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砂時計の山頂は、まだ揺れている(下)


 その日のチェスも、レナが好きな定石――イタリア布局に似た形で始まった。


 先行の証である、白い駒を私は想像する。そして二人の間で小さな取り決めとなりつつある、決まった一手を宣言した。


「e4」


 黒い駒の操り手であるレナは薄く微笑み、同じように決まった手で応じる。


「e5」


 今日も楽しい時間が始まりますね、あたかもそう囁きかけるように。


 すると同じ縦軸に存在する兵士が、二歩ずつ進み対面を果たす。こんにちは、と挨拶出来る距離に。これは二人だけにしか通じない、一つの作法だった。


 私はレナと目で会話すると、次の一手を口にし、城を飛翔させる。


「Bc4」


 レナが黒騎士を動かす。


「Nf6」


「d3」

「c6」


「Nf3」

「Be7」


 私たちはいつもの飴色のソファに腰かけながら、外の世界には観測されない頭の中で、二人のチェスをしていた。


 空想のチェス盤。縦は数字、横はアルファベットで番号を振る。英式で行うことにしたので、Kはキング、Qはクイーン、Nはナイト、Bはビショップ、Rはルークを表す。


 その後に続くのが、その駒が動く盤上の位置。ポーンはことさらPとは呼ばず、動かす位置だけを呼ぶ。その場所以外に行く駒が無い場合、駒の名前を宣言しないこともある。


「0-0」

「Qc7」


「Re1」

「0-0」


 0-0は王の入城。キャスリングという、キングとルークを一手で同時に動かす特殊な手を指す。


「Nbd2」


 私の白いナイトを受けて、彼女はゲームを動かした。


「d5」


 ブラインドチェスを出来る頭の柔らかさはあったが、私たちのチェスの腕前は大したことはない。ただお互い、盤上で出来るだけ奇麗な詩を紡ごうとしていた。


「Bb3」


 レナの一手をビショップで受けた私は、彼女の手を待つ。

 目の前の少女は右手の親指を小さな顎に当てた後、ナイトを跳躍させた。


「Nbd7」


 予想していた手に、私は即座に「ed5」と返した。

 レナは少し悩んだ後に言う。


「cd5」


 私は苦笑を漏らしながら続ける。


「c4」


 今度は彼女が「d4」と、即座に応じた。


 ……良い手だ。私は少しの間考える。しみじみと空想の盤上の詩を読み返すと、清らかな朝の空気の中にいるような心地がした。


 するとレナが、机の上に持ち出した砂時計をひっくり返す。

 年頃の少女らしい、少し生意気な、しかし清々しい悪戯顔。


「砂時計の山頂が揺れなくなったら、先生の負けですよ」


 私は彼女と頬笑みを交換する。

 二分を図る時計が、さらさらとこぼれ始める。


 このやり取りはお馴染みになっていた。


