第7話:極上の赤身肉と、やっぱり上がらない尻尾
第7話:極上の赤身肉と、やっぱり上がらない尻尾
(投稿日2026年4月10日)
経理部の佐々木部長が「自己都合による突然の退職」という形で会社を去り、社内のざわめきがようやく収まりかけた金曜日の夜。
定時を過ぎ、静まり返ったオフィスで、俺のデスクの電話が低く鳴った。
『山田。最上階へ来い。……一人でな』
黒川会長のダミ声だ。俺は鼻筋の深いシワの間に嫌な汗を滲ませながら、エレベーターで最上階の会長室へと向かった。
また何か恐ろしい火消し業務の押し付けか――そう身構えて重厚な扉を開けた俺の鼻腔を、暴力的なまでに芳醇な香気が突き抜けた。
会長室の重厚なテーブルの上に置かれていたのは、鉄板でじっくりと焼き上げられ、丁寧に一口大にカットされた極上の『赤身牛ヒレ肉』だった。大豆由来のフェイクミートではない。噛み応えと本物の血の匂いが凝縮された、文字通り肉食獣の本能を揺さぶる「禁忌の一品」だ。
「座れ、山田。……流石に昨日の『大豆樹脂のレプリカボーン』では、お前の貧弱な顎が砕けると思ってな」
火のついていないモンテ・クリストの太い葉巻を指先で弄びながら、黒川会長が不敵に目を細める。
「佐々木の横領補填金から、ごく一部を『極秘調査の経費』として処理し、猫型富裕層向けの闇ルートから仕入れた本物の熟成赤身肉だ。お前のような大豆しか食い慣れていない中年パグの胃袋でも、急性膵炎を起こさずに済むよう脂肪分の少ない部位を選ばせてある」
「か、会長……! こんな密輸品、監査に見つかったら……っ!」
口ではコンプライアンスを口にしながらも、目の前のリアルミートから放たれる圧倒的な香気に、俺のハードボイルドな理性は一瞬で瓦解した。
震える手で専用の銀串を握り、一片を口の中へ放り込んだ瞬間、濃厚な本物の肉の旨味が舌の上で爆発した。
「……っう、美味い……! ブヒューッ、胃袋に染み渡る……!」
涙が顔の深いシワの奥に溜まっていく。朝から泥臭く走り回り、満員電車に揉まれ、狂犬チワワどものケツを拭き続けたこの1週間の苦労が、温かい肉汁とともに身体へとなだれ込んでいく。
「あの……会長、これ、命がけで陽動を引き受けてくれた田中の分は……?」
「安心しろ。あの筋肉ペキニーズには、すでに1階で特大のフェイクチキン・バケツを持たせて帰らせた」
流石は会長、手抜かりがない。恐怖と疲労で股の間に垂れ下がっていた俺の尻尾が、無意識のうちに本来の張りを取り戻し、背中の上できゅっと力強く巻き上がっていた。
「ゆっくり味わえ。……ただし」
会長が冷酷な笑みを浮かべ、一枚の分厚い書類束をテーブルの上に滑らせた。
「来週からは、佐々木が空けた大穴の事後処理……つまり、架空発注先への謝罪行脚と債権回収、そして営業1課の狂犬どもへの『コンプライアンス再教育の専属サンドバッグ役』もお前が兼任しろ。この肉は、その前払いだ」
「……ヒュゴッ!?」
気管の狭い喉に本物の肉が詰まりかけ、俺は猛烈に喉を鳴らした。
やっぱりだ。この狸親父が、ただで美味い肉を食わせるはずがなかったのだ。
一瞬の特権階級の夢は見させてもらえても、直後に手渡されるのはさらなる過酷な残業と理不尽な尻拭いのオンパレード。
「……美味い肉には、相応の猛毒があるってことですね……」
「くっくっく……察しが良くて助かるよ、山田」
背中の上で勢いよく巻き上がっていた俺の短い尻尾は、すべての活力を失い、再びだらりと股の間へ垂れ下がった。
冷めかけた肉を最後の一片まで噛み締め、重い足取りで会長室を後にする。
明日からは週末。だが、来週月曜日からの地獄のダブルワークが俺を待っている。
東京湾の海風が吹き込む深夜の本社ビルを出ると、アスファルトの冷たさが肉球から伝わってきた。
満腹になった重いパグ腹を擦りながら、俺は夜の街へと踏み出した。
俺の丸まった短い尻尾が、心からの喜びで上を向く日は、まだまだ遠そうである。




