No.45 マオ:特攻服の聖母とAカップの意地
逃げ場のない路地裏、湿ったコンクリートの壁が僕の逃げ道を塞いでいた。
背後から迫るのは、かつて僕の精神を幾度となく蹂躙した、あの高圧的な怒鳴り声の残響だ。
「お前は何をやらせても無能だな」「期待して損したよ」
そんな言葉が物理的な形を成し、鋭い釘を無数に生やした金属バット、ネイル・バットとなって空中を不気味に浮遊している。
一つ、また一つと、暴力的な威圧感を放つ鉄塊が僕を包囲していく。
前世で統計データの中に逃げ込んでも消せなかった、あの冷たい「序列」の恐怖が僕の膝を笑わせた。
このまま、言葉の釘に貫かれて終わるのか。
僕は、この理不尽な重圧を「熱」で塗り替えてくれる存在を渇望し、魂を振り絞って叫んだ。
「出でよっ、ぱいぱいっ! ナンバー45!」
ぼよよぉん!
路地裏に響いたのは、いつものような地響きを伴う重厚な音ではなかった。
もっと硬質で、薄い板がしなるような、張り詰めた決意を思わせる鋭い弾力音だ。
そこに現れたのは、金髪を逆立て、背中に龍の刺繍が入った特攻服を羽織った少女、マオだった。
だが、その背中はお世辞にも大きくはない。
三白眼を鋭く光らせてはいるが、特攻服の下のAカップの胸板は、僕と同じように小刻みに震えていた。
「……ア、アタイを呼んだのはあんたかっ? ビビってんじゃねーよ、一肆。アタイが……アタイがまとめてヤキ入れて……っ」
強気な言葉とは裏腹に、釘バットの群れを見上げる彼女の顔は青ざめている。
「マオ、逃げるぞ! こいつらはまともにやり合える相手じゃない!」
「……え、あ、当たり前だろ! 戦略的撤退っすよ!」
無双のヒロインを期待した僕の前に現れたのは、僕と同じように「威圧」を恐れ、それでも精一杯の虚勢を張って隣に立つ一人の少女だった。
僕たちは互いの袖を掴むようにして、暗い廃屋の奥へと走り出した。
這い込んだのは、埃とカビの臭いが充満する廃屋の一角だった。
壊れかけの扉を力任せに閉め、僕は近くにあった重い木箱を積み上げてバリケードを作る。
外からは、キィキィと金属が木を削る不快な音が絶え間なく響いていた。ネイル・バットたちが「逃げても無駄だ」「お前なんて誰も必要としていない」と、前世のトラウマを増幅させるような呪詛を、扉の隙間から吹き込んでくる。
「ハァ、ハァ……っ。一肆、アイツら……しつこすぎんだろーが……っ」
マオは壁に背を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。
特攻服の下、薄いTシャツ越しに見える彼女のAカップの胸板が、激しく、そして弱々しく上下している。
これまでのヒロインたちのような、全てを包み込むような包容力はない。ただ、僕のすぐ隣で「生きた人間」が必死に恐怖と戦っているという、剥き出しの鼓動がダイレクトに伝わってくるだけだ。
だが、マオは震える手でポケットを探ると、小さなカセットコンロと使い込まれたフライパンを取り出した。
「……何してるんだ、マオ? こんな時に」
「……うるせー。腹が減ってちゃ、いい睨みも利かせらんねーだろ。アタイらは……アイツらの言いなりになんて、ならないっすよ。まずは、メシだ」
彼女は絆創膏だらけの指で、慣れた手つきで火を点けた。
狭い廃屋の中に、場違いなガスの燃える音と、じわりと温かな火の色が広がる。
外では威圧の象徴である釘バットたちが扉を叩き壊そうと暴れているのに、マオはこの小さな火の上に、自分たちの「尊厳」を並べようとしていた。
フライパンから漂い始めたソースの焦げる匂いが、冷え切った僕の鼻腔をくすぐる。