 お遊びのため、持ち時間を計る対局時計は使用していない。しかし私の部屋には実用半分、装飾半分で、紅茶道具として揃えた幾つかの美しい砂時計があった。


 いつかのチェスの際、私が次の手を考え込んでいる時に、壁際のチェストの上に置かれていたそれを、レナが見つけた。


『先生』


 そう呼びかけた後、睡蓮の花のように美しい手で、砂時計をひっくり返す。柔和に頬笑み、彼女が持ち時間を計る真似をしたのが、始まりだった。


「Nd4」


 私はレナの言葉を受けて、ナイトを動かすことにした。


「Nc5」


 彼女もまたナイトで応じる。


 娼館にレナが来て、二十日が過ぎていた。彼女は少しずつ娼館での生活に慣れ、娼婦としての自分が持つべき、世界への認識を持ち始めていた。


 精神は安定状態にあり、教育訓練も順調に進んでいると報告を受けた。

 そして、だからこそ――。


「Nb5」

「Qd8」


 時に空を仰ぎ見ながらも、大地に縛り付けられ、地を這い続ける人間。その全ての者に降り注ぐ、時間と言う名の砂。


 行くばかりで返らぬものの悲哀を纏い、机上の砂時計の山は、揺れるのを止めていた。私たちはゲームに意識を集中させる。


「Re5」

「Nd3」


「Re2」

「Bg4」


「Nf3」

「Bf3」


 互角と言って差し支えない勝負が続いていた。

 詩は拙いながらも、二人の間で懸命に紡がれる。


 朝露を宿した花弁から零れる、一粒の水滴のような静けさ。梢を打ち鳴らす、冷たい風の感触。一瞬を貫く、稲光の激しさと寂しさ……孤独。


 盤上には、時にそのような美しいものが表現されるときがある。


「先生」


 彼女はそのゲームの最中、私に呼びかけた。

 そこで、何でもない風に言う。夏の通り雨のように、余韻を残さず。






「私、今夜、初仕事をします」






 その声は、悲しい祈りのように私の耳に届いた。


「そうですか」

 

 事前に娼館の管理者から知らされていた私は、静かに答えた。

 出来るだけ、何でもない風に。少しだけ、下手に。


「えぇ」


 レナは私を一度じっと見た後、窓に視線を移して言った。

 初めて会った時と同じように、自分の悲しみを見つめるような目をしながら。



「今夜です……今夜」



 私も彼女と視線を揃えるように、同じく窓を見た。

 フィレンツェの黄昏は、硝子を通じて部屋に舞い降りてくる。


「夕陽の光は、優しいですね」


 レナが目を細めて、問いかけるように言う。


「まだ物事をはっきりと照らすだけの光があるのに……濃い影があって、隠しておきたいこと、そっとしておきたいことを許してくれる。そんな気がします」


 彼女の顔は、勝負が終わった後のチェス盤のようだった。


 多くの駒が姿を消し、王は倒れ、激しい戦いの記憶は去る。残ったわずかの駒は自らの使命を終え、彼らの作る憂愁が、盤上に、もの悲しい空洞となって広がる。


 私にそんなことを感じさせる顔だった。

 

