第8話:罪深き赤身肉と、地獄のダイエッ特命
第8話:罪深き赤身肉と、地獄のダイエット特命
(投稿日2026年7月1日)
あの佐々木事件から、早くも3ヶ月が過ぎた。
本格的な夏が到来した7月。東京湾の埋立地から吹き込む、潮風の混ざったまとわりつくような湿熱を避けるため、オフィスの冷房は常に18度という極寒に設定されている。
佐々木が去った後の経理部の穴埋めと、営業1課の狂犬チワワどもの再教育という凄惨な二重苦に忙殺された俺は、連日の深夜残業と、そのストレスによる夜食のドカ食いを重ねていた。
その代償は、容赦なく数値となって返ってきた。
「フゴッ……嘘だろ……再検査……!?」
デスクで健康診断の結果用紙を握りしめ、俺は絶望の淵に立たされていた。
『体脂肪率:要注意ライン超過』『首周りの脂肪増加による、著しい睡眠時無呼吸の兆候あり』。
真っ赤なスタンプが印字された用紙を見つめながら、俺は己のウエストに手をやった。お気に入りのスラックスはボタンが悲鳴を上げて弾け飛び、今やウエストがゴムの黒ジャージで誤魔化すしかない有様だ。
パグをはじめとする短頭種にとって、首周りの肥満は単なる体型問題ではない。ただでさえ狭い気道が脂肪でさらに塞がり、夜中に何度も呼吸が止まる。
ジャパウ国のシビアな企業社会において、それは「自己管理能力の欠如による生産性低下」とみなされ、最悪の場合は産業医の判断で閑職へと左遷される致命的な烙印(リストラ宣告)に直結する。
(……笑えない。チワワのケツを拭く前に、俺の呼吸とキャリアが止まる……!)
絶対的な危機感を募らせた俺は、その日の夜、極寒の無人オフィスで一人、本格的なシェイプアップを開始した。
手始めに、腕立て伏せを試みる。だが――パグ特有の絶望的な短足に加えて、パンパンに膨れ上がった樽型の腹が床に完全につっかえてしまった。結果、手足が宙に浮き、床の上でじたばたと空回りしているだけの哀れな亀と化していた。
「フゴッ……!? 顔のシワが床に押し付けられて……息が、ひゅーっ!」
腕立て伏せの姿勢を保つことすらできず、圧迫された気管が悲鳴を上げる。激しいパンティングとともに、口からは滝のように涎が滴り落ちた。
床で己の骨格と脂肪に完全敗北していると、聞き覚えのある足音が近づいてきた。そういえば、残業の監視役として呼び出していたのだった――相棒のペキニーズ・田中が、タッパーに入った黄金色の物体を差し出してくる。
「山田さん、お疲れッス。業務スーパーで買い叩いた安物のサツマイモで作った『冷やし焼き芋』です。会社の電子レンジで熱を入れてから、給湯室の冷蔵庫でキンキンに冷やしておきました。糖度が羊羹みたいに凝縮されて最高ッスよ」
「……ッ!? た、田中……お前、俺を殺す気か……!」
途端に、冷え切ったオフィスの中に、ねっとりとした冷たい蜜の香りが充満した。犬種一、鼻の鈍いパグの嗅覚すらダイレクトに破壊するほどの圧倒的な暴力。パグの本能が「噛みつけ! 呑み込め!」と大音量で警鐘を鳴らす。
「いやいや、俺はさっき給湯室で胸と背中を追い込んだんで、カーボ補給ッスよ。冷やすことでレジスタントスターチが増えて血糖値が上がりにくい、俺たち底辺向けの最高の筋肉メシですから」
スーツの下のバキバキの大胸筋を揺らしながら、悪びれもせず冷たい芋を頬張る田中。よだれが顔のシワの奥から決壊しそうになるのを、俺は必死で拳を握り締めて耐えた。
「いらん……! 俺は今日から、生まれ変わるんだ……!」
血を吐く思いで黄金の誘惑を突っぱね、俺は持参したシェーカーを取り出した。中身は、動物病院の栄養士から「短頭種の減量用」として推奨された特製プロテインだ。
「ごくっ……ごくっ……ぐふぁッ!?」
一口煽った瞬間、凄絶な喉越しが襲った。
同盟国から輸入された家畜飼料用の雑魚の魚粉と、安価な食用昆虫をすり潰した泥水のようなペースト。それが短頭種特有の長過ぎる軟口蓋(喉の奥の肉)にどろりとへばりつき、気道を完全に塞ぎにかかる。
「かはっ……ひゅうぅぅっ……げほっげほっ!」
不味さと窒息で白目を剥いて悶絶し、給湯室の浄水器の水で喉の奥へ強引に流し込む。
呼吸を整え、涙目で天井を見上げた俺のお腹は、相変わらずぽっこりと膨らんだままだ。
巨悪を倒しても、会社の理不尽は終わらない。
そして何より、36歳の身体に襲いかかる「加齢と肥満」、そして「突然の左遷リスク」という新たな敵との戦いは、まだゴングが鳴ったばかりだ。
魚粉と虫の泥臭い後味を噛み締めながら、俺はジャージの紐を緩めた。
俺の健康数値も、股の間に挟まった短い巻き尾も、適正値に戻るまでの道のりは果てしなく遠い。




