激突
窓ガラスは無残に砕け散っていた。
床一面には割れたガラスの破片が散らばり、家具は倒れ、部屋の中はまるで嵐が通り過ぎた後のように荒らされている。
ミアは震える手で床を這いながら必死に逃げていた。
息は乱れ、涙で視界が滲む。
「お願い……!」
「お願いだから、やめて……!」
返事はない。
部屋の奥から聞こえてくるのは、人間の声ではなかった。
『ガルルルルル……。』
腹の底まで響く低い唸り声。
ミアは恐る恐る顔を上げる。
暗闇の中。
二つの赤い瞳だけが妖しく光っていた。
ゆっくりと姿を現したのは、巨大な狼。
いや――
人狼。
二メートルを優に超える巨体。
黒い毛並みは月明かりを浴び、不気味な光沢を放っている。
鋭い牙からは血が滴り落ち、爪は床板へ深く食い込んでいた。
人狼は焦る様子もなく、一歩、また一歩と距離を詰める。
逃げられることなど最初から分かっているかのようだった。
ミアは後ずさる。
手を床につきながら必死に距離を取る。
しかし。
背中が壁へぶつかった。
もう逃げ場はない。
人狼はゆっくりと牙を剥く。
獲物を仕留める直前のように口元を歪めた。
ミアは震える声で呟く。
「いや……。」
「来ないで……。」
目を閉じる。
死を覚悟した、その瞬間だった。
ドォォンッ!!
凄まじい轟音と共に玄関の扉が内側へ吹き飛ぶ。
木片が部屋中へ飛び散った。
次の瞬間。
二メートルを超える人狼の巨体が横から弾き飛ばされる。
壁へ激突。
バキィィン!!
木材が砕け、家全体が大きく揺れた。
人狼は瓦礫の中へ叩き付けられる。
その前へ、一人の男が立っていた。
アレックスだった。
片手には巨大な斧。
鋭い眼差しは人狼だけを見据えている。
アレックスは振り返らずに叫んだ。
「無事か!!」
ミアは涙を流しながら何度も頷く。
「に、逃げて……!」
「お願い……!」
「勝てない……!」
しかしアレックスは一歩も退かなかった。
むしろ、人狼との距離をゆっくり詰める。
その背中からは一切の恐怖が感じられない。
倒れていた人狼が静かに立ち上がる。
二メートルを超える巨体。
月明かりが黒い毛並みを照らし、その姿をより巨大に見せていた。
赤い瞳がアレックスを捉える。
まるで獲物ではなく、初めて現れた強敵を見るような目だった。
アレックスは斧を両手で握り直す。
誰も動かない。
互いの呼吸だけが静かな部屋へ響いていた。
やがて人狼が低く唸る。
『ガルルルルル……。』
次の瞬間。
地面を蹴った。
人間では到底出せない速度。
一瞬でアレックスとの距離を詰め、鋭い爪が一直線に顔面を狙う――。
アレックスは身体を捻り、その一撃を紙一重でかわした。
鋭い爪が頬をかすめる。
ザシュッ。
皮膚が浅く裂け、血が一筋流れ落ちた。
だが、アレックスは止まらない。
すれ違いざま、腰を回転させる勢いを乗せて斧を横薙ぎに振るう。
ブォンッ!!
重い風切り音が部屋に響いた。
人狼は咄嗟に左腕を差し出す。
ガギィィンッ!!
鈍い衝突音。
斧の刃が黒い毛並みを切り裂き、肉へ深く食い込んだ。
赤黒い血が飛び散る。
しかし、人狼は苦しむどころか、そのまま腕を強引に振り抜いた。
凄まじい腕力だった。
アレックスの身体が宙へ浮く。
「ぐっ……!」
そのまま壁へ叩きつけられる。
ドゴォッ!!
壁板が砕け、家全体が軋んだ。
ミアは思わず悲鳴を上げる。
「アレックス!!」
土煙が舞う。
その中から、ゆっくりと一人の影が立ち上がった。
アレックスだった。
口元から血を流しながらも、その目はまったく死んでいない。
斧を拾い上げ、再び構える。
「……まだだ。」
人狼は低く唸りながら傷ついた左腕を見下ろす。
深い傷。
確かにダメージは入っていた。
人狼が再び飛び掛かる。
今度は真正面からだった。
アレックスも逃げない。
真っ向から踏み込む。
距離が一気に縮まる。
人狼が右腕を振り下ろした瞬間――
アレックスは一歩だけ懐へ入り込んだ。
「はぁぁぁっ!!」
全身の力を込めた拳が、人狼の顔面へ叩き込まれる。
ドゴォォッ!!
鈍い衝撃音が響く。
人狼の頭が大きくのけ反った。
巨体が数歩後ろへ下がる。
床板が軋み、砕ける。
その光景にミアは息を呑んだ。
人狼が――
人間相手に後退した。
初めてだった。
アレックスは荒く息を吐きながら斧を握り直す。
右肩からは血が流れ続けている。
それでも一歩も退こうとはしない。
一方、人狼の左腕にも深い傷が残っていた。
血が滴り落ち、床を赤く染めていく。
互いに視線を逸らさない。
静寂が部屋を包む。
数秒。
いや、数十秒にも感じられる長い睨み合い。
そして――。
人狼はゆっくりと後ろへ下がった。
アレックスは一歩踏み出す。
「逃がすか!」
その瞬間、人狼は窓枠へ飛び乗る。
割れた窓から夜の闇へ飛び出そうとした。
アレックスもすぐに追い掛けようとする。
だが、その時。
「アレックス!」
震えたミアの声が響いた。
アレックスは一瞬だけ振り返る。
そのわずかな隙。
人狼は森の闇へと姿を消した。
静寂だけが残る。
アレックスは窓の外を見つめ、小さく息を吐いた。
「……逃げたか。」
ミアはその場へ崩れ落ち、涙を流しながら嗚咽を漏らす。
「……助かった。」
「本当に……助かった……。」
その夜。
人狼は初めて獲物を仕留めることができなかった。
しかし――
森の奥では、傷ついた人狼が静かに笑っていた。
「アレックス……。」
「やっぱり、お前が一番邪魔だ。」
月明かりの下。
赤い瞳だけが不気味に輝く。
その時だった。
ザッ……。
誰かが落ち葉を踏む音が響く。
人狼はゆっくりと振り返る。
「……まさか、ここまで追ってきたのか。」
しかし。
人狼の前に立っていたのは、アレックスではなかった。
闇の中から、一人の人影が静かに姿を現す。
そして、低い声でこう告げた。
「……仲間にしてくれ。」