 ただ、死の暗闇に覆われている気配は感じなかった。

 それは私が見守って来た多くの少女たちに見られた、諦観の表情だった。


 私は黄金に染まる空を眺めながら、ゲームを再開した。


「gf3」


 それに対して、彼女の受けた手は良くなかった。

 数秒の沈黙。レナはゆっくりと顔を元の位置に戻し、口を開く。


「Nh5」


「Re7」


 白のルークがレナのビショップを奪うように動き、敵陣に侵入した。

 私はそれを悲しくも、一つの象徴のように捉えていた。


 この一手が勝敗を分ける一手となり、それから十手ほどして、レナは投了した。


「先生は、容赦がないですね」


 どんな感情の色も灯さない、透明な表情で、彼女は言う。


「容赦をしたら……」


 君が怒るから。

 その場の性格に、出来るだけ陽気な物を交えようと、私は答えた。


「え……?」


 レナは、その一言に眉を上げた。

 やがて苦笑するように、優しく鼻から息を抜く。寂しい感慨を引き連れた笑顔。


「そうでしょうか?」


 そして何処か楽しそうな声音で尋ねてきた。

 私は彼女の問いかけに、えぇ、と、口元を綻ばせて応じる。


「本当に、そうでしょうか?」


 その問い方は、レナの癖みたいなものだった。

 私は続けて同じように応える。


 するとレナは笑みを深めた後、また窓越しに夕陽を眺めた。

 目を伏せ、何かに耐えるように言う。口元は笑ったまま。 



「先生がそう言うなら、そうかも……しれませんね」



 静寂が二人の間に覆いかぶさる。

 私は息をすることを忘れたようになり、注意深くレナを見守った。 


「私、もう行きます」


 レナが私に向き直る。晴々とした、人生に対する諦め。

 見る者の心を、刹那に切なく締め上げる……そんな……。


「今日は早く切り上げさせてもらってもいいですよね? 夜に……備えなくてはいけませんので」


 私は息苦しい程の緊張を呑みこみながら、首肯した。

 それを合図に、レナは立ち上がる。


「それでは、先生、さようなら」


 夕日のように、一刻ずつ変わって行ったレナの表情。


 立ち上がった私はにこりと頬笑み、また明日、と言った。

 彼女を扉の前まで見送る。


「先生は……」


 部屋から退出する間際、レナは振り返って私に尋ねた。



「先生はどうして、ここにいるのですか?」



 彼女の二重瞼に縁取られた、黒い目を覗きこむ。表面は強い意志の輝きに覆われていたが、その底には、言い知れぬ寂寥が見てとれた。


 一瞬の沈黙を挟んだ後、私は答えた。出来るだけ淡々と。

 ここにしかいられないからだよ、と。


「日本には、戻らないのですか?」


 口元に笑みをためて、頷く。

 レナが悲しそうに、眉をひそめる。


「それは……どうしてですか?」


 私はその問いには、何も答えなかった。

 彼女は迷ったように表情を曇らせて俯いた後、顔を上げて言った。


「昔……孤独はこの世で最も憎むべき悪魔だ、と、そんなことが書いてある本を読みました」


 私たちは無言で見つめ合う。

 レナが縋り付くような眼差しで尋ねる。


「先生は、孤独についてどう思いますか?」


 私は一度、自分のつま先を見るように視線を落とした。やがて彼女に微笑みかける。印象や思考を共有することが、最上の喜びであると語るように。


 出来るだけ、自分の心に忠実に答えた。


「孤独は」


 人間が背負うべき、最低限の荷物だと思っている……と。





 世の中に絶えて桜のなかりせば。桜の花が散る錯覚。

 レナは嬉しそうに、悲しそうに笑った。





 ♯ ♯ ♯ ♯ ♯





 翌日のいつもの時間、私の部屋には、いつになく陽気な調子のレナがいた。


 彼女は早口で、色んなことを話した。一つの話題が途切れると、無言を恐れるように、直ぐに新たな話題へと、不器用に飛ぶ。


 私はそれを危ぶみながらも、決まったカウンセリング時間を超え、彼女の中から言葉が尽きるまで付き合った。


 結果、レナは泣き崩れ、私は彼女の理解者の振りをして胸を貸した。


 その翌日は精神が安定していた。

 一日目と同じ客が前の夜にも訪れ、一晩中、レナと遊んだようだった。


 そして更に翌日、レナはその客に身請けされた。


 これは度々あることだった。一度だけの楽しみでなく、高級娼婦となる素養を持った少女を自分の手元に置くべく、娼館を訪れる客も少なくない。


 特に初物を好んで買い上げる客に、その傾向が強いと聞く。

 もっとも娼館側も、そういった客を選んで、初物を差し出すのだろうが……。


 そうして私の前から、レナは姿を消した。

 管理者から、レナが私に最後の挨拶をしたがっていると連絡を受ける。


 だが私はそれを断った。

 レナに身請け先でも、生き続けてもらいたいと思ったからだ。

 

 人間はたとえ些細なものであっても、希望がある限り、衝動的な自殺を抑えることが出来る。生き続けることが出来る。


 私に転移し、好意を持っていたレナ。呪いは簡単には消えない。


 感謝や別れの言葉を、私に告げることが出来なかったこと。それが未練や希望となって、いつか私に会うことを目標に、生き続けることが出来るかもしれない。


 大学病院時代にも、転移に絡んだ問題ではないが、それに近いことがあった。


 合併うつ病と呼ばれる、身体疾患を有する高齢のうつ病患者さんが退院する際、私は関連病院に赴いていた為、挨拶を交わすことが叶わなかった。


 それから何年かした後、私に会いに、その老人が病院に来てくれた。


 「その説は、お世話になりました」と言った後、

 「おかげさんで元気にやっとります」と言った後、


 彼は自宅への帰り道、ビルに登り、そこから飛び降りた。即死だった。

 

