただいているのに」
恐縮するシスターに、ガイルは穏やかに笑いかけた。
「俺が好きでやってるんです。あの子たちが冬に凍えるのは、俺の性分に合わない。気にしないでください」
シスターに背を向けたガイルの瞳から、ふと笑みが消える。
(屋根の修理か。……職人を呼ぶなら、今ある金貨じゃ、ちと足りないか)
彼の中に迷いはなかった。あの子たちの笑顔を、屋根のある暖かい夜を守るためなら、自分はいくらでも闇にまみれてみせる。
ミナがその小さな背中で子供たちをあやしている姿を見ながら、ガイルは自分の正義を深く、深く心に刻み込んでいた。
◇
孤児院の食堂には、焼き立てのパンと、薄いけれど温かいスープの香りが満ちていた。
ガイルが椅子に座るやいなや、左右を小さな子供たちが占拠する。
「ずるい! 僕がおじさんの隣だったのに!」
「私のほうが先だったもん! おじさん、こっち向いて!」
子供たちの他愛ない争いに、ガイルは順番だ、となだめながら、不器用な手つきでパンを千切ってやる。その光景は、どこからどう見ても、子煩悩な父親と子供たちの姿そのものだった。
そこへ、裏口から冷たい夜風と共にミナが戻ってきた。
今日の仕事を終えた彼女は、昼間よりもさらに煤で黒ずんでいるが、その瞳だけは満足げに輝いている。
「ただいま! ……あ、おじさん、また子供たちに困らされてる」
ミナは苦笑しながら、手際よく自分の顔を洗い、空いた席に腰を下ろした。
「ミナ、お疲れ様。……今日も、高いところまで登ったのか?」
「うん。屋根の上からね、隣町の明かりが少しだけ見えたよ。おじさんはいつも、あっちの方へ行ってるんでしょ?」
ふとした問いかけに、ガイルはスープを啜る手を止めた。
「……ああ。仕事だからな」
「どんな仕事なの? いつも色んな町へ行って、色んな人とお話しするの?」
純粋な好奇心。ガイルは、闇を駆け、鍵をこじ開ける自分の指先を無意識に隠すようにして笑った。
「ああ。……まあ、あちこち歩き回って、必要なものを運んだり、整理したりする仕事だ」
嘘ではない。奪った金を、必要な場所へ運んでいるのだから。
ミナは目を輝かせ、身を乗り出した。
「いいなあ。私ね、大きくなったらおじさんみたいに、色んな町へ行ける人になりたい。そこでたくさん働いて、おじさんみたいに誰かを助けられる人になるのが夢なんだ」
ガイルの喉の奥で、乾いた笑いが漏れた。
「……俺みたいになど、なるもんじゃないさ」
「またそんなこと言って! おじさんは私の憧れなんだから」
ミナの真っ直ぐな言葉が、ロウソクの火に照らされてガイルの胸に吸い込まれていく。
この子たちの未来を守るために、自分は明日もまた仕事へ行く。そのことに一点の迷いも持っていなかった。
「よし、それならしっかり食べろ。体が小さくちゃ、他の町までは歩けないぞ」
「わかってるってば!」
賑やかな笑い声が、古い食堂に響き渡る。
温かい、幸せの風景が、確かにそこにはあった。