「アタイが、最高にアツいのを焼いてやる。だから……一肆、そんな情けねー顔すんな。アタイが、ここにいるだろーが……っ」
彼女の言葉は震えていたが、その小さな胸に秘められた意地は、冷たい序列に支配された外の世界よりも、ずっと確かな熱を帯びていた。
ついに扉が粉砕された。
釘の生えた重厚な鉄塊が、僕の脳髄を直接弄るような怒号を響かせながら、雪崩のように室内に侵入してくる。
マオはフライパンを放り出すと、焼きたてのたこ焼きが乗った皿を背後へ隠し、僕の前にその細い体を割り込ませた。
「アタイらの……アタイらが必死で作った温かいモンを、土足で汚すんじゃねぇっすよ!」
彼女の背中は相変わらず小さく、特攻服の袖は小刻みに震えている。だが、剥き出しになった項からは、意地でもこの場所を譲らないという強固な意志が、熱気となって立ち上っていた。
僕は震える指をマオの肩に添え、彼女の小さな胸の奥で爆発しそうな「居場所への執着」を解析した。
「マオ、過去の威圧なんて、ただのアツアツの軽食で十分だ。その胸に宿る、日常の熱量を見せつけてやれ!」
僕の『π=314』の演算が、マオの心臓に最も近いAカップの胸板へと、全ての因果を無視して一点に収束していく。
「まんまるたこ焼きカウンター!」
マオは悲鳴のような叫びと共に、迫りくるネイル・バットに対して真っ向から、そのAカップの胸でヤンキー特有のガン飛ばし体当たりを敢行した。
冷酷な釘の刃が彼女の胸に触れた瞬間、そこから溢れ出した家庭的な熱気が鉄を芯から融解させる。
ジューッ、という食欲をそそる激しい音。
暴力の象徴だった金属は、彼女の熱い魂と僕の演算によって瞬時に鋭利な角を失い、丸く、アツアツのたこ焼きへと書き換えられた。
ネイル・バットの群れは次々と床に落ち、香ばしいソースの匂いと共に、ただの円満な夕食の欠片へと成り下がっていった。
粉塵が収まり、静まり返った廃屋に、香ばしいソースの匂いだけが漂っていた。
マオは皿に溜まった「元・凶器」のたこ焼きを一つ、不器用に爪楊枝で刺すと、僕の口元へ突き出した。
「……ほら、食えっすよ。アタイの特製たこ焼き、冷めたら不味くなるんだからな」
強がってはいるが、彼女の絆創膏だらけの指はまだ小さく震えている。
僕たちはガラクタの上に腰を下ろし、ただの「逃亡者」同士として、熱いたこ焼きを分け合った。
「マオ、ありがとう。……あの、特攻服、汚れちゃったな」
「……気にすんな。こんなもん、勲章みたいなもんっすよ」
マオはぶっきらぼうに答えると、僕の隣に座り直し、自分の特攻服を脱いで僕の肩にそっと掛けた。
Aカップという、心臓の鼓動がダイレクトに伝わるほどの距離。
彼女の小さな体温が、特攻服に残った石鹸の匂いと共に、僕の強張った心を解かしていく。
僕は限界を超えた統計データアナリストの脳で独白を開始した。
威圧という名の冷酷な外部圧力データが、彼女の「家庭的な熱量」という名の演算によって、完全に無害なカロリーへと還元された。
『π=314』の調和に基づいたこの「安らぎのプロトコル」は、前世で僕を苦しめたあらゆる序列やマウントを、ただの「空腹を満たすための変数」へと書き換えていく……。
「……一肆。……アタイ、あんたみたいな頼りねー奴、放っておけねーっすよ」
マオは僕の腕にそっと小さな胸を寄せ、自分もそのまま、安堵したように瞼を閉じた。
特攻服の刺繍の感触と、隣から聞こえる確かな鼓動。
かつての僕を縛っていた「あるべき姿」なんて、もうどこにも見当たらない。
やはり、世界は丸いほうがいい……