 生前、看病と看護に疲れ、精神の病について理解のない家族に辟易しながらも、彼はうわ言のようにこぼしていたそうだ。


「お礼を言いに行かにゃ、お礼を言いに行かにゃ」


 あの日、忙しさにかまけ、老人の心理状況を見抜けなかったことを、私は未だに悔いている。多忙を理由に目を曇らせた、無能な精神科医。


 話をレナに戻す。


 彼女の家は、娼館に支払われた莫大な身請け金の一部を受け取ることで、助かるだろう。だがレナは家族の元に戻ることは出来ない。一生を身請け先で過ごすことになる。


 この世界に対し、彼女から未練が失われてしまうことを、私は危険視した。

 だから面会は体調不良を原因に断り、管理者に言葉を託すだけにした。



「またいつかお会いしましょう。その時は二人で、ブラインドチェスを」



 その言葉にレナは、「はい」と頷いたそうだ。


 レナが束の間の自由を得て、私に会いに来るようなことがあったら……。

 もう決して、見間違わない。フィレンツェの空を仰ぎながら、静かに決意した。




















 ――だがレナはそれから二ヶ月後に、自殺した。

 

















 レナは自分の部屋で首を吊ったそうだ。


 そのことを私は、メールで知らされた。身請け先の館に勤務するという、メールでしかやり取りしたことのない心理カウンセラーの男から。


 引き継ぎは滞りなく行われた筈だが、彼は失敗した。いや、それは彼ばかりの責任ではないのかもしれない。どう見ても、彼女に未練はなかったのだから。

 

 私がレナの……未練になれなかったのだから。


 またそれが幸運だったのか、或いは不幸だったのか分からないが、レナの自殺は失敗に終わった。数十分の間、脳に酸素が行かず、彼女は植物人間となった。

 

 身請け先の人間は、それを喜んだらしい。そうメールに書いてあった。



 ――本当の意味で、その男は、生きた人形を手に入れたのだから。



 吐き気がしそうになるが、こんな話は、あるところにはあるものだ。植物状態の美少女は、人気の商品だ。身請けした少女を、意図的に植物状態にする輩もいる。


 そんな趣味嗜好をもつ人間はパーティーを催し、お互いの生きた人形を見せ合って、喜んでいるそうだ。


 止むに止まれぬ事情で、その悪趣味なパーティーに参加したことがあるという古参のスイス人の同僚が、昔、その詳細を語ったことがあった。


 私は想像した。

 レナもまた、そのパーティーに出席させられるのだろうか、と。


 豪華な調度品の置かれた、広い室内。アンティークドールの品評会のように、首座に置かれた椅子に並んで腰かける、少女たち。


 地位も名誉も財産もある大人たちに囲まれた、物言わぬレナは、その鏡のように輝く美しい黒髪を、彼らに……。


 私はレナのことを報らされて以来、日常に空白が生まれるようになった。

 仕事中は問題なかった。むしろ問題は、仕事をしていない時だった。


 今までこれに類したこともあった。担当した少女が、自殺したこともある。しかしなぜかレナの件が深く、深く、心に刻まれていた。


 その理由を、シエスタ中の静かな娼館の一室で、窓の近くに立ち漠然と考える。

 

 彼女が、日本人だったからだろうか。

 彼女が、まれに見る美しい少女だったからだろうか。


 彼女が、あまりにも呆気なく、私の日常から姿を消したからだろうか。

 彼女が、ブラインドチェスが上手かったからだろうか。


 それとも――。



「…………礼奈(れな)



 学校からの帰宅途中、男に浚われ、


『パパッ!』


 男の自宅でさんざん犯され、


『いってきま~~す!』


 殺された私の小学三年生の娘――。



















 彼女と同じ名前を、レナが持つからだろうか。



















 強烈な寒気に襲われ、ガタガタと体が震え出した。


 ――なぜ自分は、生きているんだ。


 見まいとしていた現実を前に、強い死の欲求が、自我の奥底から突如として湧き上がって来る。古い友に出会ったような、懐かしい感触。 


 人間には思考の習慣よりも先に、生の習慣が与えられている。それを乗り越えようとする、強烈な死への欲求。


 娘が凄惨な事件に巻き込まれて死んだ後、妻は後を追うように自殺した。彼女がうつ病にり患していることを知りながら、私は彼女の自殺を止めることが出来なかった。

 

 一人残された私は、男に復讐をしようと思った。

 自らのうつ病を投薬で誤魔化し、どうにかこうにか生きた。


 酷く傷み、壊れ、損なわれた、そんな自らの精神をじっと眺めながら、殺意を数年間溜めこんだ。


 そして男が一時釈放された際に、監督者の隙を見計らって、殺害に及んだ。

 その後、私も死ぬつもりだった。


 だが男を殺し、荒い息を吐きながら物言わなくなった肉の塊をじっと眺めたとき……男が、男があまりにも醜く汚かったので、何故か考えが変わってしまった。


 こんな男に、肥って、汚らしくて、饐えた臭いがして、こんな男のために、私の人生は狂ってしまったのか。


 そう考えだすと、生きることを考え始めた。


 私は時宜を逸さずに、通帳の数字を可能な限り現金に変えると、ヨーロッパ便の飛行機に飛び乗った。


 大学時代、私の妻を愛していた友人に向けてSOSを送った。彼は即座に、いくつかのプランを私に提示してくれた。


 それから私は牛が草を食むように、のうのうと生き続けた。


 一人の人間の命を奪ったにも関わらず、呵責の念に捕らわれることも、悪夢にそびやかされることもなかった。


 私は清々しく邪悪だった。


「は……ははは、ははは! はっは!!」


 死のうと思った。今が死ぬのに、いいタイミングだ。そう思った。

 自身がうつ病になりかけていることを、その時になって自覚する。


 じっと、震えが止まらない手を眺める。


 精神科医としての知識があるからこそ、自分のこの死の欲求が、一つの症状に過ぎないと私は知っている。


 だが私はひょっとしたら、この時をずっと待っていたのかもしれない。


 いずれ私の症状は、カウンセラーの仲間に見破られるだろう。

 ならば今だ。時宜を逸さずに、今、今だ、今、死のう。


 四十歳で死のうが、七十歳で死のうが、本質的な違いは、そこにはない。

 今であろうと、何十年後であろうと、死んで行くのは同じく、この私なのだ。


 これから先の人生を想像した際にも、わき上がる興奮はなかった。生きる。そのことに執着している自分が、急に馬鹿馬鹿しくなってきた。


 そうだ。妻も、娘も、未来も、希望も、なにもない! 私には、なにもない! なら生き続ける必要がどこにある?


「はは、ははははは、ははははははははは!」


 自殺の際に用いようと思っていたカリウムの溶剤は、日本から少量だけ持ち出して、今も自宅にある。死に向けて走りだす準備は出来ていた。


 人間は無意味な存在であり、すべてが無償である。その命題は、到達点ではなく出発点だ。そのことを認めた私は、クツクツと笑いだした。


 決意に満ちた面持ちとなって、顔を上げる。

 涙が一筋、零れ落ちてきた。


「……くっ」


 冷静な観察者としての自分が、果たしてそれでいいのだろうかと、疑問の声を上げた。思わず白衣のポケットに手を突っ込む。指先に何かが当たる感触がした。


 私は訝しみながら、手に触れたものを掴んで取り出す。

 そこには、レナとブラインドチェスをする際に用いた砂時計が入っていた。


 ――どうしてここに?


 そう考えた後、私は私に呆れ返った。


 レナの自殺を知らされた時から、私はそれを無意識の内にポケットに突っ込み、誰にも知られないように、事あるごとに手で触れていた。


 症状はあの頃から、進行していたらしい。


 私は前髪に表情を隠し、ソファに向かうと、幾分乱暴に腰かけた。

 薄く笑う。そして誰にともなく呟いた。


「e4」


 当然ながら、それに続く「e5」の声は返ってこない。

 微笑を口の端に浮かべながら、砂時計を机の真ん中に置き、ひっくり返す。



「砂時計の山頂が揺れなくなったら……君の負けになってしまうよ」



 声がざらついているのに気付く。自分の声ではないみたいだった。

 天界から美しく砂は零れ落ち、下界へと、なだらかな山を作っていく。

 

 もしこの世に愛と言うものがあるとするならば、それは紛れもなく、自分自身へのそれだろう。私は脈絡なく、そう考えた。


 人は、常に相手のことを考えている訳ではない。

 切れぎれの感情に抽象的な統一を与え、それを「愛」と呼んでいる。

 

 だがそれは単なる観念に過ぎず、他人を己のように扱うことはできない。


 その中で、私は必死にやったつもりだった。

 妻を、娘を、我がこと以上に愛した。だがその二人は、もういない。


「ふっ……ふふっ、ははっ!」


 自分が熱意を持った一人の精神科医の頃に、必死で愛そうとした患者たちの顔が脳裏を過る。彼らの誰一人として、今の私の生活にはいない。


「はぁ……はは」


 問題は、自分を愛せなくなった時だ。

 私は自分の孤独を眺めながら、そう思った。


 自分の命を、生を、自我を愛せなくなった時に、人はどうすればいい?

 人生の一切が無意味であり、無償であると知っている人間はどうすればいい?


 それでも、ただ粛々と生きる?

 ならそれに飽きた時、それに耐えられなくなった時、人はどうすればいい?



「わがこと」


 ――全て、終わりぬ。


 ソファに体を預け、虚ろな視線を宙に投げかける。

 次の瞬間、前にしか進むことの出来ない物言わぬ兵士が、私の前で動いた。























「e5」






















 その声を耳にした私は、驚愕に目を見開く。

 ゆっくりと、何かを恐れるように、声のした方に顔を向けた。


 そこには一人の少女。フランス人のエリカが、扉の近くに立っていた。

 私の視線を認めると、はにかんだように笑う。


「先生」


 そして私に歩み寄ると、言った。





「生きている間は、できるだけ、笑っていましょう」





 奇麗なフランス語で、彼女はそう言った。

 私が以前貸したオペラのセリフを……。


 そこで私は小刻みに震えた息を吐き出しながら、机上の砂時計を見た。

 砂時計の山頂は、まだ揺れていた。


「ど……どうして?」


 視線をエリカに戻し、苦しみに濡れたような声で尋ねる。

 すると彼女は、今度は照れたように笑って答えた。


「先生に聞いてもらいたいことがあって、少し早く来てしまいました。そしたら先生の笑い声が聞こえて、そっと扉を開けたら……」


 その言葉で全てを了解した私は、涙の跡を拭って微笑んだ。

 転移によって私に好意を寄せている彼女は、笑みを深めて言う。



「さぁ先生、私の話を聞いてくださいね」 



 私は立ち上がり、笑顔でエリカと対面しようと努めた。しかし……自身の中の抑え切れぬ物で胸が一杯になると、彼女を衝動的に抱き締めていた。


 エリカは私の胸の中で戸惑ったような声を上げたが、拒みはしなかった。

 細くしなやかな腕で、それに応じてくれる。 


「先生、聞きましたよ。レナ、死んじゃったんですってね」

「あぁ……あぁ!」


 私は嗚咽するように答えた。

 エリカが鼻から優しく息を漏らす。


「でも大丈夫ですよ、先生。私は死にませんから。辛いことにも、痛いことにも……慣れちゃいました。それに先生がいてくれるから」


 私の脳裏に、新米の頃に指導医に訊ねた言葉が甦る。


『先生、精神療法とは結局、どんなものと考えればよろしいんでしょうか?』


 その問いに、彼はこう答えた。


『それは患者さんを愛することだよ』と。


 私はまた、上手くやれるだろうか。私は彼女たちを愛せるだろうか。人を殺して何とも思わない、そんな私が、もう一度、もう一度……。


「私は、レナみたいに上手く出来ないですけど」


 エリカが私を見上げながら言った。


「今度は私とブラインドチェス、しましょうね」 


 自分が存在しようとしまいと、素知らぬ顔で世界は日々を刻み続ける。

 しかしその世界で、私にはやり残されたことがある。




 そのことを知った私は、声を上げて、しばらく泣いた。

 



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